門田隆将x高山正之対談:キリスト教はなぜ「狭量」で日本人はなぜ「寛容」なのか
執筆:門田 隆将、高山 正之
ビジネス+IT より 220205
日本人の矜持や信念に、今と昔の日本人で違いはあるのでしょうか。産経新聞記者として世界を巡り、週刊新潮「変見自在」コラムを20年以上にわたり連載する高山正之氏(高ははしご高)、ならびに週刊新潮記者を25年務め、その後はノンフィクション作家として縦横無尽に活躍する門田隆将氏、この国を見続けてきた2人は日本とキリスト教の歴史には大きな違いがあると指摘します。
欧米列強が何を言おうが動じなかった日本の、そして日本人の強さとは何だったのでしょうか。
※本記事は『 世界を震撼させた日本人 心を奮い立たせる日本の偉人』を再構成したものです。
⚫︎日本人はやさしくて寛容であり、恥になることを嫌う
※本記事は『 世界を震撼させた日本人 心を奮い立たせる日本の偉人』を再構成したものです。
⚫︎日本人はやさしくて寛容であり、恥になることを嫌う
門田隆将氏(以下、門田氏):日本人の生き方とはどういうものか、矜持や信念というものの持ち方やあり方に、今の日本人と昔の日本人とで違いがあるのか。そこのところを大先輩の高山先生とお話ししていきたいと思います。
高山正之氏(以下、高山氏):今は口先だけの批判屋が多い。まともな日本人は消滅した、日本人は劣化したとかいうけれど、決めつけは早計すぎる。現実を見れば、2021年の衆議院総選挙でも、まともさを理解し、求める人は驚くほど増えてきている。歴史を正しく捉えて、今を見ないといけない。
門田氏:日本人は、やさしくて寛容であり、恥になることを嫌います。これは民族的な特徴ですね。
高山氏:よその国の人間と日本人のどこがちがうのか。それを今の日本人と過去の日本人とを踏まえて考えていく時、キリスト教の問題などはいい例になると思う。
キリスト教は、どんな国も受け入れ、受容する宗教のようにいわれている。ガリラヤ湖のほとりから出てシリアで布教され、ついにはローマに入ったと。しかし、ローマも最初は、キリスト教の受け入れを渋っていた。
ローマはもともとギリシャの神々を仰ぐ多神教国家で、ジュリアス・シーザー(紀元前100~紀元前44年)も、自らを女神アフロディテ(ヴィーナス)の子でローマを建国したアエネアスの末裔と言っている。ギリシャの神々がそのままローマに根づいていた。
おまけにローマ人はギリシャ人より精力的で、シーザーがガリヤに遠征したように海外にも盛んに出かけていって、外地で気に入った神様がいるとローマに連れて帰った。エジプトのイシス神や、ゾロアスターにも近いミトラ神といった中東の神様だとか、いろんな神様を祀っていた。結構信者もいたらしい。
信仰は自由というのが、ローマのいいところだった。当初、キリスト教がなぜ嫌われたのかというと、母体のユダヤ教の神ヤハウェが「オレ以外の神を祈るな」と言ったから。そういう狭量さがイエスの時代になっても残っていて、他の神々の存在を許さなかった。寛容さがなかった。
それがローマ市民、特に皇帝の気に召さなかった。第五代皇帝のネロ(37~68年)がキリスト教徒を迫害したのも、その狭量さを嫌ったからだろう。十二使徒のペテロとパウロまで処刑したことは、のちのキリスト教専制の世の中になっても、さんざん悪くいわれてきた。そういうところも、キリスト教の狭量さの表れみたいにも見える。
ローマ帝国がネロから300年、キリスト教を受け入れなかったのには、そういう背景があった。キリスト教信者は狭量に増して、しつこさもすごかった。結局、コンスタンティヌス帝の時に皇帝も根負けして多神教のローマで布教を認められた。そして392年、テオドシウス帝に働きかけて、とうとうローマの国教にさせてしまう。
