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つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

水戸天狗党の戦い 〔戦闘の概要〕

2013-04-11 | 茨城県南 歴史と風俗

水戸天狗党の戦い 〔戦闘の概要〕

戦いの経過 

 はじめ筑波に登った同志はわずか百数十名にすぎなかったが、
小四郎らは、変革ムードに酔っていたこと、
長州の桂小五郎らを通じて軍資金を得たばかりでなく、
東西呼応して尊接の兵を挙げる計画が背景にあったことなどで、
挙兵の成功を信じ、幕府をして攘夷を実行させることができるものと確信していたらしい。

 だが彼等筑波勢は、山上の不適当なことを知って1週間で山を下り、
下野の日光から太平山(栃木県栃木市)方面に宿陣して同志を広く四方に募り、400名近くになった。

 しかし小四郎とは学友で、逸材の田中愿蔵(げんぞう)のように、
軍資金の調達や、栃木の街での火付けなどで、地方民に恐れられ、
本隊と意見が合わずに脱退する者もあって、軍の統制は意外に困難であった。 

 その後筑波に戻ってからは、一時1000名余りにもふえ、
慕府の追討軍や、慕命で出陣した下妻・下館・土浦・結城そのほか常総諸藩の兵を破って気勢をあげた。

 それは一つには幕兵や諸藩兵に戦意が薄かったからであった。
結局戦意をもって天狗党討伐に活躍したのは、門閥派の家老市川三左衛門を陣将とする諸生党であった。 
諸生党は水戸城を占拠して、水戸にいる天狗党の家族らを虐待した。 

 幕府では、悪名高い田沼意次の子孫で、当時若年寄の田沼意尊(おきのり)を、
常野追討軍総括に任命し、諸藩兵と筑波を包囲した。
1864年7月小四郎ら筑波勢は山を下って、
小川・潮来方面に屯集し、あるいは水戸周辺に出没して諸生党と戦った。

 彼等が激文に明らかにしたような、尊皇攘夷の実践は忘れ去られたかのように、
水戸藩士民どうしの天狗・諸生の争乱と化した感が強かった。
そのため水戸領以外の諸地方から馳せ集まった同志のうちには、脱隊する者も少なくなかった。

 このような天狗・諸生争乱の舞台は、元治元年(1864)8月ごろには、
水戸の外港で大洗に近い那珂湊周辺に移った。


 このころ京都では長州藩に対して、幕府から第一回征討令が出され、
長州藩を中心とする討幕論が、新時代形成の目となっていた。
水戸地方では10月下旬まで、那珂湊の戦いが展開された。

 この戦いではじめて、元家老の武田耕雲斎および配下の一隊が筑波勢と共同戦線をはった意義は大きい。
耕雲斎は天狗派の長老であったが、小四郎らの挙兵には、尚早論を唱えてたしなめてきた。

 この戦いでは水戸藩士民の間に戦死がめだった。 

 天狗党は戦い利あらず、
10月下旬那珂湊を退いて北行、久慈郡大子(大子町)に集結し、
1000余名にのぼる天狗党一隊の総大将として、62歳の耕雲斎を戴くことにし、
西上して京都に至り、天狗党の心情を朝廷に歎訴することに決定した。

 大部隊はこれを七隊に分け、11月1日大子を出発した。 
 西上の途中厳しい軍律のもとに、苦しい行軍をつづけ、
力つきて敦賀に近い新保の本陣で、涙をのんで降伏に決し、
12月16日武田耕雲斎以下823名が加賀藩に降った。

 水戸領を出てからの約50日の間には、上州の下仁田戦(群馬県)、
信州和田峠(長野県)の戦いなど、幕命を受けた諸藩兵との苦しい戦いもあった。

 藤村の名作「夜明け前」は、木曽路を通り、
馬籠の宿に一泊した天狗党一隊の行動を劇的に描いて有名である。

          天狗党西上経路略図
  

       勢谷義彦・豊崎卓著「茨城県の歴史」山川出版社184頁


 さて降伏した一隊は慶応元年(1865年)正月、敦賀海岸のニシン倉に監禁され、
翌2月耕雲斎・小四郎ら352人が斬罪、ほかは遠島、追放などの罪に処せられた。

 さらに耕雲斎・小四郎ら幹部4名の首は水戸に送られて晒された。
そのうえ耕雲斎の一族は、3歳の幼児まで殺害されるという、悲惨をきわめた党争の終末であった。
こうして天狗党は、主力の大部分を失い、水戸藩士民どうし、互いに消耗を続けたのであった。 

 この争乱で、天狗党と呼ばれた者には、
水戸藩の天狗党だけでなく、
さまざまな士民が、各地から集まって、離合集散を繰り返した面も多かった。
尊皇も敬慕も、不平も破壊も同居するといった性格も見られた。

 明治・大正になって殉難者とされた天狗党1942名のうち、
士族・卒族(もと足軽などの軽輩)合わせて575人に対し、
農民を主とする一般庶氏が756人とはるかに多く、
神官・修験・郷士・郷医といった村の有志も130~140人に及んでいる。
 
 また天狗党各人の出身地は、水戸領が2200余人と断然多いが、
そのほか常総の全域、関東各地に及んだこと、
その年齢層を見ると、19歳から29歳までが圧倒的に多かった。

 そして、天狗党の指導層が、農村有志と手を結んだ下士層にあったことなどを考えると、
封建身分を越えて、“尊王攘夷”の旗印の下に、
正義感の強い青年らの旗揚げであったという一面も浮かんでくる。  

 しかし水戸藩はこれ以後、諸生党の政権となり、慕末の政局から大きく後退した。
 あれほど尊攘改革派から嘱望されていた慶喜が、
慶応2年(1866)8月、15代将軍になっても、それを支える力は水戸藩にはなかったばかりか、
天狗残党の中にも慶喜への不信感が湧くという時代の変転があった。 

 水戸藩は、完全に天下の水戸藩の地位を、名実ともに失っていた。
 慶応3年(1867)12月9日、王政復古の大号令が出たときも、
水戸藩では一般にまったくよそごとのような感じであった。
維新政府は水戸藩不在のうちに成立したのであった。

 むろん水戸藩以外の常総諸藩も、はなはだしい党争はなくとも、
政治の力をもっていなかった。


    以上、瀬谷義彦・豊崎 卓著「茨城県の歴史」山川出版社 182~185頁  




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