高須芳次郎著『水戸學精神』
第十 東湖の皇道思想と政敎一新策
(一)幽谷の新思想と東湖の傳承
幕末非常時に當って、最も必要なことは、軍事科學を本とした國防の充實と共に日本 民族性に卽した獨自の國民思想的基本を打建てる上にあった。東湖は、この二つの要求に向って、光を與へ、力を與へて、困難打開の上に大きく貢獻したのである。
東湖の思想は、大體、その先考、幽谷から來てゐる。幽谷が「及門遺範」に傳へられた如き獨自の思想、學説を創成してこれを門下に敎示したことが、やがて東湖にも强い感化を及ぼした。幽谷の思想は、儒教流の趣味をも帶びてゐるが、その大本は、皇道發揚を主眼としたところにある。それにおいて、政敎一新の意圖を示し、時代卽應の體制を現はして、情弊打破に力を注いだ。
が、その說くところは、『勘農或問』『二連異稱』を除くと、概ね詳密を缺き、且つ組織•體系づけられてをらぬ。從って、説明が十分でない憾みがある。
東湖は、幽谷のあとを承けて、その思想を擴充すると共に、これに組織化體系化を與へ、更にその足らないところをも補ふことにつとめた。即ち幽谷の皇道思想は、東湖に至って、一段の發展と飛躍とを見たばかりでなく、その全國の志士・國士らに與へた影響は、可なりに廣くまた深かった。
惟ふに、東湖の根本思想を耍約して、これを端的に説明したのは、左の言葉で、東湖の内的生活、外的生活は、これによって、基礎づけられたといつて宜いのである。
「古を稽(かんが)へ今に徴し、神聖の大道を發明し、武を尚び、文を右け、天地の正氣を鼓舞す」
かく東湖は、神聖の大道――皇道を基調とし、神州の正氣を發揚し、忠孝・文武の一致を旨とすべき必要を明快に強調し、自ら戒め、他を励ました。
在來、當時の思想家、學者の多くは、道德といへば、孔孟の道德に限り、學問といへば、支那學を主とする風に囚はれ、そこに、日本の歷史に顧みて、神聖の大道を明かにしようとするものが殆どなかった。この點に、大きい不滿を感じたのは、彼の父幽谷だった。
幽谷は、ひとり、孔孟硏究に留まらず、進んで、國典・國史の研究を必要とし、日本歴史の知識を背景として、民族性を本とした道義を門下に教へたのである。
さうした系統を追うて、東湖は善を宣揚することに全力をそそぎ、詩文に、手紙に、行動の上に、皇道の光輝をふかく天下に及ぼさうとした。ここに東湖の思想上に於ける目ざましい進展のあとを見ることが出來る。
(二) 忠孝一體主義と國民道徳説
惟ふに、東湖の思想は、幽谷の哲學的気脈を継いで、宇宙の根本生命としての大道の存することを認めた。或は、これを「生々自然の道」とも東湖はいった。それが具體化されて、永き年月に亙って、不断に發展し、國家生活の上に反映したのが皇道であるとした。
即ち皇道は、一方において、宇宙の大生命にひとしい偉力を有し、他方に日本民族性に裏づけられて、無限無窮に生々進展してやまない本質と作用とを持つことを、東湖は認識したのである。
この認識のもとに、東湖は、新しい國民道德を建設した。その諸要素は、既に幽谷の説を傅へたところの『及門遺範』中にあるが、これを整理して、一個の組織的體系化を行ったのは、東湖だった。それは、孔孟流の道徳を無批判的に日本國民に傳へた在來の固陋極まる道徳説と全く内容を異にしたものである。
先づその態度において、見るべきは、その中正・調和・綜合を重んじた上にある。即ちすべての點において、一方に偏ることなく、日木國民性に徹した諸徳目を綜合し、中正・調和を旨として、茲に國民道德を立派に打建てた。それは、大道なる絶對根本生命のもとに、忠孝・文武・學問と事業の一致及び神道と儒道との調和を可能とし、これによって、 億兆一心、擧國一和の態度心構へのもとに、非常時國難を元氣よく突破しようといふのである。