国教になった途端にキリスト教徒が何をやったかというと、イシスやミトラなど、すべての他の神々の神殿をぶち壊し、その信仰を禁じた。ローマの礎だったギリシャの神々もすべて追放しただけでなく、テオドシウスの時には、ギリシャ時代からのギリシャの神々の聖地だったデルフォイも潰させて、その跡地にキリスト教の教会まで建てた。
ローマ時代には、自由な宗教、自由な学問というものが連綿とギリシャから生き続けていた。たとえば、エジプトのアレクサンドリアという都市は、壮大な図書館であり、研究所だった。そこで天文学を教えるヒュパティアという美人の学者がいた。ヒュパティアは、キリスト教の祭司が「イエスが湖の上を歩いてきた」と説教するのを聞いて「非科学的な奇跡を売り物にするのはいかがなものか」と批判した。そしたら、狭量なキリスト教徒たちが彼女を襲って、裸にひんむいて、牡蠣の貝殻で肉をそいで殺してしまった。ついでに、アレクサンドリアに伝わっていた、いわゆるギリシャ哲学から何から全部、ぶち壊した。その残りは、7世紀以降、イスラム勢力の統治になってからイスラム教徒が大切に保存し研究も重ねた。ペルシャでは、イブン・シーナなんて学者も出た。
⚫︎キリスト教の不寛容は身内に向けられた
高山氏:一方のキリスト教世界は以後、蒙昧(もうまい)な迷信の世界に落ちていく。唯一の研究は聖書の解釈で、ミサの時のパンは種無しパンだ、いやパンならなんでもいいんだ、といったアホな論争を繰り返して、ついにはローマ教会は西のカトリックと東の東方正教会に分裂している。以降、キリスト教の不寛容は、身内に向けられ、身内の中に異端を探して宗教裁判にかけた。「教会は要らない」「聖書に帰れ」と言ったフスは火あぶりにあった。同じく「聖書だけでいい」と言ったアーミッシュも見つかり次第に殺された。
門田氏:不寛容というか、ものすごい攻撃性ですよね。11世紀に始まるエルサレムをめぐるイスラムとの戦いなんて、キリスト教徒のほうがはるかに残虐ですよね。たとえばサラディンとの戦いにしても、十字軍のほうが圧倒的に残虐です。
高山氏:十字軍には、中東の子どもたちがいちばん柔らかくて美味いからって、手足をもいで焼いたり煮たりして食ったという記録があるという。
キリスト教は、一見するとよさそうなので、みんなが騙された。あんなに抵抗していたローマですらついに騙されてしまった。みんな心の中ではひどいなと思ってはいた。そういうイエス・キリストの愛と慈悲を日本にもと、16世紀に宣教師がやってきた。
【】世界のどの国も成し遂げられなかったキリスト教の追放
高山正之氏(以下、高山氏):今は口先だけの批判屋が多い。まともな日本人は消滅した、日本人は劣化したとかいうけれど、決めつけは早計すぎる。現実を見れば、2021年の衆議院総選挙でも、まともさを理解し、求める人は驚くほど増えてきている。歴史を正しく捉えて、今を見ないといけない。
門田氏:日本人は、やさしくて寛容であり、恥になることを嫌います。これは民族的な特徴ですね。
高山氏:よその国の人間と日本人のどこがちがうのか。それを今の日本人と過去の日本人とを踏まえて考えていく時、キリスト教の問題などはいい例になると思う。
キリスト教は、どんな国も受け入れ、受容する宗教のようにいわれている。ガリラヤ湖のほとりから出てシリアで布教され、ついにはローマに入ったと。しかし、ローマも最初は、キリスト教の受け入れを渋っていた。
ローマはもともとギリシャの神々を仰ぐ多神教国家で、ジュリアス・シーザー(紀元前100~紀元前44年)も、自らを女神アフロディテ(ヴィーナス)の子でローマを建国したアエネアスの末裔と言っている。ギリシャの神々がそのままローマに根づいていた。
