宮大工の筑波乃正伍郎さん
ガマの油売り口上を演ずる寺田さんは、「木組み」という日本古来の特殊な工法で神社仏閣を建築・補修する技術を持つ、数少ない宮大工さんである。寺田さんの工房には、修復倣頼を受けている築400年以上のお宮に使う小さな部材がきれいに箱に並べてある。大工歴40年超、細かな彫刻を施すために使う100種類以上ものノミが宮大工としての技術の高さを表している。
寺田さんは「寺田建築代表寺田正男」、別名「筑波乃正伍郎」という筑波山名物、ガマの油売り口上保存会の会員である。ガマの油売り口上と出会う前は、“典型的”な無口な職人で人と話すことも会うことも苦手、地区の集まりも女房に行かせていたと語っている。
その寺田さんが変わったのは、10年くらい前、大衆演劇のファンで、写真を撮ったり、遠くは名古屋まで観に行ったことだった。“追っかけ”をやっているうちに次は自分が観られる側に立ってみたいって思うようになった。「南京たますだれ」と「ガマの油売り」に出合い、「自分でもできるかな」と思い講習を受けたとのことである。それが、今では週末になると筑波山神社で口上を演じる常連、昨年1年間で筑波山神社に通った回数は約70回に上る。
また、写真の腕前も相当なもの、プロ並みである。寺田さんの工房には、この時に撮影し大きなパネルに貼った役者さんの写真が多数保管されている。南京玉すだれも上手い、能面も彫る。これはと思ったことに打ち込む姿勢、ひたむきな姿に接すると、これが職人さんなのだとつくづく思う。
筑波山神社・随神門脇の広場で口上を演じる時、他の者が口上を演じて時間に余裕が有るときには、自ら手がけているお宮の建築に使う部材を彫りながら、筑波山神社や随神門を指し示しつつ“今彫っているのは○○の部分だ”と説明してくれる。度々これを聞いていると筑波山神社も随神門も重機がない時代に、大小様々、多数の部材を釘一つ使わず地震にもびくともしないように作られていることが分かる。
以前であれば、古いが立派な建物だとしか表面的にしか見ていんなかったであろう神社や門が見事な建築物であることが徐々に分かってくる。“猫に小判”とか“明き盲、(あきめくら)”と言う言葉がある。寺田さんに出会わなければ、由緒ある神社や門を“見ても見えず”、“聞いても聞こえず”で、日本の歴史的建造物の見事さ、技術の高さを理解することはできなかったはずである。
ガマの油売り口上、南兄玉すだれ、能面づくり、尺八と多くの趣味を持つ寺田さんは、筑波山神社でガマの油売り口上を演ずるにふさわしい宮大工さんである。
竜ヶ崎市の㈱竹屋の業界紙 『ももいろバンブー通信 2月号』(2015年2月1日発行)
筑波山神社 随神門
トラックや重機がない時代に木材を運びあげ建てる労力、人より太い木材を左右に組み立てる技術、多数の部材の設計図など考えると奥が深い。 釘を一本も使わなくても地震があってもびくともしない。
屋根
多数の木材がしっかり固定されている。 雨は下の石で作られた溝に落ちるようになっている。
門の内部
左右上下に組み込まれた太い木材
がたつかないよう しっかり固定されている。
つくば道
北条の街からホテル・青木屋の横を経て筑波山神社へ至る「つくば道」。
神社造営の木材はこの道を運ばれた。多数の人馬が行き交った。
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上の写真の道と並行に設けられた道 坂が緩やかになっている。
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徳川幕府の筑波山信仰と門前町の形成
慶長7年(1602)に徳川家康は、筑波山神領として供僧別当(ぐそうべっとう、住職)あてに筑波郷5百石を寄進した。さらに慶長15年に家康はこの500石を筑波山神社の別当寺である知足院あてに寄進し直している。
筑波山は江戸城の北東方向にあり、この方角は鬼が出入りする鬼門といわれ、何事にも忌み嫌われていた。そこでこの方角に神仏を祀り、災難を除き避けようとして知足院を保護した。以来、知足院は江戸城鎮護の霊山として信仰され、幕府の祈願所となった。
知足院の僧となった光誉は2代将軍の秀忠との関係を強め、江戸城奥向きの祈祷に関与し、江戸に護摩堂を建立した。これが江戸知足院である。
3代将軍家光は寛永3年(1626)から幕府の費用による筑波山諸堂社の造営に着手し、10年には知足院中禅寺の本堂(大御堂)、山頂の両本社、摂社や三重塔、楼門などの付属の建物が落成しました。新築されたたくさんの堂社は目を見張るばかりの美しさであったと伝えられている。
建築資材を運ぶために北条(現在、つくば市)から新たに道路を作り、これを参詣者のための登山路とした。山腹の登山道の両側には諸職人を住まわせ、知足院を中心に30数軒の僧坊が建てられ、宿屋、土産物屋、遊女屋、小間物屋などができて門前町が成立した。
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