タイトルはご存じ「指原の乱」の中の名言なんだけど、いろんなレイヤ、いろんな意味で、諸刃の剣のような、そんな指原さんらしい迷言でもあるように思う。
まずは、実際には「目に見えてるものが全て」になりがちなように思われること。発信された情報、報道された情報が一次ソースとして伝わる、まともであれば、それがすべてになる。当然なんだけど、内輪のみで行われてること、水面下で進行する物事は、見えない。見えないものは、そんなものは、ないのと同じ事になる。
けれども、現実はそんなに単純には行かない。本人が発信した情報でも、それが正しく伝わるとは限らない。何事にも誤解は避けられないものだし、それ以前に、意図的な曲解も付きもの。と言うか、必ずと言って良いほどそうなる。本人発信ですらそんな具合なんだから、報道となると、さらに状況は暗澹たるものとなる。
報道が正当に機能するためには、そこに介在する取材者に正しい情報が届いており、しかもちゃんと取材対象に対する知識がある、なおかつ意図的であれ無意識であれ、少なくとも悪意はない、できるなら好意的であることが望ましいことになる。残念ながら、実際のマスコミには、その一部が、そして多くの場合は全てが欠けている。
となると、「目に見えてるもの」であるはずのものすら、その信憑性に疑問が呈せられることになり、結果、「目に見えてるもの」とそうでないものの境界が、曖昧であるかのような錯覚に陥ってしまう。こうなると残念ながら、取材者の悪意が、効果的に働いてしまうようになる。それはもはやプロパガンダと何も変わらない。
思想信条によるプロパガンダを否定する立場に変わりはないけど、それでもそんなものがこの世に存在してしまう、そんな現実は認めざるを得ないし、そういう活動を行う人々の意図は、理解したくなくても理解はできてしまえる。けれども、人の不幸は蜜の味的な構図だったり、単なる小人の悪意の発露によるプロパガンダならば、そんなものは消え去って欲しいと思う。
まずは、実際には「目に見えてるものが全て」になりがちなように思われること。発信された情報、報道された情報が一次ソースとして伝わる、まともであれば、それがすべてになる。当然なんだけど、内輪のみで行われてること、水面下で進行する物事は、見えない。見えないものは、そんなものは、ないのと同じ事になる。
けれども、現実はそんなに単純には行かない。本人が発信した情報でも、それが正しく伝わるとは限らない。何事にも誤解は避けられないものだし、それ以前に、意図的な曲解も付きもの。と言うか、必ずと言って良いほどそうなる。本人発信ですらそんな具合なんだから、報道となると、さらに状況は暗澹たるものとなる。
報道が正当に機能するためには、そこに介在する取材者に正しい情報が届いており、しかもちゃんと取材対象に対する知識がある、なおかつ意図的であれ無意識であれ、少なくとも悪意はない、できるなら好意的であることが望ましいことになる。残念ながら、実際のマスコミには、その一部が、そして多くの場合は全てが欠けている。
となると、「目に見えてるもの」であるはずのものすら、その信憑性に疑問が呈せられることになり、結果、「目に見えてるもの」とそうでないものの境界が、曖昧であるかのような錯覚に陥ってしまう。こうなると残念ながら、取材者の悪意が、効果的に働いてしまうようになる。それはもはやプロパガンダと何も変わらない。
思想信条によるプロパガンダを否定する立場に変わりはないけど、それでもそんなものがこの世に存在してしまう、そんな現実は認めざるを得ないし、そういう活動を行う人々の意図は、理解したくなくても理解はできてしまえる。けれども、人の不幸は蜜の味的な構図だったり、単なる小人の悪意の発露によるプロパガンダならば、そんなものは消え去って欲しいと思う。