おまけにローマ人はギリシャ人より精力的で、シーザーがガリヤに遠征したように海外にも盛んに出かけていって、外地で気に入った神様がいるとローマに連れて帰った。エジプトのイシス神や、ゾロアスターにも近いミトラ神といった中東の神様だとか、いろんな神様を祀っていた。結構信者もいたらしい。
信仰は自由というのが、ローマのいいところだった。当初、キリスト教がなぜ嫌われたのかというと、母体のユダヤ教の神ヤハウェが「オレ以外の神を祈るな」と言ったから。そういう狭量さがイエスの時代になっても残っていて、他の神々の存在を許さなかった。寛容さがなかった。
それがローマ市民、特に皇帝の気に召さなかった。第五代皇帝のネロ(37~68年)がキリスト教徒を迫害したのも、その狭量さを嫌ったからだろう。十二使徒のペテロとパウロまで処刑したことは、のちのキリスト教専制の世の中になっても、さんざん悪くいわれてきた。そういうところも、キリスト教の狭量さの表れみたいにも見える。
ローマ帝国がネロから300年、キリスト教を受け入れなかったのには、そういう背景があった。キリスト教信者は狭量に増して、しつこさもすごかった。結局、コンスタンティヌス帝の時に皇帝も根負けして多神教のローマで布教を認められた。そして392年、テオドシウス帝に働きかけて、とうとうローマの国教にさせてしまう。
国教になった途端にキリスト教徒が何をやったかというと、イシスやミトラなど、すべての他の神々の神殿をぶち壊し、その信仰を禁じた。ローマの礎だったギリシャの神々もすべて追放しただけでなく、テオドシウスの時には、ギリシャ時代からのギリシャの神々の聖地だったデルフォイも潰させて、その跡地にキリスト教の教会まで建てた。
ローマ時代には、自由な宗教、自由な学問というものが連綿とギリシャから生き続けていた。たとえば、エジプトのアレクサンドリアという都市は、壮大な図書館であり、研究所だった。そこで天文学を教えるヒュパティアという美人の学者がいた。ヒュパティアは、キリスト教の祭司が「イエスが湖の上を歩いてきた」と説教するのを聞いて「非科学的な奇跡を売り物にするのはいかがなものか」と批判した。そしたら、狭量なキリスト教徒たちが彼女を襲って、裸にひんむいて、牡蠣の貝殻で肉をそいで殺してしまった。ついでに、アレクサンドリアに伝わっていた、いわゆるギリシャ哲学から何から全部、ぶち壊した。その残りは、7世紀以降、イスラム勢力の統治になってからイスラム教徒が大切に保存し研究も重ねた。ペルシャでは、イブン・シーナなんて学者も出た。
⚫︎キリスト教の不寛容は身内に向けられた
高山氏:一方のキリスト教世界は以後、蒙昧(もうまい)な迷信の世界に落ちていく。唯一の研究は聖書の解釈で、ミサの時のパンは種無しパンだ、いやパンならなんでもいいんだ、といったアホな論争を繰り返して、ついにはローマ教会は西のカトリックと東の東方正教会に分裂している。以降、キリスト教の不寛容は、身内に向けられ、身内の中に異端を探して宗教裁判にかけた。「教会は要らない」「聖書に帰れ」と言ったフスは火あぶりにあった。同じく「聖書だけでいい」と言ったアーミッシュも見つかり次第に殺された。
門田氏:不寛容というか、ものすごい攻撃性ですよね。11世紀に始まるエルサレムをめぐるイスラムとの戦いなんて、キリスト教徒のほうがはるかに残虐ですよね。たとえばサラディンとの戦いにしても、十字軍のほうが圧倒的に残虐です。
高山氏:十字軍には、中東の子どもたちがいちばん柔らかくて美味いからって、手足をもいで焼いたり煮たりして食ったという記録があるという。
