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高須芳次郎著『水戸學精神』第一水戸學概説 (四)水戶學の發生と進展

2022-08-18 | 茨城県南 歴史と風俗

高須芳次郎著『水戸學精神』
  第一水戸學概説  
 

(四) 水戶學の發生と進展 
〔日本精神の高調と大義名分主義〕  
  水戸學は、一體どんな動機、どんな事情によって生れたか。順序上、先づこの點を明かにすべき必要がある。水戸學が起生したのは、文修復興の機運に伴ふ必然の理勢にほかならない。江戶時代に於ける文藝復興がほぼ完成せられたのは、元禄期であるが、その運動は旣に第一代將軍、徳川家康の時から始まってゐた。家康は、殺伐な兵氣を銷散するために、國文學及び漢文學の研究を奨励した。それに伴うて、意思想上に芽を吹ぎ出すのは古代日本の囘顧であり、日本建國の精伸に想ひ到ることであり、また朱子學からくる大義名分主義の目ざめである。 

 さうした有意義な思想上の芽生えに交涉を持ったのは、下河邊長流及び契沖・北村季吟らを先駆とした古代日本文學の研究であり、藤原惺窩・林羅山らを先頭.とした朱子學の講說である。古代日本文學に触れてゆく以上、おのづから、建國精神に思ひ到り、神ながらの道について考へざるを得ない。  

 かうした空氣から、尾張瀋祖徳川義直、水戶藩祖德川頼房らは、神道精神喚起するにつとめるやうになつた。それと前後して、官學の祖となった林羅山が、『本朝神社考』を著はし、「排耶蘇』を書いて、日本精神を高調したと同時に、朱子學闡明の結果として、おのづから、大義名分への意義を普及した。 

 以上のやうな趨勢のもとに、水户學は、徳川光圀(義公)によって、先づ史學の上に その根を据ゑられたのである。蓋しそれは、當然の理勢だと考へる。 

〔幕府支配が天業實現の多大な障碍、
  大義名分に目覚めた義公〕

 云ふ迄もなく、日本は、道の國である。道義建國の精神により、積慶(仁慈)重暉(叡智)養正(正義擁 護及び實現)の旨をこの地上に具體化する天業の使命がある。この天業は、萬世一系の天皇が實現に當らせられ、一君萬民のもとに、文武の大権を統裁される。それが常徑であり、正道である、ところが、源頼朝が幕府をはじて以來、家康の時代に至る迄、變則の道たる武家政治が行はれ、文武の大権も事實上、幕府の支配し掌握するところとなった。これがため、天業の實現に多大の障碍を生じたのである。 

 かうした詭道を憤られた後醍醐天皇は、建武中興の偉業を起されたが、当時、封建制度が根强く基礎を築いてゐた為めに頓挫した。が、覇道によるところの武家政治は、變則であるから、当然亡びなければならない。かうした必然の理勢は、旣述した文藝復興初期に徐々、少しづつ、醜し出されてゐた。
   
 水戶の徳川光圀は、かうした理勢をどの程度まで、了解したか、明白ではないが、少くとも、大義名分の精神に目ざめたことは、はっきり看取し得るのである。以上の意味において、義公(光圀)は、新しい時代の潮勢に乗り出した一人だと云へる。 

 

〔義公は優れた政治家であり優れた日本主義者〕 
 義公は優れた政治家であったが、また優れた日本主義者だった。その思想は、『大日本史』の編述方針の上に能く現はれてをり、『梅里先生碑陰銘』のうちにも、鲜明に表現せられてゐる。彼の思想上に於ける態度は、中正・公明を旨とする日本精神に拠り、一方に偏ることを避けた。
 それについて、彼自ら「物に滞らず、事に著せす神儒を尊んで、神儒を崇めて佛老を排す」と云った。卽ち神道にせよ、儒教にせよ、佛教・老荘學などにせよ、その長所は採取するが、短所までも、採り入れようとはしな い。いろいろの思想に對して興味を感じても、それに囚はれることがない。且つそれらの思想を統一してゆくことについては、皇道の本義に據つたのである。


〔「水戸學」の礎石を置いた義公〕
 義公が皇道を深く重んじたことは、彼が『大日本史』において、「皇統を正閏し、人臣を是非し、転めて一家の言を成す」と云った上に徴して明白だ。

 義公は天皇親政の精神を維持された吉野朝に同情し、また吉野朝のため、心から盡した大楠公を敬慕したので ある。更に義公は『大日本史』のうちで、先づ日本精神を土臺として、國史を書かねばならぬ旨を示し、大義名分を明かにする上から、吉野朗を正位に置き、京都がたを閏位に置いたと同時に、大友皇子(弘文天皇)を天皇紀に入れ、神功皇后を皇妃傅に掲げた。

 『大日本史』が出るまでは、京都がたを正位視したり、或は神功皇后を天皇紀に入 れたり、大友皇子を閑却したり、いろいろの缺陷があったのが、『大日本史』のために、 是正されたのである。勿論、吉野朝を正位に置き、京都がたを閏位に置くことについては、史家の間に當時から異論もあるが、義公の大義名分主義に對しては、誰も反對しなかった。

 かうして義公は、水戶學の礎石を置いたのである。
  
〔義公に感化され日本主義思想を展開した学者、
   継承し大勢させた学者〕 

 三宅觀瀾•栗山潜鋒などの有力な學者は、義公に優遇せられ、義公の感化によって、日本主義思想を展開した。觀瀾の『中興鑑言』は、建武中興の偉業を主題として、日本帝王學の意義を明かにし、潜鋒の『保建大記』は、武家政治出現の過程・原因を究明して、天皇親政の旨を高調してゐる。水戸學の學統は、この二人によって主として繼承せられ、政敎革新については藤田幽谷・藤田東湖・會澤正志斎らの努力のもとに大成せられたのである。 

 
 

  



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