世界遺産・熊野三山の不思議な信仰。その独自性の意外な理由とは? 柳田國男も取り組んだ熊野信仰の背景
現代ビジネス より 211220 新谷 尚紀
世界遺産として知られる熊野の霊場。その信仰には、容易には捉えがたい不思議なところがあると、日本の民俗研究の第一人者・新谷尚紀氏は言います。その「不思議」の背景には、一体何があるのでしょうか?
神社を通して日本古来の信仰のかたちを明らかにする新刊『神社とは何か』より、熊野信仰の正体を解き明かします。
⚫︎山中の不思議な社
日本の各地の神社の中で、なかなかその正体を見定めることが困難な不思議な神社、それが熊野三山の神社である。古代からの長い歴史をもち、しかも強力な霊験力のある神仏としての独特の世界を形作ってきているのがその熊野の信仰である。
その熊野信仰の構造について読み解く上で重要なのは、その基盤に、柳田國男が『遠野物語』(1910)で発見し「山人考(やまびとこう)」(1917)や「山人外伝資料」(1913、1917)などで精力的にその情報を収集した、日本列島の先住民の子孫として山に棲み続けてきた山人たちの生業と信仰とがあるという点である。
熊野は奥深い山中の世界である。里から追われて山に棲みついた山人たちの生業と信仰とが、平城京の人びとにとってたとえば葛城山(かつらぎさん)の役行者、役小角(えんのおづぬ)のような修験の霊験の信仰を磨き上げ、里人たちを戦慄せしめたのである。
平城京の王権とその世界の者たちにとって、役小角は恐るべき山人であり異人であった。その使役する前鬼(ぜんき)と後鬼(ごき)は、現在でも吉野の山中の地名として残り伝えられているように、日本の鬼の原像は、里人が山に追いやったその山人たち、異人たちへの差別と恐怖と畏怖と瞻仰(せんぎょう)の対象として形象化された存在なのである。
そのような基盤的な山岳修験の信仰の上に、まずは、記紀神話が語るような古代の大和王権の天孫神話に関連する信仰が重なり、さらにその上に、神仏習合の進んだ神祇信仰と仏教教義の混淆した有力な信仰体系が形成され、そのような重層的な信仰体系が長い歴史の伝承と変遷の運動の中で、今日にまで練り上げられながら伝えられてきているのである。
したがって、それは日本の宗教のありかたの一典型例であり、神祇信仰と仏教信仰と山岳信仰の混淆体としての特徴をもっているのである。
⚫︎熊野の神社はいつからあるか?
熊野の神社として記録にみえる早い例は、平安初期の延暦年間ころの社寺の封戸に関する法制書類を整理した「新抄格勅符抄」に、奈良時代の天平神護二(766)年、熊野牟須美神(くまのむすひのかみ)に四戸、熊野速玉神に四戸を充て奉るとある記事である。
そして、平安中期の「延喜式神名帳」には、紀伊国牟婁(むろ)郡の六座の内に、名神大と分類された熊野坐(くまのにます)神社、大と分類された熊野速玉神社の二社があげられている。
この熊野牟須美神、熊野坐神社がいま熊野の本宮(ほんぐう)と呼ばれている神社で、熊野速玉神、熊野速玉神社が熊野の新宮(しんぐう)と呼ばれている神社であり、この両社はともに奈良時代からの古い由緒を伝えている。
そして、これに平安中期からは、那智山(なちさん)の壮麗な那智大滝を神体として飛滝権現(ひろうごんげん)と崇拝される熊野那智大社を加えて、熊野三山、熊野三所と呼ばれ「日本第一大霊験」として信仰を集めてきている。
⚫︎熊野権現
熊野三山は熊野権現ともいい、この権現という呼称は、神仏習合の本地垂迹説によるもので、日本の神々はその本地は仏であり、その垂迹が神であるという考えによる。権現とは、仮に神として仏が現れた姿だという意味である。
たとえば、熊野本宮の神は家津御子(けつみこ)大神であるが、その本地は阿弥陀如来であり、熊野速玉の神は速玉大神であるが、その本地は薬師如来だと説かれてきている。