キリスト教は、一見するとよさそうなので、みんなが騙された。あんなに抵抗していたローマですらついに騙されてしまった。みんな心の中ではひどいなと思ってはいた。そういうイエス・キリストの愛と慈悲を日本にもと、16世紀に宣教師がやってきた。
【】世界のどの国も成し遂げられなかったキリスト教の追放
⚫︎世界のどの国も成し遂げられなかったキリスト教の追放
高山氏:しかし日本人はその性悪さをすぐ見抜いた。中国地方の大内義隆は最初にフランシスコ・ザビエルに会った大名だが、ザビエルは手土産もなく、義隆の男色を偉そうに戒めた。LGBT先進国の日本に来てその文化も知らず、なんという言い草だと、義隆はザビエルを放り出している。ほんとに礼をわきまえない連中だった。それでも宣教師どもは九州の大名に取り入って、まずは近隣諸国と戦争をさせた。それで日本人に初めて敵を捕虜に取ることを教えた。捕虜は売れることも教えた。売買は宣教師どもがやった。
そういうキリスト教の性悪さを、豊臣秀吉は非難し、伴天連(バテレン)追放令を出して、「日本人を海外に売るな」「今、手持ちの日本人がいるなら俺が買い取る」と言った。奴隷商売を続けるなら、この国からたたき出すと勧告した。
それを政敵だった徳川家康が引き継いで、禁教令を出した。キリシタン大名の高山右近は、高槻城下の神社仏閣を片っ端からぶっ壊し、坊主たちを殺して、その後に教会を建てたという。それで家康はキリスト教の狭量に完全に染まり切っていた右近を、日本から追い出した。イエスの加護でマニラに無事に着いたけれど、水が合わなかったのか到着してすぐに死んだ。日本の神様のバチが当たったんだろう。
世界のどの国も成し遂げられなかったキリスト教の追放は、徳川三代目の家光までかかった。キリスト教徒の最後のあがきが島原の乱だった。天草四郎時貞の配下には小西行長や有馬晴信などキリシタン大名の遺臣も加わっていた。ただの狂信者集団ではなかった。徳川方も落とすのに苦労したけれど、最後はキリスト教の狭量性に目をつけて、それを巧みに利用して落城させた。日本人の知恵で勝ったようなものだ。
というのは天草四郎はポルトガル系のカトリックの信者。日本にはこのときポルトガルに代わって日本との交易を望んだオランダ船が出入りしていた。彼らはカルヴァン派で、旧教では禁止されていた利息を含めた商取引行為を認めるプロテスタントだった。それで徳川側は、「島原の原城には旧教系のキリスト教徒もこもっているけれど、お前らの軍艦の大砲で海に臨む原城を砲撃してくれないか」と頼んだ。同じキリスト教徒だから難しいかなと思ったが、オランダは日本との交易ができるならと二つ返事で引き受け、海上から二日二晩にわたって砲撃を加えた。
宗派が違ったらもう虫ケラ扱い、キリスト教の狭量さが、このときは大いに役立った。同時にキリスト教の心根の狭さ、宗教観に日本人はホントにあきれ返った。キリスト教のいやらしさをはっきり見せつけた事件だったんじゃないかな。
いずれにせよ、天草四郎には大きな痛手を負わせ、落城に繋がった。面白いことにこの原城の最後は実に正確に後世に伝えられた。それは四郎時貞を裏切って土牢に閉じ込められていた山田右衛門作が唯一の生き残りとして保護されたからだ。
彼は落城が迫る中で、叛乱将兵はともかく、それについてきた女や子どもだけでも救うために降伏を考え、四郎時貞にも説いたが、狂信者たちは聞く耳を持たなかった。女、子どももみんな一緒に神の御許に行くのだ、の一点張りだった。仕方がないから包囲する幕府軍と通じて、開城の手はずを決めた。それがばれて右衛門作は四郎時貞の前に据えられ、裏切りの罰として何の罪もない彼の妻子は、目の前で殺された。右衛門作は土牢に戻され、最後の決戦で血祭りにあげられる前に、幕府軍の攻勢で城は落ちた。