尚ほこれに附加した重要素は排佛・排耶であり、殊に攘夷——欧米の侵略主義打倒だった。この思想は、明かに『弘道館記』の上に示されてゐる。
先づ東湖は、大道について説を為し、「道とは何ぞや。天地の大經にして生民の須臾も離るべからざるもの也」といひ、更にこれを敷衍して、「蓋し天地あれば、天地の道あり。人あれば、人の道あり」といひ、大道なるものが、天地人三才を一貫し、その中に 於ける人道が人間社會、國民一般を規制するものとした。
玆に一言して置かねばならぬのは、大道の具體化が天にあるといふ考へ方である。漢の董仲舒は「道の大原は天より出づ」といったが、東湖も、この儒教流の考へを採り入れた上、更にこれを日本化し、その天とは、天日―太陽であり、その太陽をシムボライズされてゐるのが天照大御神であらせられると解釈した。
ここに支那流の敬天思想から離れて、日本流の思惟を明白に言い表したことが分る。かうして、生民卽ち日本國民は、 天照大御神の御仁慈、御偉德を太陽の如く、完全そのもの、直善美そのものとして仰ぎまつると共に、大御神の御垂示を尊崇するに至ったと東湖は、解釈してゐる。
そこに、全く日本流儀の考へが現はれてゐて、在來の孔孟の道徳論とは、根本において、著しく、異なるのである。
次ぎに大道から派出したところの諸徳目は、この人生、この國家において、缺くことの出來ない重大要素である。蓋し絶對最高の眞理は、常に古くして、常に新しい。その名稱の古い故に、その内容を過去的存在とするのは、尚ほ太陽を古いとして排斥するにひとしい。その愚や、甚だしい。
忠孝一致は、蓋し人間の至情に基づいた美德で、永久に滅しない絶對眞理である。要するに、それは、「まこと」の發露にほかならない。君主に對する「まこと」が忠道であり、兩親に對する「まこと」が孝道である。人間として君主の恩、父母の恩を知る以上、これに對して「まこと」を捧げるのは、人情の自然だ。そこに何の理窟も理論もない。
ところが、西洋では、この忠孝の意義に對して、冷淡であり、支那では、孝第一主義で、忠道軽視に終始してゐる。それは、國柄の然らしめるところであるが、人情上、不合理、偏頗を免れない。玆に、『弘道館記』の忠孝一致主義の合理的絶對性がある。
これについて、東湖は「人道は五倫より急なるはなし。君父より重きはなし。然らば、則ち忠孝は名敎の根本、臣子の大節、而して忠と孝とは途を異にし、歸を同じうす。父に於ては孝といひ、君に於ては忠といふ。吾が誠を盡す所以に至っては則ち一なり」(『弘道館記述義』)といった。即ちその根柢に横たはるものは、「まこと」である。
(三) 文武一體主義の思想その他
次ぎに文武・學問及び事業の一致は、前者において、剛柔の調和を意味し、後者において、理論と現實との合致を示してる。剛(武)と柔(文)とは、互ひに極端に流れることを許されぬ。剛は柔を補ひ、柔は剛を助けて、玆にその作用、效果を全うする。
支那では、柔(文)のみを重んじ、剛(武)を輕侮するがために、却ていろいろの弊害をかもし出し、平和を希望するに反して、戦爭が絶えぬぬ。日本においては、以上二要素の調和を主として來たから、玆に平和の持續性がよく保たれてゐる。故に、東湖は、文武調和の必然性を力説したが、その文とは、心文であり、その武とは、心武であり、皮相的文、皮相的武を斥けた。
それは、唯虚飾的存在でなく、實人生に能動的、積極的に働きかける文道・武道を認識したのである。そこに、東湖の時弊刷新の心持と卓越した見方が現はれてゐる。
更に東湖は、學問と事業とが、はなればなれになることを非とし、この二つの合致性を高調した。學問のための學問は、これを認めない。學問するのは、これを實地の仕事の上に役立てることである。思索し、研究することは、これを「行」の上に持ち來たす意である。