この熊野権現の信仰に大きく関係していたと考えられるのが、吉野の大峰山(おおみねさん)や金峯山(きんぶせん)の山岳信仰と修験道の信仰であり、霊験豊かなその呪験力が説かれて広く信仰を集めていった。
熊野権現の本地仏とその垂迹神の関係についての記録の早い例は、『為房卿記』の永保元(1081)年10月5日条の「三所権現」の記事や、「内侍藤原氏施入状案」の応徳三(1086)年11月13日「抑伝承、熊野権現弥陀観音垂迹、以慈悲利益法界衆生」(『熊野那智大社文書』5)という文などである。
⚫︎熊野詣
この熊野権現への信仰が盛んになったのはとくに平安時代後期からで、平安京からはるか離れたこの熊野の地にはるばると参詣する、法皇、上皇、女院の御幸が行なわれ るようになり、貴族たちも盛んにこの熊野詣を行なうようになった。
最初の熊野御幸は延喜七(907)年の宇多(うだ)法皇のそれだといい、その約80年後が花山院(かざんいん)であったという。
その後、院政期になると急激に熊野詣は盛んとなり、白河院は9回(1090~1128)、鳥羽院は21回(1125~53)、後白河院は34回(1160~90)、後鳥羽院は28回(1198~1221)も参詣している。
その理由の一つとして考えられるのは、現世で権力と栄華を極めた彼らも、来世への不安はそれだけ逆に強く、熊野三山を中心に熊野五所王子から十二所権現まであらゆる救済に応えられるとされた本地仏と権現神に、現世と来世の安穏そして極楽往生を祈願したからであろうと考えられる。
天皇の身であれば、皇祖神天照大神に奉仕する皇祖孫であり自らは神聖な現人神(あらひとがみ)であり、個人的な祈願は不可であった。しかし、譲位して院となった身 であれば自由であった。そして、参詣旅行としての観光や娯楽の意味ももちろん大きかったと考えられる。
藤原宗忠(むねただ)の日記、『中右記(ちゅうゆうき)』には天仁二(1109)年10月18日条から11月10日条に彼が熊野詣を行なったときの興味深い記事がみえる。
はじめは20歳のとき熊野参詣を思い立ったが、身辺の死の忌み穢れなどでその後2回とも成就できず、いま28年後の3回目、やっと48歳にして願いが叶ったという喜びを記している。
ただ、そんな彼も10月20日条では,日高川の大水に行路を妨げられながらも,塩屋王子社に奉幣し,鵤(いかるが)王子に奉幣し,切部王子の水辺で祓えをして奉幣し,日没前に下人の小屋に宿をとることができたと安堵しながら,「今日或行海浜,或歴野径,眺望無極,遊興多端也,行程百四十町許」と記しており,紀州海岸の美しい景色に魅了されていたことがわかる。
⚫︎熊野三山
では、その熊野三山、熊野権現の神々とはどのような神々であったのか。
前述のように、「新抄格勅符抄」の天平神護二(766)年の記事には、熊野牟須美神と熊野速玉神の二神が記されており、延長五(927)年成立で康保四(967)年施行の「延喜式神名帳」には、熊野坐神社と熊野速玉神社の二社があげられている。
そこで、この熊野牟須美神と熊野坐神社が同じで熊野の本宮であり、熊野速玉神と熊野速玉神社が同じで熊野の新宮であるといってよいのであるが、まだそこには熊野那智大社が記されていないことが留意される。
そこで、いまみた『中右記』の参詣記事をもう一度みてみる。すると、この当時からすでに熊野三山では、本宮でも速玉社でも那智社でもすべて同じく、証誠殿、両所権現、若宮王子という三神が祭られていたことがわかり、そのうち那智の滝はやや観光的な意識があったことがわかる。
⚫︎「三山」の意味するところ
その熊野の神々についての当時の信仰の様子を記しているのが、鳥羽上皇と待賢門院璋子の熊野参詣に同行した源師時(みなもとのもろとき)の日記『長秋記(ちょうしゅうき)』の長承三(1134)年2月1日条の記事である。
それによれば、以下のとおりであった。
熊野三所とは、丞相(じょうしょう)(家津王子:阿弥陀),両所(西宮・結宮:千手観音)、中宮(速玉明神:薬師如来)の三所。
