だいぶ前、それなりにまとまった形で高橋さんについての論考を上げてから、その後もちょくちょく触れては来たけど、なかなか踏み込んだことが書けてない。ご本人からの情報発信がほぼないという現状(物理的に困難なんだろうと推定)で、その行動がほとんど水面下である以上、残念ながら論じること自体が難しいというのがある。そんな中、NHKBSでの"Show must go on"の放送があり、あらためていろいろ思うことがあったということで。
まずは、こういうドキュメンタリーというか、舞台裏や水面下の情報が見えてこないことには、高橋さんがどういう存在で何をしてるのか、なぜ「総監督」なのかが分からない。外部から見る限り、高橋さんが特別な存在であるということは、状況証拠でしか伝わって来ない。その状況証拠にしたって、視点次第で見え方は容易に反転する程度のもの。そうでなくても、高橋さんのことを、AKBのハイコンテクストに馴染まない人と語ってみると、このあたりのギャップがひどいことで、あらためて実感させられる。
これまでのドキュメンタリー2作X2で、かなり意図的に高橋みなみという人物はフィーチャーされて来てたと言えると思うけど、それ自体が秋元康のシナリオと見なす人がいるし、実際そういう面は完全に払拭できない。本ブログの一番最初に、この辺りの議論を、なるべく時系列に沿って、私自身の経験をなぞることで書いてみたけど、容易に賛同を得られるとも思ってない。
何が「真実」なのかというのは、実は大した問題ではない。百人いれば百通りの真実があっていいんだろうと思う。ただ、科学がまさにそうであるように、それが真実であるかどうかはとりあえずどうでも良い、それが有効であるか、有益であるかをもって、その判断に代えるという立場が、近代人としてもっともふさわしい立ち位置だろうと思う。
そういう考え方を受け入れるとして、最大の障壁というか困難は、秋元康その人と言うことになる。秋元康をどう評価するかで、AKBの見方は劇的に変わらざるを得ない。と言いつつこちらも実際にはそんな大したことではなくて、それこそストローマンそのものなんだけど、これに気づくのが一番の難関なのかもしれない。
秋元康を絶対権力者、あるいは悪意の仕掛け人とみなして、何事に付けシナリオとか茶番とかで思考停止する方が確かに楽だし、一見分かりやすいけど、絶対権力者なるものが成立しうる要件とか、現実社会がシナリオ通りに進むとか、これが枠組みレベルでのファンタシーであることに考えが至れるかどうか。
このあたりをさらにややこしくするのは、高橋さんが秋元康にきわめて近いということ。ここにこだわると、傀儡説やら運営の犬説やらに吸着されがちになる。これも枠組みを眺めるように努めれば、完全な払拭こそ不可能だけど、単なる腰巾着ではあり得ないことには容易に辿り着けるし、むしろ秋元康の言動を通して、高橋さんがただ者ではないことが見えてくるかもしれない。
話を戻して、有効かつ有益かどうか。そういう視点では、既述のように、AKBを結果的に自己生成し組織化した共同体とみなすのが非常に生産的だと考えるし、高橋さんがその公的代表であるというのが、組織論としての表現となる。実際には肩書きの通り「総監督」であり、絶対的なリーダーで合ってると思うけど、そこへ辿り着くには、一次ソース情報が十分ではないし、悪意の視点を排除できるような決定的な要素にも乏しいと思う。
AKBのハイコンテクストの隅々に目を凝らし、限られた情報を拾い集める。その情報を先に書いた俯瞰像であるところの「AKB共同体」に整合的に配置してみることで、ようやく妥当な高橋みなみ像をあぶり出せるように思う。そうやって浮かび上がる姿はAKBと一体化した存在、AKBそのものであり、AKBが立ち止まらない、変化を恐れない、動的平衡の前のめりという存在様式である以上、AKBの体現者、代表にして、さらにその表現を超える存在ということになる。
まさに秋元康の至言通り、AKBとは高橋みなみのことである。
まずは、こういうドキュメンタリーというか、舞台裏や水面下の情報が見えてこないことには、高橋さんがどういう存在で何をしてるのか、なぜ「総監督」なのかが分からない。外部から見る限り、高橋さんが特別な存在であるということは、状況証拠でしか伝わって来ない。その状況証拠にしたって、視点次第で見え方は容易に反転する程度のもの。そうでなくても、高橋さんのことを、AKBのハイコンテクストに馴染まない人と語ってみると、このあたりのギャップがひどいことで、あらためて実感させられる。
これまでのドキュメンタリー2作X2で、かなり意図的に高橋みなみという人物はフィーチャーされて来てたと言えると思うけど、それ自体が秋元康のシナリオと見なす人がいるし、実際そういう面は完全に払拭できない。本ブログの一番最初に、この辺りの議論を、なるべく時系列に沿って、私自身の経験をなぞることで書いてみたけど、容易に賛同を得られるとも思ってない。
何が「真実」なのかというのは、実は大した問題ではない。百人いれば百通りの真実があっていいんだろうと思う。ただ、科学がまさにそうであるように、それが真実であるかどうかはとりあえずどうでも良い、それが有効であるか、有益であるかをもって、その判断に代えるという立場が、近代人としてもっともふさわしい立ち位置だろうと思う。
そういう考え方を受け入れるとして、最大の障壁というか困難は、秋元康その人と言うことになる。秋元康をどう評価するかで、AKBの見方は劇的に変わらざるを得ない。と言いつつこちらも実際にはそんな大したことではなくて、それこそストローマンそのものなんだけど、これに気づくのが一番の難関なのかもしれない。
秋元康を絶対権力者、あるいは悪意の仕掛け人とみなして、何事に付けシナリオとか茶番とかで思考停止する方が確かに楽だし、一見分かりやすいけど、絶対権力者なるものが成立しうる要件とか、現実社会がシナリオ通りに進むとか、これが枠組みレベルでのファンタシーであることに考えが至れるかどうか。
このあたりをさらにややこしくするのは、高橋さんが秋元康にきわめて近いということ。ここにこだわると、傀儡説やら運営の犬説やらに吸着されがちになる。これも枠組みを眺めるように努めれば、完全な払拭こそ不可能だけど、単なる腰巾着ではあり得ないことには容易に辿り着けるし、むしろ秋元康の言動を通して、高橋さんがただ者ではないことが見えてくるかもしれない。
話を戻して、有効かつ有益かどうか。そういう視点では、既述のように、AKBを結果的に自己生成し組織化した共同体とみなすのが非常に生産的だと考えるし、高橋さんがその公的代表であるというのが、組織論としての表現となる。実際には肩書きの通り「総監督」であり、絶対的なリーダーで合ってると思うけど、そこへ辿り着くには、一次ソース情報が十分ではないし、悪意の視点を排除できるような決定的な要素にも乏しいと思う。
AKBのハイコンテクストの隅々に目を凝らし、限られた情報を拾い集める。その情報を先に書いた俯瞰像であるところの「AKB共同体」に整合的に配置してみることで、ようやく妥当な高橋みなみ像をあぶり出せるように思う。そうやって浮かび上がる姿はAKBと一体化した存在、AKBそのものであり、AKBが立ち止まらない、変化を恐れない、動的平衡の前のめりという存在様式である以上、AKBの体現者、代表にして、さらにその表現を超える存在ということになる。
まさに秋元康の至言通り、AKBとは高橋みなみのことである。