それは、少しも、矛盾・背離すべきものではなく、相卽不規の形で、一致する性質のものに抵かならない。
「行」を離れて學なく、學を離れて、「行」はない。蓋し東湖がこれを高調したわけは、當時、學問のための學問が行はれて、形式的、無生命に墮し、或は保守・固陋に陷り、時弊を多くかもし出したからである。
それから神儒一致を唱へたのは、ひとしく、日本主義に起った國學一派の排儒思想に異なつた點で、東湖の見解によると、日本的思惟は、支那の實學たる儒敎と共通點を五倫説の上に持ち、頗る密接した生命の流れを有する。且つ儒敎の理論は、頗る進んでゐて、方法學的にこれを皇道の中枢ともいふべき神道―惟神の道を説くに役立てることが可能だ。
この意味で、東湖は儒教を活用し、そのよきところを攝取しようといふのである。
かうして、東湖は擧國一致、外に當り、日木國體の尊嚴を擁護すると共に、國威を内外に宣揚しようとする。ここに、在來の孔孟的道德の不適合性を離れて、中正・調和・綜合の態度のもとに、日本獨自の諸徳を提唱し、合理的、本質的に思想上の積極性を發揮しようとする東湖の眞摯な心の動きを見ることが出來る。
それは、近世思想史上、一期を画する業績で、素より烈公の考へも、いくらか加はってゐるが、本來幽谷の思想に胚胎したものが、ここに東湖の手により、正しくまとめられたのである。
即ちこれが組織化、體系化を見たわけである。これにより、當時の人々は、はじめて日本民族性に即した新國民道徳の誕生を仰ぎ見て、これにより、これにすがり、不動鞏固の日本的信念を把握し得たのである。ここに一個思想國防の第一線に立つ大きい標柱を得たのだ。
以上、東湖の文武觀は、『述義』の上に説かれて、「文武の道、名に小大あり。天地を經緯し,禍亂を克定するは、これ其の大なるものなり。書を讀み、册を挾み、剱を撃ち、矛を奮ふは、これ其の小なるものなり」と定義してゐる。
更にその弊を戒しめ、「文の弊は弱、武の弊は愚、武以て弱を矯むべく、文以て愚を醫すべし」といふ一條の活路をわれらのために開いた。
それから、學業の一致、思索と「行」の一致については、「學は道を學ぶ所以なり。而して事業は、その道を行ふ所以なり」と、明快適切に教示し、その主智的に因はれやすい傾向から、人々を救ひ出さうとした。
要するに學とは、人間學にほかならない。そして一個の人間として生きる道を學ぶのが學問で、これが知を行ずることが學問を活かす所以だ。かう東湖は説くのである。ここに、東湖の説き方の卓抜性を觀る。
今一つ注意したいのは、水戸政敎學の哲學的傾向が、義公時代の唯心的傾向から離れ、 物心一如的となってゐることだ。既に述べた如く、日本的思惟の態度は、中正的であり、調和的であり、綜合的である。故にその世界觀・人生觀が唯物本位に流れないで、唯物を中正的に活かし、また唯心にのみ傾かないで、これを中正的に解し、ここにこの二つを巧みに調和綜合して、物心一如の世界觀・人生觀を生み出し來ることは、水戸政敎學の立場から、當然、歸結せらるべき點であった。
かの幽谷が『勧農或問』その他に高調した利用・厚生・正徳の三事は支那から採取したにもせよ、要するに、經濟の道徳化、倫理化の提唱たることにほかならぬ。即ちをれは、物と心との相即不離を認め、その上に起って心と物の調和を肯定したのである。この點からすると、當然、物心一如説の哲學的立場にゐることが分る。
(四) 日本國體論
如上東湖の新國民道德思想と離れることの出來ない關係にあるのは、東湖の日本國體論と神州正氣説とである。この主張は、新國民道徳の上に光を添へ、力を加ふる力強き支柱だ。
東湖の日本國體論は、幽谷の『正名論』その他に負ふところがある。然し、その表現においては、東湖獨自の新味を示し、幽谷の旨意を一層明瞭に、一段、適切ならしめた。
日本國體の尊嚴!