熊野五所王子とは、若宮(十一面観音)、禅師宮(地蔵菩薩)、聖宮(龍樹菩薩)、児宮(如意輪観音)、子守(正観音)の五所王子。
熊野四所明神としては、一万(普賢)十万(文殊)、勧請十五所(釈迦)、飛行夜叉(不動尊)、米持金剛童子(毘沙門)の四所明神。
以上に加えて、熊野修験長床衆の道場である礼殿守護金剛童子があげられている。
つまり、これら『中右記』や『長秋記』によれば、11世紀の院政期には、熊野本宮社、新宮速玉社、那智社の三ヵ所で、これら熊野三所権現、熊野五所王子、四所明神、礼殿のいずれもがほぼ同じく祭られており、参詣されるようになっていたことがわかる。
現在では熊野三山、熊野三所といえば、本宮、新宮、那智の三山、三所のことと一般的には理解されているが、もともとは、熊野三所とは、本宮だけの祈願対象としての三所という意味であり、証誠殿の家津御子(阿弥陀)と、西宮と結宮の両所(千手観音)と、中宮の速玉明神(薬師如来)の三所であったことがわかる。
それが、のちに流用されて意味がかわり、具体的にわかりやすいかたちで、本宮、新宮、那智の三所となって、現在に至っているということである。
⚫︎熊野信仰
日本の神祇信仰と、仏菩薩の権現信仰と、山岳修験の信仰と、この三者が融合した熊野三山の信仰は、現世も来世も含めて強力な利益(りやく)をもたらす霊験豊かな信仰として、貴族や武家はもちろん日本各地の庶民も含めた広い階層にまで広まっていった。
中世の九条兼実(くじょうかねざね)の日記『玉葉(ぎょくよう)』には「人まねのくまのまうで」、近世の『太閤記(たいこうき)』や『和訓栞(わくんのしおり)』では「蟻(あり)の熊野詣」などと書かれている。
実際に熊野まで参詣できない人たちにも熊野山伏や熊野御師がその信仰を各地に広め、また熊野比丘尼(びくに)が熊野参詣曼荼羅の絵解きをしながら来世の往生を説いていった。
⚫︎熊野三山の立地
ここであらためて、熊野三山の立地についてみてみる。
すると、吉野の山中から流れ来る大河の熊野川中流の川の中洲の河原に祭られてきた本宮大社、下流の河口近くで神倉神社の巨岩のゴトビキ岩の磐座祭祀をともなう新宮速玉社、はるか熊野灘からも遠望できる那智山の大瀑布の飛滝神社をともなう那智社、という三社がセットになっていることが注目される。
熊野三山とは、高峻な山岳を水源とする大河の中洲の河原、巨岩の磐座、海上からも遠望されるほどの断崖落差133メートルの大瀑布、という自然の威力をあらわすような立地で設営されてきた信仰の装置であり、それに日本古代の神祇信仰と仏教信仰と山岳修験の信仰とが融合したまさに「日本第一大霊験」としての歴史を積み重ねてきている神社なのである。
なお、大斎原(おおゆのはら)の本宮大社の社殿は、明治二二(1889)年の大洪水でほとんどが被災してしまい、明治二四(1891)年にこの旧社地から西方の台地に新しく造営されたのが現在の熊野本宮の社殿である。
⚫︎山の民と修験と
それにしても熊野三山と熊野信仰というのは不思議な神々であり、信仰である。その背景に何があるのか、ここで柳田國男の山人論を参考にしてみよう。
柳田は、まず『遠野物語』で、つまり平地民、常民とはその系譜の異なる山地民の存在とその歴史に注目している。
そして、「山人考」や「山人外伝資料」などで、日本列島の先住民の子孫である山人、山の民と平地民との交流の歴史に注目している。
山人の存在とその伝承をめぐって中世の鬼の話に注目して、中世には鬼には陰陽道の鬼、あるいは酒吞童子のように退治される鬼など三つがあるが、その一つ、自ら鬼の子孫などと名乗る者たちが諸国にいるということを指摘している。
それが、たとえば大和吉野の大峰山下五鬼(ごき)などである。その五鬼の家筋の者は、山上参りの先達(せんだつ)職を世襲して本山修験の聖護院(しょうごいん)の法親王(ほっしんのう)の登山に際して案内役をつとめていたなど、修験道の始祖に連なる家筋であったという伝承に注目していた。
