菊池寛著『維新戰争物語』
筑波山天狗騒動(上)
・・・・・・・ 一 ・・・・・・・
水戸の虎、藤田東湖の四男小四郎は、まだ二十三歳の若武者でありました。
豪邁な父東湖の氣象を受け継いで、早くから尊皇攘夷の志を抱き、江戸・京都の間を頻りに往来して、天下の志士と交わりを結びます。
文久三年五月十日と、幕府が攘夷の期限を定めた際は、小四郎は喜んで同志と共に、攘夷の先鋒たらんと計画しましたが、攘夷実行もどうやら掛け声だけに終わり、八月十八日の政変で、攘夷倒幕派は一夜に失脚し、公武合体派の世となって、廟議も開国論に一変しかねまじい有様となったので、胸中の憤懣はやるかたありません。
京洛に潜む長州の桂、小五郎、佐久間克三郎、因幡の八木良蔵・沖 剛介・千葉重太郎等とはかり、水戸と長州と、東西呼応して、義兵を挙げることを約します。
時に、京都を没落した長州本国では、自重論を唱える者もあろいましたが、七卿と共に下った眞木和泉等の主張に引きずられて、大勢は主戦論に傾いていきました。即ち、兵力によって、薩賊會奸を駆逐し、皇都を恢復しようと計画していた際ですから、別途に水戸に義旗があれば、敵の注意を京都からそらす結果になって、長州にとっては、願ってもない幸いです。そこで、長州は、願ってもいない幸いです。そこで、長州は、小四郎等のために義挙の軍資を與へ、また兵を挙げた後は、有力に応援することを約束したのであります。
藤田子代はこの約諾を得て、意気衝天、水戸に向かって鋭意、これが實行にとりかかります。
元来、水戸藩は、天下に魁けて尊皇攘夷を唱え、方今の旺然たる倒幕の氣勢を導いた先駆者でありますが、密勅返納問題の頃から、藩論は勤皇と佐幕の二つに割れ、藩士は激派と鎮派の兩黨に分かれ、前者の中から攘夷勤皇の天狗党が生じ、後者はおおむね幕命聴従の書生党となつて、事毎に争っていました。しかも、激派の中には急と緩があり、鎮派の中にも勇と怯があり、之が斉昭の死後にまったく統一を失つて、藩内は混乱そのものの有様です。
そのただ中に飛び込んできた、藤田小四郎は、斎藤佐治衛門を相談相手として、まづ新治郡小川にある、文武館の同志を説き、水戸の町奉行で練達堪能の老成家、田丸稲之右門直諒を説きおろして、之を主将と仰ぎました。
鈴の宮稲荷神社(石岡市) 小四郎等はここに結集し、筑波山へ向かった。
小四郎等を支援した紀州屋の女主人いく子
(石岡市ふるさと歴史館蔵)
元治元年、三月二十七日、水戸の天狗党を主隊に、百五十の打てば響く壮士を集めて、常陸国筑波山上に、義旗を翻しましす。
たかが、町奉行崩れの田丸主将、東湖の子とはいへ、二十三歳の藤田副将、そして百五十人の暴れ者の一挙と聞くと、生野の義挙ほどもゆかない微力なものに考えられますが、その根は、比較にならぬまでに、深く張られてあつたのです。
小四郎等は、筑波義兵と同時に、その理由を具して、幕府に上書しましたが、
それは『一昨年の藩政改革も、中途で挫折し、昨年の攘夷實行も、龍頭蛇尾に終わって、更にまとまりがない。之と云ふのも、松平慶永・松田容保・島津久光等が、権謀をもって廟議を弄ぶことに起因するから、彼等の罪を糾明して退け、報告丹心の義士の罪宥るして擧用し、断然攘夷令をしいて、天下の耳目を一新されたい。われわれは、この目的達成のために兵を擧げて天下有志を警醒する所以である。』
という主意のものであります。
それと共に、因州候池田慶徳にも、諒解をもとめて斡旋をたのむ書を送りましたところ、兩候は朝廷に上(たつまっ)って、御採用方を懇請し、特に慶徳のごときは、幕府にまで上書して、彼等を攘夷の先鋒として採用する様に建言をしています。
それのみならず、筑波山義擧の後間もなく、長州藩の家老、福原越後が、兵を率いて上京する問題が起こり、その結果、蛤門の戰となるのでありますが、その動員の最初の目的は、筑波の一味と相呼応し、それに聲援を與へることにあるといふのですからかなり大規模の運動であつったことが、わかります。
水戸天狗党の義挙を記した碑(筑波山神社随神門裏手)
・・・・・・・ 二 ・・・・・・・
田丸・藤田の一味徒党は、三月に十七日に、筑波山に兵を挙げましたが、間もなく、日光の嶮を利用する方が、より効果的であると云ふことになって、四月三日、一旦筑波山を下ります。