この話も慈悲と寛容からいちばん遠い、キリスト教の姿を世間に広める結果になった。
その後も、幕府は危険思想団体キリスト教徒の取り締まりを続けた。わずかに隠れキリシタンがひっそり、信仰に生きてきた。それが明治を前に、長崎の教会に現れた。「信徒発見」とバチカンは大騒ぎになったが、この扱いにもキリスト教の狭量さが出て、現代の日本人をずいぶん鼻白ませた。
その後も、幕府は危険思想団体キリスト教徒の取り締まりを続けた。わずかに隠れキリシタンがひっそり、信仰に生きてきた。それが明治を前に、長崎の教会に現れた。「信徒発見」とバチカンは大騒ぎになったが、この扱いにもキリスト教の狭量さが出て、現代の日本人をずいぶん鼻白ませた。
というのは、隠れキリシタンのうち、半分は教会に戻ってミサにも出るようになった。でも残りの半分は江戸時代と同じくひっそり自分の家で信仰していくと言った。信者が教会に来て献金することでバチカンは成り立っている。フスやアーミッシュのように、「教会には行かない」などと戯言を言う者は一切、相手にしないとキリスト教会の団体が言い出した。それで教会に戻って献金する者を「潜伏キリシタン」と称してバチカンで顕彰する一方で、来ないほうの「隠れキリシタン」は相手にもしなくなった。どうです、この狭量、せせこましさ。
⚫︎日本がキリスト教化しなかったのは日本の武士たちのおかげ
門田氏:日本がキリスト教化しなかったのは、当時世界ナンバーワンの強さを誇った日本の武士たちのおかげですよね。外国から見たら、恐ろしいほどの戦闘力を持った一種の“首狩り族”ですよ(笑)。とても太刀打ちできません。宣教師たちが日本の戦を見て、軍事的な制圧を諦めた理由がよくわかります。
肉体的なパワーだけでなく、技術力もそうです。たとえば鉄砲。伝来した鉄砲を、日本人は分解して徹底的に研究し、改良に改良を重ねて、独自に性能を発達させていきました。一時期、世界の鉄砲の7割以上が日本にあったといいますからね。恐ろしく強い首狩り族です。しかも技術力も持った、教養のある戦士ですからね。
高山氏:慈悲も知ってる。寛容さも知ってる。だから、秀吉から家光までかかって、彼らを日本に入れちゃいけないと頑張った。そしてキリスト教を禁教にして邪宗にした。これはね、ホントに世界で日本だけですよ。
門田氏:軍事力がすべてでしょう。スペインでも、とても歯が立ちません。実際にそういう報告が本国に上がっていますからね。
高山氏:それがあっての禁教だったのだ。その精神は、明治政府も引き継いだ。民衆に最初に出した「五榜の掲示」というのがある。五カ条の禁止令で、立て札みたいなものだけど、その第三札に「切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ」とある。キリスト教をやっぱり禁じていた。
門田氏:16世紀から17世紀あたりでも、日本は情報を持っているわけですよ。スペインはポルトガルのことを、またポルトガルはスペインのことを、お互いに「こいつらが世界中で何をやっているか」という情報を暴露し合っているわけです。その後も、鎖国している割には、ちゃんと情報を持っていた。
高山氏:1775年、アメリカが独立する直前、スウェーデンの学者ツュンベリーがオランダ人を装って長崎に来た。江戸参府もやって日本を見聞しているけれど、体験記の中で「日本人はオランダ人が黒人奴隷を苛め、酷使するのを本気で怒っていた」と書いている。そういう人でなしのオランダ人を嫌い、彼らが風呂に入らずに、体臭を漂わせるのを「登城する紅毛に蠅のついていき」と川柳にも詠んでいる。
