筑波山参詣と登山
〔庶民の社寺参詣〕
江尸時代になり、民衆の上昇や交通環境の整備により庶民の社寺参詣が急増した。旅の苦痛がなくなり、安易にできるようになると、信仰より遊楽・観光化が進んだ。これが門前町を一層発展させる要因となった。
筑波町へはどれくらいの参詣者が訪れたのであろうか。寛政から天保にかけて日光の一日の平均宿泊者は約100人、幕末の成田では旅籠屋34軒あったが、約100~140人位であったと伝えられている。これらに比べれば、筑波での宿泊者も平均して100人を上まわることは少なかったと推定される。これでは一軒当たりの宿泊者は一日に4人程度、旅籠屋経営は困難であった。門前町に参詣客を集めるために開帳や遊女など誘客対策が取られた。
参詣客が往来した道
〔北条、つくば道石柱〕
〔神郡の街並み〕
〔一の鳥居〕
宝暦9(1759)年に建てられた。
この鳥居から上が神域で、
御座替わりの神輿はここまで下りてくる。
〔つくば道三叉路付近〕
上は東山へ、撮影地点足元から左は西山地区へ至る。
〔筑波1丁目 〕
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〔賽銭〕
参詣者の奉納した賽銭については、安永7(1778)年に凡そ銭600貫位、文政13(1830)年には賽銭凡そ120両余、御札料金130両余でかなり多額になる。これは宿泊者だけでなく近隣の村からの日帰りの者が加わるので額が増えるはずである。山麓の村では、村の代表だけが参詣し、村全体の賽銭や御札料を奉納することが多かった。
〔著名人の参詣〕
多くの参詣者のなかには多くの著名な武家や文人・墨客がいた。
徳川光圀は2回登山している。明暦2(1656)年には、4町目の山伏宝積院が山案内し、2町目広瀬長左衛門宅に宿泊している。2回目は元禄3(1690)年で、藩主を引退した直後の江戸からの帰国の途中である。
天明元(1781)年に登山した俳人大島蓊(しょう)太は「筑波紀行」を著し、弟子の杉野翠兄はその翌年に6町目の登山口に嵐雪の「雪は申さずまずむらさきのつくはかな」の句碑を建てた。
天保4(1833)年に参詣した市河米庵は、幕末の三筆の一人で、当時は55歳であった。筑波4町目の杉田平輔は江戸上屋敷の役人を勤め、米庵と親交があった。
〔開帳と御師〕
参詣者を増加させるために行われたのが開帳と御師の活躍であった。開帳は大御堂の本尊や秘宝を拝観させるものである。出開帳は宝暦4(1754)年に江戸の深川八幡で、弘化4(1847)年と安政2(1855)年には江戸の回向院で、いずれも千手観音を開帳している。
筑波での居開帳では文化2(1805)年、3(1806)年、10(1813)年、文政5(1822)年に行われている。文化10(1813)年の居開では2ヶ月の開帳期間中だけで158両の賽銭が集まり、護持院に30両を上納している。参詣者は御札料、宿泊や飲食・土産物等にこの何倍かをつかったであろうから、開帳により一時的ではあるが町は活気づいた。
御師は祈疇に従う身分の低い社僧で、御祓を配りながら信者を集め、参詣者の案内や宿を業とした。元禄頃の筑波では2軒しか確認できないが、真壁郡羽鳥村の指出帳には「筑波山牛王(ごおう)御師」として百姓13人が記されている。御祓配りは常陸国内だけでなく武蔵国までも行われ、信仰圏の拡大に役立った。
筑波山では、古くから山全体が信仰の対象となっていた。山頂の男体山、女体山にそれぞれの本殿を奉斎しているが中腹の山王・春日両神社は山頂の両大神を勧請した宮である。山頂の両本社の摂末社が山内のいたる所に存在した。明治維新後の「神社明細張」によると、神社合祀以前は全山に109社の境内社(摂末社)があったことがわかる。
男体山神社
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女体山神社
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〔神仏習合〕