義兵の列は蜿々として、日光街道に続きます。列の中央には、徳川斉昭の木像と『水戸烈公の霊』と書いた位牌とが、輿にのせて、高く担がれております。尊皇攘夷は烈公の神意であり、彼等は、それが實現のために挺身するものであるといふ、意味でありました。
列は、やがて密生した藪畳の間にさしかかります。
『だん、だん・・・・・・・!』
不意にとどろく二発の銃声と共に、二三十人の抜刀の武士が、どっとばかりに、輿をめがけて列中に乱入する。
『それ敵だ!油断すな!』
義兵も、踏みとどまって抜き合わせましたが、何分にも不意を討たれたこととて、流石の天狗党も、しどろもどろです。隊列は四分五裂にみだれたつ。
『敵は小勢であるぞ!あわてることはない。引つ包んで討ちとれ!』
藤田小四郎は、馬上から、聲を嗄らして下知しますが、崩れたった隊勢は、急には立ち直りません。敵は他のものには目もくれず、無二無三に、輿に向かって斬り進むところろを見ると、どうやら目的は、輿にあるようです。
『おのおの、引き返せ!輿を守れ!』
輿を担いでいる者は、片手で刀を抜いて振り廻しますが、肩の上に輿があるのですから、思うようにはゆきません。
その中に、一人の武士が、敏捷に飛び上がって、輿の中から、烈公の位牌を、つかみ取りました。右手に刀、左手に位牌、兩手を高くあげて、
『位牌は奪い取ったぞ!引きあげろ!』
と聲を書けますと、二三十人の武士は、追いすがる義兵を斬り拂いながら、すばやく竹藪の中に、姿を没してしまいます。追えども八幡の藪知らずで、地理不案内のために、間もなく全く見失ってしまいました。
田丸主将をはじめ、藤田・斎藤等は、口惜し涙にくれて、茫然としております。第一、どこのどいつが、何のためにやったことであるか、それさえ見当がつきません。
『隊長、御心配はいりません。およそ見当がついていますから、必ず御位牌を取り戻してまいります。私共にお任せ下さい。』
そう言って、連れだって出てきたのは、萬造寺、勝と澤村半六とでありました。聞いてみますと、その武士の中には、確か見覚えのあるものが交っていたし、言葉の調子から判断しても、宇都宮藩の物に相違ないと云ふのです。
田丸等は、大いに喜んで二人にくれぐれも奪還をたのみ、義兵は、再び列をつくって、日光に向かいます。
一行に分かれた萬造寺と澤村は、目指す宇都宮の城下に潜入し、とある酒屋で、戸田家の定紋の付いた法被をきた仲間を酔いつぶし、その法被を奪い、まんまと城中に忍び込みました。
二人はのこのこ奥庭に入りこみ、書院のような庭先で、何くわぬ顔をして、草をむしっているのを、ぼんやり眺めています。
草を握って、腰を伸ばした萬造寺は、
『むゝゝゝゝ、やれやれ、腰がくたびれたわい。・・・・・・・あゝ和子さま、そこにおいででしたか?』
と如才なく、前から知ってでもいるもののように、言葉を掛けました。
『こちとらにやあ、さっぱり譯は判りませんが、近頃、大分世の中が騒がしくなってきたぢゃあございませんか。和子さまなども、その中に、尊皇攘夷ということで、勇ましく御出陣てな事になるのでござんすかい?』
『いやあ、なかなか。さようなことは、言うべくして行はるべきことではないからのう。』
『實行できない處士横義は、国家のためにも困ったものぢゃて。』
ちびの癖に、俗論家老かなにかの、口眞似をしています。
『へえい、そんあものですかね。しかし、攘夷といへあ攘夷の總本家だとかいふ水戸の殿様が、こちらのお城に、虜になってきておられるという噂ですが、ほんとうですか?』
『はゝゝゝゝ馬鹿な!第一、水戸烈公は疾うになくなられておる。』
『あ、なあんだ!城下でも専らの評判でしたからね。あつしも、つい本当かと思いましたんで・・・・・・・・。空嘘ですかい。』
『亡くなった方を、虜に出来る道理もないが、まんざらの噂とも、言えん節があるな。實を申すと、先月、あるところから、烈公の御位牌を奪ってきたのぢゃて。現に、それはこの書院あつて、私はその番をしているのだが、そういうことが、大袈裟に城下に傳えられているのだろう。』
『えいつ!』
それまで聞けば、いつの間にか、萬造寺と話をしている小姓の、後ろに廻っていた深松半六は、いきなり当身をくらわして当て落してしまいます。土足のまま、書院におどりあがって、件の御位牌を奪い返し、それを懐にいれて、二人はそのまま、日光さして急ぐのでありました。
・・・・・・・ 三 ・・・・・・・
