NHKの討論番組は、正直、敬遠してた。理由は簡単で、多くの場合、恐らくは台本があってリハがあって編集が入って、討論とは名ばかりの生気のない、中身の薄い、気迫を感じない番組になり下がってる、そんな偏見があったから。
案の定というか、1月11日放送の「シリーズ日本新生 ニッポンの若者はどこへ? 徹底討論 大人の心配×若者の本音」も、そんな偏見通りと感じられた。論点はいくつも上がってたと思うけど、そこは討論されることもなく、バラバラの議論のまま、そこに放置されてしまった、少なくとも私にはそう感じられた。
もっとも、1時間15分という尺で扱えるわけもない論題なんだし、にもかかわらず一番重要な論点(一例、世代間闘争問題、国家リソース配分問題、等々)にはさらっと触れる程度で流してしまって、枝葉の議論だけをしようと言うんだから、そりゃムリもない。
すれ違いの一例としては、お馴染みの宇野常寛氏とローソンCEOの新浪剛史氏が、ともに「制度設計」という言葉を持ち出してたけど、まず間違いなく、お二人が想定してる「制度設計」という言葉が意味するところはかみ合ってない。つまりそこにはカテゴリーエラーがあるんだけど、放置されたままだった。
そんな番組に、高橋さんが、しかも井筒監督とか、遙洋子氏とか、一癖も二癖もある論客と並んで出演してる、意見を述べてることに、けれども驚きと言うよりは、納得感を隠せない。
実際に高橋さんが語ったことは、討論全体の中では浮き気味だったかも知れない。けれども、高橋さんの言葉の説得性は明らかで、語り口の確かさ、語られる内容のソリッド感が際立ってたと感じたのは、決して贔屓の引き倒しではないと思う。
高橋さんの言葉の背景がいちいち分かると言うこともあるんだろうけど、それは遙氏や宇野氏の思想的背景、井筒氏のポジショントークを、それなりに弁えてるという点で同等なんであり、そんな大人論客達の時代遅れ感、時代錯誤感と、高橋さんのリアルタイム感が、とても対比的に見えた。逆に若者側の議論との対比でも、高橋さんのリアリティの濃さが、存在感の強さとなって、浮き上がって見えた。
つまりAKBが、高橋さんが生きて戦ってる場所、それは繰り返し述べるようにリアルバーチャル連続体であり、アイドルという虚像であるかに見えて、実はもっともリアルタイム属性を持ってる、過去の幻想でも未来の不安でもない、正に今のリアルと言うことを明らかにしてくれてるんじゃないか。
案の定というか、1月11日放送の「シリーズ日本新生 ニッポンの若者はどこへ? 徹底討論 大人の心配×若者の本音」も、そんな偏見通りと感じられた。論点はいくつも上がってたと思うけど、そこは討論されることもなく、バラバラの議論のまま、そこに放置されてしまった、少なくとも私にはそう感じられた。
もっとも、1時間15分という尺で扱えるわけもない論題なんだし、にもかかわらず一番重要な論点(一例、世代間闘争問題、国家リソース配分問題、等々)にはさらっと触れる程度で流してしまって、枝葉の議論だけをしようと言うんだから、そりゃムリもない。
すれ違いの一例としては、お馴染みの宇野常寛氏とローソンCEOの新浪剛史氏が、ともに「制度設計」という言葉を持ち出してたけど、まず間違いなく、お二人が想定してる「制度設計」という言葉が意味するところはかみ合ってない。つまりそこにはカテゴリーエラーがあるんだけど、放置されたままだった。
そんな番組に、高橋さんが、しかも井筒監督とか、遙洋子氏とか、一癖も二癖もある論客と並んで出演してる、意見を述べてることに、けれども驚きと言うよりは、納得感を隠せない。
実際に高橋さんが語ったことは、討論全体の中では浮き気味だったかも知れない。けれども、高橋さんの言葉の説得性は明らかで、語り口の確かさ、語られる内容のソリッド感が際立ってたと感じたのは、決して贔屓の引き倒しではないと思う。
高橋さんの言葉の背景がいちいち分かると言うこともあるんだろうけど、それは遙氏や宇野氏の思想的背景、井筒氏のポジショントークを、それなりに弁えてるという点で同等なんであり、そんな大人論客達の時代遅れ感、時代錯誤感と、高橋さんのリアルタイム感が、とても対比的に見えた。逆に若者側の議論との対比でも、高橋さんのリアリティの濃さが、存在感の強さとなって、浮き上がって見えた。
つまりAKBが、高橋さんが生きて戦ってる場所、それは繰り返し述べるようにリアルバーチャル連続体であり、アイドルという虚像であるかに見えて、実はもっともリアルタイム属性を持ってる、過去の幻想でも未来の不安でもない、正に今のリアルと言うことを明らかにしてくれてるんじゃないか。