中世の修験道には、その聖護院を本寺とする本山派と、醍醐寺三宝院を本寺とする当山派とがあり、両派の対立と研鑽の中でそれぞれの活発な活動が続けられていた。
その本山派は、熊野本宮、熊野新宮、熊野那智の熊野三山を拠点とする天台宗系の修験であり、寛治四(1090)年に白河上皇が熊野詣を行なった際にその先達をつとめて熊野三山検校(けんぎょう)に任ぜられたのが園城寺(おんじょうじ)の増誉(ぞうよ)であったという由緒を伝えている。
その一方、当山派は、吉野の金峯山、大峰山を拠点とする山岳修験者たちの一派で、真言宗の聖宝(しょうぼう)(832~909)を開祖とする醍醐寺の三宝院を本寺とし、吉野大峰山中の小篠(おざさ)、現在の奈良県天川村洞川(どろがわ)の地を拠点に結衆して、全国各地に展開していた。
そのような修験道の始祖とされるのが、飛鳥時代の山岳修験者の役行者(役小角)であるが、柳田國男はその侍者であった前鬼と後鬼にちなむ家筋や地名が吉野山中には多く残っていることなどを指摘して、そのような山岳修験の歴史の根本に、里人たちからは鬼と呼ばれた山人たちの存在があったと指摘している。
そして、その山人たちのもっていた異様な身体的な力、宗教的な験力への信仰がもともとあったのであろうと指摘している。
⚫︎近世初頭の大殺戮
山の民に連なる修験者や平地民の出自ながら山岳修験の験力を磨いていった修験者たちの混成とその活躍が修験道を隆盛に導いたのであったが、それらとはまた別に、日本各地には長い歴史の中で維持されてきていた山の領域とそこに暮らしてきていた山人たちの生活と生存という事実があった。
柳田はそのような具体的な山人の歴史を文献史料の中にも発見してその位置づけを行なっている。
1600年代初頭の幕藩体制が成立する時期の日本各地で行なわれた大量の山民たちの殺戮の歴史についてである。
近世幕藩勢力の覇権の確立の中で,一斉掃討の対象とされたのが,彼ら山人たちであった。
慶長一九(1614)年12月の紀伊国から大和国にまたがる北山地方で起こった「北山一揆」をはじめ、元和五(1619)年の肥後国から日向国にまたがる椎葉山一揆、元和六(1620)年の四国の祖谷山(いややま)一揆など、文献記録が存在する例もある。
『大日本史料』第一二編16に収める「紀伊石垣文書」によれば、北山一揆の武装した山人たちが、12月11日に紀州新宮に大勢押し寄せてきた、そして卯の刻、つまり朝6時ころから合戦に及んだ、そのとき大峰山の前鬼で一揆の大将の左衛門太夫という者を組み伏せて首を取った人物に向けて、その手柄を確かに報告しておくと記されている。
こうした記録類や熊野の歴史からみると、熊野信仰の基盤には、やはり柳田が想定した山の民の存在とその平地民との交流の歴史のなかで磨かれていった、山岳修験の根強い長い伝統があったものと考えられるのである。
近世幕藩勢力の覇権の確立の中で,一斉掃討の対象とされたのが,彼ら山人たちであった。
慶長一九(1614)年12月の紀伊国から大和国にまたがる北山地方で起こった「北山一揆」をはじめ、元和五(1619)年の肥後国から日向国にまたがる椎葉山一揆、元和六(1620)年の四国の祖谷山(いややま)一揆など、文献記録が存在する例もある。
『大日本史料』第一二編16に収める「紀伊石垣文書」によれば、北山一揆の武装した山人たちが、12月11日に紀州新宮に大勢押し寄せてきた、そして卯の刻、つまり朝6時ころから合戦に及んだ、そのとき大峰山の前鬼で一揆の大将の左衛門太夫という者を組み伏せて首を取った人物に向けて、その手柄を確かに報告しておくと記されている。
こうした記録類や熊野の歴史からみると、熊野信仰の基盤には、やはり柳田が想定した山の民の存在とその平地民との交流の歴史のなかで磨かれていった、山岳修験の根強い長い伝統があったものと考えられるのである。