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天狗党行動の概要
天狗党が筑波挙兵したのは元治元年2月27日(旧歴)だった。(石岡市)金丸町の鈴宮稲荷の境内に勢捕いをし出発した。筑波山に立て篭もって両3日の後日光へ出発し、一度戻って栃木の大平山に移り、再び筑波山へ戻って来たが、6月の末には幕府の追討軍が続々到着、筑波を包囲した。
7月7日には高祖道下妻の線で幕府の大軍を蹴散らし、7月下旬には軍の主力は筑波山を下り府中、小川、王造、潮来の線に移動し、一部隊は水戸城攻撃を行って失敗した。北小金から引返して来た武田耕雲斉の軍勢と府中で合流し水戸城に入らんとしたが、これまた果さず磯浜湊地方に移動し、この地で10月23日頃まで3万余の幕府軍と戦った。
然し一部隊は幕軍に降ったので筑波勢を主力とする武田、藤田等の総勢千余人、騎馬者300余、歩兵数100名、大砲15門、小荷駄59疋は京都に上り将軍慶喜に上訴しようとして包囲を脱し、県北から野州路に入り、中仙道を京都に向った。
途中、上州下仁田、信州和田峠で諸藩の兵を敗り木曽路を経て関ケ原の手前で北上、山間の険道を大雪のため難行軍をつづけ、敦賀に至り加賀藩に収容された。
やがて幕府側に引渡され、武田耕雲斉、田丸稲之衛門、藤田小四郎等主だった者364人は敦賀海岸松原で処刑せれた。
田中愿蔵隊の乱暴狼藉
田中 愿蔵(天保15年(1844年)~ 元治元年10月16日(1864年11月15日))は、常陸国久慈郡東連地村(現・茨城県常陸太田市)で生まれ医者の養子として育った。水戸天狗党の乱における田中隊の隊長である。彼は藩校弘道館、江戸の昌平坂学問所で学んだ後、水戸藩が那珂郡野口村に設立した郷校の時雍館(野口郷校)で館長を務め、領民の教育活動を行った。
元治元年3月27日(1864年5月2日)、藤田小四郎が尊王攘夷を唱え筑波山で挙兵すると、時雍館の教え子らを率いてこれに加わり天狗党幹部となって一隊を指揮した。
しかし、愿蔵は藤田ら本隊とは尊王攘夷等に就いての思想上の相違などから離れ、別働隊として独自の行動をとった。水戸天狗党は軍資金調達のため近隣の町村の役人や富農・商人等から金品の徴発を行ったが、田中愿蔵の行動は、各地で”放火”するなど極悪残忍の感がある。
田中隊は6月5日、栃木宿において町に対し軍資金30,000両の差し出しを要求した。しかし、町側がこれに応じないと知るや、家々に押し入って金品を強奪したうえ宿場に放火、翌日までに宿場内で237戸が焼失した。所謂、「愿蔵火事」である。
また6月21日には真鍋宿(現在の土浦市真鍋)で略奪、放火を行い77戸を焼失させている。
明治43年頃の真鍋
(現、土浦一高近くの坂の下地区)
天狗党に対し江戸幕府の追討軍が派遣され戦闘が開始されると、田中隊も那珂湊周辺で幕府軍と戦う。那珂湊の戦いで天狗党側が破れると田中隊も北へ敗走、河原子を経て、助川城に入り籠城したが、幕府軍の攻撃を受けて9月26日に陥落した。
敗走した田中隊約200名は、水戸藩旗下の赤沢銅山へ食料の援助を要請したが拒否されたため、愿蔵は鉱山の生産設備を破壊した上、放火した。
田中隊はさらに敗走を続け、10月に八溝山に篭って再起を図る。しかし、食料弾薬も尽き果て隊士の疲弊も極限に達していたため、愿蔵は隊の解散を決意し、隊員は三々五々山を下りて逃亡した。
しかし、周辺には棚倉藩を中心とする追討軍が迫っており、山を下りた田中隊士達はそのほとんどが捕われて処刑された。愿蔵は真名畑村に逃れたが、捕縛され塙代官所に送られ、10月16日に久慈川の河原で斬首された。
辞世は「みちのくの山路に骨は朽ちぬとも 猶も護らむ九重の里」。享年21。
”賊徒”の汚名を着せられた田中愿蔵
普門寺の赤門と碑(左下)
「田中愿蔵隊陣営の跡」の碑
「田中愿蔵隊陣営の跡」の碑文
水戸天狗塔の叛乱は、元冶元年3月27日、筑波山挙兵に始まった
この集団を筑波勢と云う 彼らは天下に尊王攘夷を呼号(注1)した
この一党は、4月10日日光東照宮に参拝し 14日には大平山に移動 馳せ参じた客兵も多く 5月晦日には総員壱千餘人となり意気軒昂 幕府追討軍を迎撃のため筑波山に帰陣した 田中愿蔵隊はこの筑波勢の一隊である
四中隊が當普門寺に駐屯したのは6月中旬である。爾後田中中隊は積極果敢に幕府軍と交戦した 是等草莽の諸隊士は戦死または刑死して悉く国難に殉じた
隊長の愿蔵君は此処に宿陣中何を想い何を考えていたのであろうか 福島県塙町の郷土史家金沢春友先生は遺書に賊徒の汚名を受けて10月16日塙で斬られた田中愿蔵は、勤皇討幕の念最も強い21歳の秀傑であったと評している
後に金沢先生と共に田中隊の雪冤(注2)に盡力されたのは 天狗騒の著者横瀬夜雨先生であった
茲に陣営の跡を記念し併せて鎮魂の碑とする
平成3年春 那珂湊市 関山墨正七十七歳誌してこれを建てる
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注1 呼号の「号」の文字は、碑文では「號」の俗字であったが「号」に置き換えた。
注2 雪冤(せきえん): 無実の罪をすすぎ清める。晴天白日の身となる。