中世以後、神仏習合の様相が具体的に説かれるようになると、山頂の男体は千手観音の垂跡、女体は正観音の垂跡に比定され、男体の左右の五つの霊崛は金剛界如来に、女体の前後の九峯は胎蔵九界の曼陀羅に、筑波六所明神は六観音にあてられた。
従って筑波山登拝者にとっては全山が信仰対象となり、中腹の知足院大御堂から山頂に登拝することにより山内にある日本国中の詰神・諸仏の信仰を文字通り満喫できた。
白蛇神社
このような登拝者のために、山内の名所旧跡の案内書や地図が刊行された。安永8(1779)年に出された上生庵亮盛著の「筑波山名跡誌」では、男体山路の陽交鳥居を初め14ヶ所、女体権現社地の鳥居木ほか23ヶ所、女体路の陰交鳥居ほか5ヶ所、そのほか岩洞禅定地や六所神社など13ヶ所、計64ヶ所の名所旧跡を挿絵入りで紹介している。
〔禅定〕
峯入り岩窟での修業を禅定と呼び山内の岩窟、巨岩、神水、神木などが修業の場所とされた。これが褝定場であり、筑波山は神定山とも呼ばれた。
女体山付近の禅定場について「筑波山名跡誌」に、稲村の社地に高さ89丈の奇峰あり、共の嶮岨の岩角をよじのぼり又一段高さ向の岩山へ飛移る。移り得れば曠々たる岩山にて四方の眺望かぎりなし。土人是をはね禅定と名づけ、貴賤老若みな行伝する事也 とあり、稲村社地の険しい岩山を跳びはねた様子がうかがわれる。
裏面大黒
母の胎内
北斗岩
陰陽岩
安永7(1778)年の「院代用意記」によると、褝定は5、6月中の3日間、先達の修験者によって登拝が行われ、町内の大学坊・南宗院・宝積院がその任に当たっていた。安政6(1859)年の宝積院の記録には修業者は「禅定一ヶ月間の夏山開講」を組織し、先達の指導を受けながら、全山150ヶ所の禅定場を回峰して錬行体験を積んだ。山中の講員は常陸・下総・下野の3ヶ国にわたり2650人に達した。
〔御座替わり〕
筑波の一山にとってもっとも大切な祭礼は、御座替わり祭である。神事から見た御座替わり祭は新しい神迎えのために古い御座を替え、新しい御座を用意するための祭りである。
具体的には4月1日に御田植えの守護を祈るため山から神を迎え、11月1日は秋の収穫祝いをするため、再び山から神を迎える祭りであるといえる。
この日には近隣諸村からの参詣者も多く一年間で最もにぎわった。市が立ち、旗本井上氏の神郡陣屋の役人も祭礼の警護に加わった。
〔講〕
地域社会に密着した講では、筑波と山麓の諸村に頭人祭(当人祭)があった。「御六神講」と呼び頭(当)家が筑波神社の御札を受け、頭家で頭人祭を行っている。筑波山の北西山麓の椎尾村(真壁町椎尾)では、「大同祭」、東麓の柿岡村(八郷町柿岡)では「筑波講」という名で営んでいた。そのほか嵐除、疫病除を祈願して行われる「総登り」があった。
嵩敬者が結成する大きな団体では、古くから「筑波講」と総称している講があった。この講には2種類あり、一つは前述の禅定修業を目的とした「褝定講」であり、もう一つは一般の登拝祈鳶をなす「太々講社」で、春秋2回登拝して太々神楽を奉奏して祈願を行った。
〔山頂への登拝路〕
知足院境内から山頂の奥宮への登拝路は次の4つがある。
一 臼井村の六所から白滝を経て女体山へ登る道
二 東山から直接に女体山へ登る道
三 知足院境内から直接に男体山へ登る道
四 沼田村から男体山へ登る道
このなかで、古来から正式の登拝路とされているのは二と三で、一般にも男体山路から登って御幸ヶ原を通り、女体山へ出て女体路を下るのである。これは、春と秋の御座替わり祭の御輿の神幸路であって、儀式祭典上からも重要な登拝路であった。
登山道 〔正式の登拝路とされているのは二と三〕
〔大御堂〕
大御堂は坂東33番札所の25番にあたり、24番の楽法寺(真壁郡雨引村)と26番清滝寺(筑波郡小野村)を結び、札を納める巡礼者も参詣した。
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