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アーレントが指摘,カフカが予見した現代人の恐るべき変容とは? ネットを介して人間はますます動物化 2024/06

2024-06-14 01:21:59 | なるほど  ふぅ〜ん

アーレントが指摘し、カフカが予見した現代人の恐るべき変容とは? ネットを介して人間はますます動物化する【仲正昌樹】
 BestTimes より 240614    仲正 昌樹


フランツ・カフカ(1883ー1924)
『人間の条件』(一九五八)でハンナ・アーレントは、最も人間らしい営みである「活動 action」、言語や身振りによるコミュニケーションは、古代のポリスのように、「公/私」の境界線がしっかり引かれていることによって可能になったと指摘した。
 「公的領域」が、自分と対等の他者たちから成る「公衆the public」の前に姿を現し、自らの意見の真実性を伝えるべく立派な市民として活動する=演じる(act)場であるのに対し、「家 oikos」を中心とする「私的領域」は、家長(=市民権保持者)による暴力を伴った支配が行われ、(主としての家長の)生物的欲求が充足される場でもある。
 動物的な欲求、暴力的な衝動が「私的領域」の中に抑え込まれ、処理・制御されていることで、市民は「公的領域」で立派な人物としての人格=仮面(persona)をかぶって、他者の前で活動する=演じることができる。


ハンナ・アーレント(1906ー1975)
 アーレントは、「経済」――〈economy〉の原義は〈oikos〉の運営術――を中心に動く近代市民社会では、「公/私」の境界線を厳格に守ることが困難であり、ヒトの暗い欲求が表の領域に表出しがちであること、生活上のニーズに煩わされることなく、良き市民として演技=活動する余裕がない人ばかりになっていることを指摘している。
 生々しい動物的な欲望が白日の下にさらされるようになると、「公的領域」を保つことが難しくなる。

 カフカ(一八八三-一九二四)の作品の多くは、こうした「公/私」の境界線の侵犯という視点から読み解くことができる。
 カフカの分身のように思える主人公たちは、プライベートな空間に拘りを持っている。『変身』(一九一五)のグレゴール・ザムザが、虫に「変身」するのは、自分の部屋のベッドの上だ。起き出して部屋から出、周囲のリアクションから自分の身体の変化を知ることになる。
 この姿ではもはや会社勤めを続け、一家を養うことはできない。彼は自分の部屋に閉じこもり、次第に人間性を失っていく。一家の者たちは、彼の部屋に入っていろいろ世話をするが、その醜く変身した姿と行動に耐えられなくなり、父親は林檎を投げつけ、彼を殺そうとする。虫になった彼に絶望した一家は、新たに下宿人を家に招き入れる。ザムザが生息できる場は次第に少なくなっていく。

 グレゴールの「変身」は、彼が社会で生きるためそれまで隠していた欲望、動物性が身体的な振る舞い、症状として現れ、公的領域から退去せざるを得ない状況が生じたことを寓意していると解釈できる。
 動物的な自己を露出することが許される私的空間であるはずの部屋に辛うじて引きこもったものの、動物化が進んでいくなかで、家族が部屋の中に入ってくる。虫になった“彼”にはそれを拒否する意思を表明することができない。
 というより、意思そのものが依然としてあるかどうかさえ定かでない。家族や他人の眼に始終晒されることになる。「人間」らしい外観はどんどん崩れていく。

 こうした部屋をめぐる攻防とそれに伴う欲望の露呈という構図は、遺作となった三大長編『審判』『城』『失踪者』でより顕著となる――詳しくは拙著『哲学者カフカ入門講義』(作品社)を参照。
『審判』の主人公である銀行員のヨーゼフ・Kの下宿に、ある日突然、二人(+監督)の男が訪ねてきて、「あなたは逮捕された」と宣言する。彼らは、下宿の隣人の部屋を通って、Kの部屋に入り込み、いろいろぶしつけな行為をするが、警察が逮捕する時のように彼に手錠をかけて、身柄を拘束するわけではなく、犯罪の容疑を告げるわけでもなく、取り調べらしいことをしようともせず、ただ彼のプライベートな空間を動き回り、不作法な真似をする。

 彼らが帰った後、Kは隣室のビュルストナー嬢が、自分のためにヘンな連中が部屋を荒らしたことを詫びに行く。そこで唐突に、Kは彼女を抱きしめ、激しくキスをする。まるで、侵入してきた監視人たちによって、彼にとっての公/私の壁が突き破られ、心の奥にあった欲望がもはや隠し切れなくなったように。
 監視人や監督は、単なる、権力の理不尽さ、恣意的な権力行使、権力の手先などを寓意する者たちではなく、彼にとっての公/私の壁に穴をあけ、公的人格と、動物的欲望の充満した身体の使い分けを不可能にする存在、何かの心的プロセスあるいは兆候を象徴する存在でもあるように見える。

 その後、彼は、どういう罪状により、どの裁判所の管轄か分からない訴訟=過程(Process)に巻き込まれ、物理法則に反しているとしか思えないいくつかの奇妙な“室内空間”に入り込み、そこで次々と隠された(性的なニュアンスを帯びた)欲望を露出させられる。

 貧しい人たちが住んでいる地区の汚らしい建物の屋根裏部屋の中にある、多くの人がたむろし、裁判の順番を待ったり、政治集会を行なったりしている「裁判所」。
 そこで、Kは、廷吏の妻に誘惑され、そのつもりになるが、その場にいた法学部生や判事に彼女を横取りされる。伯父と共に訪れた弁護士の事務所で、伯父と弁護士が話し込んでいる間に、弁護士の看護婦だという女性と、隣室で関係を持ち、何時間も過ごしてしまい、弁護士等の不興を買う。
 自分の勤めている銀行の廊下の片隅の暗がりの小部屋で、監視人たちが折檻されているのを見て、代わりに自分を打ってくれと叫ぶ。裁判所に強い影響を持つという法廷画家の部屋を訪ね、そこで画家と彼のモデルになっているらしい幼い少女たちのじゃれ合いに、たまらなく淫らなものを見たと感じる。

『城』や『失踪者』でも、主人公は、公的な秩序と私的な淫らさが交差する奇妙な場に自ら侵入しようとしたり、逆に閉じ込められたりする中で、欲望を剥き出しにされ、アイデンティティを保つのが困難になる。自分が何を欲し、どこに向かっていこうとしているのか次第に分からなくなっていく。

 カフカの作品は、「人間の条件」である「公/私」の境界線を失って、自分の意志と関係なく、(ネットを介して)欲望がどんどん露呈されていく中で、動物的に変容し続ける現代人の在り方を予見しているように見える。私たちの日常に深く入り込んだSNSは、私たちの隠れた願望を吸い上げ、公的空間に拡散する。



文:仲正昌樹

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