天狗党の本隊は、四月十日、日光に着いて東照宮を拝し、位牌の軍議を凝らします。
神君の廟所たる日光山を、これら暴發の徒によって荒らされことは幕府としては到底忍び難いところでありました。さればといって、これを鎮圧するために、東照宮に鉄砲を撃ちかけることも、甚だ心外であります。
そこで幕府は宇都宮藩に旨を含め、
『領内の日光を、諸君に占領されたとあっては、幕府の手前、一藩の浮沈にかかわる大失態であるが、さればとて、諸君のかかげる正義の旗に、弓を引く気になれない。どうか神域に一兵の血も流さぬ先に、日光だけは明け渡して、適当な場所に移って頂きたい。そのかわり、軍資金は幕府に内密で、入用な丈いくらでも融通するから是非ともたのむ。』
と、言いこませました。
義には勇むが、情にはもろい天狗党は、事實、軍資金も欲しかったので、宇藩の術策に乗り、四月十七日に、下野の太平山に陣を移します。
田丸等は、太平山に頓営して、宇都宮栗筈の軍資金を待ちましたが、もとより届く筈はありません。
反って、宇都宮藩をはじめ、付近十二藩の兵が急遽出動して、日光山をばひしひしと固めてしまいました。
当てにしていた軍資金は入らず、日光にも還れず、一党は痛憤苦慮していたところへ、上州足利の西岡邦之助や、下總結城の昌木時雄等が、いずれも百餘人の志士を率いて、太平山に上ってきました。
ここにおいて、同志總勢四百人を超え、意気とみに上がったところに、萬造寺と澤村とが、首尾よく烈公も位牌を、奪い返して戻ってまいります。
『この上は、天下恐るるものはない。郷土筑波に楯籠もって、義を六十餘州に徧(とな)へるまでぢゃ!』
と、義兵は再び烈公の木像位牌を輿に奉じ、五月晦日、筑波山にのぼって、これに拠ることとなります。
最初、三月二十七日に、筑波山に兵を挙げて以来、日光・太平山と陣営を移して、再び筑波に帰ったのが五月晦日、この間二か月以上の時日がたっています。
しかも、どこからも弾圧らしい弾圧の手が延びないといふもは、不思議な話であります。
その頃、水戸藩の執政として、実権を握っていたのは、武田正生(耕雲斎)や岡田徳至でありました。これはもともと斉昭の薫陶を受けた尊皇攘夷の士で、田丸・藤田等と志を同うしておりますから、天狗党の行動を押さえないのみか、蔭に廻って、かえってこれを支援さへしているのです。
幕府から
『早く領内の暴徒を鎮圧せよ。』
という沙汰が下ると、
『彼等は元来、幕府の攘夷実行の聲明を正直に受け入れ、攘夷の先鋒たらんとして蜂起したものゆえ、少なくとも、横浜の鎖港を断行しなければ、鎮撫することはなりませぬ。』
逆捻式の回答を寄せるという始末です。
しかしながら水戸にも、俗論党はおりました。いはゆる書生党で、天狗党の擧兵に對して、藩重役が、何等鎮撫の処置を取らないのを見て、奇貨惜くべしとなし、幕府の後援を求めて、自派の勢力挽回しようと企てます。
佐幕派の朝比奈彌太郎等は、數百人の書生党を率いて、大擧、江戸に上ります。そして、藩主慶篤に謁し『一刻も早く筑波山の暴徒をとりしづめ、それと気脈を通じている藩重役を更迭しないと藩國の為に大いなる禍となりませう。』
と、或ることないこと取り交ぜて、武田等を讒訴しました。勿論、一方には幕府に手をまわして藩政の干渉を求めております。
徳川慶篤は、もともと気力の緩んだ事なかれ主義の人で、かつて密勅返納問題の起こった時も、幕府の命に従って、之を返納しようとしたために、反論眞二つに割り、水戸藩に致命的な禍の種を蒔いた人であります。
今また朝比奈等に動かされた幕府から、武田。岡田等を退けることを命ぜられた慶篤は、五月ニ十八日、あわてくsだって、二人に隠居謹みに処し、かはつて朝比奈彌太郎・佐藤圖書・市川三左衛門を執政に任じました。これがために、水戸一藩は、滔々として佐幕派の支配下に傾いたのであります。
ここにおいて幕府は、六月九日に、武蔵・常陸・下總十一藩の大名に命じて。筑波勢を追討せしめ、関八州の大小名に、これが援軍を令し、幕府麾下の歩騎砲兵三隊をも、筑波に向かわせます。
当時の責任者である水戸藩からは、新執政市川三左衛門が、大兵を率いて攻め向かいます。
これら連合軍は、七月七日、常陸筑波郡の高道祖で、天狗党を打ち破りましたが、その九日に、本営多寶院を逆襲されて、散々に蹴散らされました。下妻藩主、井上正兼のごときは、江戸まで逃げて来たほどであります。