だから、明治になってもキリスト教を禁止したわけだ。横浜にも、五榜の掲示の立て札が出る。西洋人が「なんだ、失礼だろう」と抗議したけれど、「キリスト教は悪い宗教だから日本人には信仰を禁じている」と説明している。
最終的に、日本は1889年の大日本帝国憲法の発布で、宗教の自由を認める。なぜ認めたかというと、西洋の中で最も遅くまで奴隷売買をやっていたアメリカ人が、もうやっていないと申告し、それを確認したからといわれている。
日本人は、キリスト教がどんなに勢力を持とうが、欧米列強が何を言おうが、全然、それに動じない。これは、日本の特筆すべき民族性。かなり重要な、日本人を解明するひとつのポイントだと思うね。
⚫︎日本がキリスト教化しなかったのは日本の武士たちのおかげ
門田氏:日本がキリスト教化しなかったのは、当時世界ナンバーワンの強さを誇った日本の武士たちのおかげですよね。外国から見たら、恐ろしいほどの戦闘力を持った一種の“首狩り族”ですよ(笑)。とても太刀打ちできません。宣教師たちが日本の戦を見て、軍事的な制圧を諦めた理由がよくわかります。
肉体的なパワーだけでなく、技術力もそうです。たとえば鉄砲。伝来した鉄砲を、日本人は分解して徹底的に研究し、改良に改良を重ねて、独自に性能を発達させていきました。一時期、世界の鉄砲の7割以上が日本にあったといいますからね。恐ろしく強い首狩り族です。しかも技術力も持った、教養のある戦士ですからね。
高山氏:慈悲も知ってる。寛容さも知ってる。だから、秀吉から家光までかかって、彼らを日本に入れちゃいけないと頑張った。そしてキリスト教を禁教にして邪宗にした。これはね、ホントに世界で日本だけですよ。
門田氏:軍事力がすべてでしょう。スペインでも、とても歯が立ちません。実際にそういう報告が本国に上がっていますからね。
高山氏:それがあっての禁教だったのだ。その精神は、明治政府も引き継いだ。民衆に最初に出した「五榜の掲示」というのがある。五カ条の禁止令で、立て札みたいなものだけど、その第三札に「切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ」とある。キリスト教をやっぱり禁じていた。
門田氏:16世紀から17世紀あたりでも、日本は情報を持っているわけですよ。スペインはポルトガルのことを、またポルトガルはスペインのことを、お互いに「こいつらが世界中で何をやっているか」という情報を暴露し合っているわけです。その後も、鎖国している割には、ちゃんと情報を持っていた。
高山氏:1775年、アメリカが独立する直前、スウェーデンの学者ツュンベリーがオランダ人を装って長崎に来た。江戸参府もやって日本を見聞しているけれど、体験記の中で「日本人はオランダ人が黒人奴隷を苛め、酷使するのを本気で怒っていた」と書いている。そういう人でなしのオランダ人を嫌い、彼らが風呂に入らずに、体臭を漂わせるのを「登城する紅毛に蠅のついていき」と川柳にも詠んでいる。
だから、明治になってもキリスト教を禁止したわけだ。横浜にも、五榜の掲示の立て札が出る。西洋人が「なんだ、失礼だろう」と抗議したけれど、「キリスト教は悪い宗教だから日本人には信仰を禁じている」と説明している。
最終的に、日本は1889年の大日本帝国憲法の発布で、宗教の自由を認める。なぜ認めたかというと、西洋の中で最も遅くまで奴隷売買をやっていたアメリカ人が、もうやっていないと申告し、それを確認したからといわれている。
日本人は、キリスト教がどんなに勢力を持とうが、欧米列強が何を言おうが、全然、それに動じない。これは、日本の特筆すべき民族性。かなり重要な、日本人を解明するひとつのポイントだと思うね。
※本記事は『 世界を震撼させた日本人 心を奮い立たせる日本の偉人』を再構成したものです。