それは、當時、國士・志士の漸く明識したところである。が、何故、かく尊嚴を致すかといふことになれば、明確な思惟を持つものが存外少い。故に會澤正志齋は、文政八年(1825年)、『新論』を書いて、特に理論方面から日本國體の尊い所以を明かにするにつとめた。
東湖も亦この點を一般人に示すために、各方面からこれを説き、適切明快ならしめようと意圖した。そこで、地理的・人文的方面からこれに觸れ、「夫れ日出の鄕は、陽氣の發するところ、地は靈にして人は傑、食は饒にして兵足れり。上の人、生を好み、民を愛するを以て徳となし、下の人、一意上に奉ずるを以て心となす。其の勇武に至っては、皆これ天性に根ざす。これ國體の尊嚴なる所以なり」といった。
この言葉は、乃木將軍が平生、最も愛誦した一節で、度々、これを人のためにも書いた。
日本は陽氣の國、太陽の國で、風士の秀麗、物資の豊富な點で、世界に優れ、上下 一和して、生々發展する。そこに、日本國體の尊厳が擁護され、ますます光を放つのだと東湖は解釋したのである。
それなら、國體の尊嚴及び本質は、一體何處に示されてゐるか。この點につき、東湖は、「夫れ赫赫の威は、天日より盛なるはなし。煦育の恩は、太陽より大なるはなし。恩は仁の施なり。威は義の發なり。天皇既に天日の嗣を承けたまひ、蒼生を撫育したまふに、 太陽の出づる所により、萬方に君臨し、恩威兼ね施し、竝び行うて相悖らざるものは、蓋し神皇立極の大體にて、神州の宇内に冠絶する所以のもの、それ亦此に在るか」といった。
即ち萬世一系のもとに太陽の如き仁慈を以て、下民を統治せられ、威光、中外に輝いて、皇道を發揚なされてゐるところにこそ、國體の尊嚴を具有するといふのである。
その結果は、東湖のいふ如く、「蒼生安寧、これを以て寶祚無窮なり。寶祚無窮、これを以て國體尊嚴なり。國體尊厳、これを以て、蛮夷戎狄率服す。四つのもの循環して、一の如く、各相まって美を濟す」のである。
東湖は、以上の言葉を更に補足して、「赫々たる神州は、天祖の天神に命じ給うてより、皇統一系、之を無窮に傳ふ。天位の尊きこと、猶は日月の踰ゆべからざるが如く、萬世の下、德は舜禹に匹し、智は湯武に侔しうするものありと雖も、唯一意、上を奉じ、天功を亮くるのみ。萬一、禪讓の説を唱ふるものあらば、凡そ大八洲の臣民、鼓を鳴らして、之を攻めて可なり」といひ、
更に「神聖經綸の述を仰ぎ、後世名づけて、之を述ぶるものを見るに、其の要三つあり。
曰く、敬神。日く、愛民。日く尚武と。古史簡なりと雖も、而も其の大體は彰明較著」といった。
それらの言葉のうち、幽谷の「正名論」と一脈、相通じたところが見える。そして皇室におかせられて、敬神・愛民・尚武を旨とされ、下民において、敬神・愛國・尊皇・尚武を旨とするところに、日本の萬邦に卓越した美がおのづから現はれてゐるといふ點を東湖は、力説して措かない。
〔参考〕