私たちが死ぬとき、何が起こっているのか─「臨死体験」研究の最前線に迫る |
臨死体験に魅せられて半世紀の精神科医が語る
COURRier より 210420
バージニア大学名誉教授のブルース・グレイソンは、約半世紀という長きにわたって、精神医学の見地から「臨死体験」を研究してきた。数多の体験談を聞いてきた彼によると、臨死体験には不思議にも共通している「感覚」があり、本人のその後の人生にも甚大な影響をもたらすという。
人々の興味を惹きつけてやまないこの現象は、現代科学でどう説明されうるのか? 臨死体験を50年研究した今、人間について思うこととは? 英紙「ガーディアン」によるインタビューを、前後編でお届けする。
⚫︎「今なら、世界を完全に理解できる」
グレッグ・ノームは24歳のとき、滝つぼの激流に飲み込まれて溺れ、砂だらけの川床に何度も叩きつけられた。
ところが、そこで彼は驚くべきものを見た。突然、子供時代の光景や自分でもほとんど忘れていた出来事、そして大人になったばかりの頃のいろいろな場面がはっきりとよみがえり、視界を埋め尽くしたのだ。
これらの記憶──それがそう呼べるものならば──は、鮮明で生き生きとしていた。ノームはこのとき、それらの出来事をもう一度体験し直していたのだろうか? そうとは言えない。それらは高速でほとんど一気に、波のように押し寄せてきたからだ。
とはいえ、ノームはそのひとつひとつをしっかりと認識することができた。それどころか、彼は現実における周囲のものまでも完全に知覚していた。激しい水の流れや砂の川床も、すべて鮮やかにくっきりと見えていた。「聴覚も視覚も、かつてないほどに研ぎ澄まされていました」と、のちに彼は回想している。
そして、水の中に沈んで出られないのにもかかわらず、彼は冷静で安らかな気持ちだった。これまでの自分は、感覚がどこか鈍っていたに違いない。だって今なら、世界を完全に理解できるし、宇宙の本当の意味すらわかるかもしれないのだから──そう考えていたのをノームは覚えている。
しかしやがて、イメージはかすんでいった。次に見えたのは、「暗闇だけでした」とノームは言う。「そして今にも何かが起こる、その前の小休止という感じがしたんです」
⚫︎臨死体験との「出会い」
それから4年後の1985年、コネティカット州で開かれた支援グループの会合で、ノームはこのときの体験について語った。彼は生還したが、死にかけた際にどうしてあのような精神状態になったのかを知りたいと思っていた。
その会合を主催したのは、精神科医で現在はバージニア大学名誉教授の、ブルース・グレイソンだ。
グレイソンは長年にわたり、こうした体験談を聞いてきた。1960年代、精神科の研修を始めて1ヵ月が経とうとする頃、グレイソンは、「病院のベッドで意識不明になっている間に、自分の身体から魂が離脱していた」と主張する患者に遭遇した。
そして、この患者はのちに、「別の空間で」起こったというその出来事について、正確に描写したのだった。
グレイソンには訳がわからなかった。「私は科学的にものを考える家庭の出身なんです」と彼は言う。「父は化学者でした。ですから私も、物質的な世界がすべてだと思って育ちました」
きっと誰かが患者に入れ知恵でもしたのだろう、と彼は考えた。「身体から離脱するなんていったいどういうことなのか、意味がわからない」と思ったという。
⚫︎半世紀にわたる情熱
それからずっと、グレイソンはそんな話は忘れてしまおうとした。けれども、医者に死亡したと判断されてから、あるいは死に近いと思しき状態になってから生に引き戻されるまでの間に、あの世に行ったかのような体験をした人々の強烈な話を、彼はたびたび聞くことになる。
1975年にベストセラーになった 『かいまみた死後の世界』において、著者であり、かつてグレイソンの同僚だったこともある精神科医レイモンド・ムーディは、この手の体験を「臨死体験」(near-death experiences, NDEs)と呼び、この名が定着した。
「そのとき初めて、これは私が出会ったその患者一人だけの問題ではないと思ったのです」とグレイソンは言う。「一般的な現象なんだ、と」
こうして彼は、この種の体験談の特性や、そこから浮かんでくる疑問に関心をもつようになった。なかでも最大の疑問はおそらく、「人が死ぬときに何が起こるのか」ということだろう。
「私はそれにのめり込んでいきました。そして50年経った今も、答えを求めているのです」
⚫︎人はなぜ臨死体験に惹かれるのか
臨死体験は新しい現象ではない。プラトンによれば、ソクラテスも体験したというし、大プリニウスも自らの体験を記録に残している(1世紀のことだ)。また、崖から落ちた登山家が恐怖よりも至福を感じたという例は、歴史上にたくさんある。
しかし、私たちは今なお変わらず、臨死体験の意味を知ろうと夢中になっている。ポピュラーカルチャーのなかにも、臨死体験のモチーフはふんだんに散りばめられている。
昨年、筆者は4歳の息子と一緒にディズニー映画 『ソウルフル・ワールド』を観た。この作品は小さな子供たちに臨死体験を紹介し、意識、死後の世界、そして私たちを私たちたらしめている目には見えないものについて考察している。
コンピュータ中心のこの時代、私たちは「正しく」生きるように促す物語をもてはやす傾向にある。よくあるのは、あらゆる瞬間に感謝し、ありのまま受け入れること、それに権力や名声や物質的な豊かさを求めるよりも、経験や人間関係を大切にするといったことだ。(平たく言えば、それが『ソウルフル・ワールド』のプロットだ)。
誰もがそのように生きられるわけではなく、私たちの多くはそういう生き方をしていないわけだが、それでも、この世での貴重な時間をむだにしないように、正しく生きるべきだとは感じている。
それゆえ、私たちは臨死のモチーフがある物語に心惹かれるし、文化のなかでそのような物語が好まれ続けてきたのだ。臨死の物語は私たちにこう問いかける。
⚫︎「もう一度チャンスがあったとしたら、どんなふうに生きる?」 (続く)
臨死体験は新しい現象ではない。プラトンによれば、ソクラテスも体験したというし、大プリニウスも自らの体験を記録に残している(1世紀のことだ)。また、崖から落ちた登山家が恐怖よりも至福を感じたという例は、歴史上にたくさんある。
しかし、私たちは今なお変わらず、臨死体験の意味を知ろうと夢中になっている。ポピュラーカルチャーのなかにも、臨死体験のモチーフはふんだんに散りばめられている。
昨年、筆者は4歳の息子と一緒にディズニー映画 『ソウルフル・ワールド』を観た。この作品は小さな子供たちに臨死体験を紹介し、意識、死後の世界、そして私たちを私たちたらしめている目には見えないものについて考察している。
コンピュータ中心のこの時代、私たちは「正しく」生きるように促す物語をもてはやす傾向にある。よくあるのは、あらゆる瞬間に感謝し、ありのまま受け入れること、それに権力や名声や物質的な豊かさを求めるよりも、経験や人間関係を大切にするといったことだ。(平たく言えば、それが『ソウルフル・ワールド』のプロットだ)。
誰もがそのように生きられるわけではなく、私たちの多くはそういう生き方をしていないわけだが、それでも、この世での貴重な時間をむだにしないように、正しく生きるべきだとは感じている。
それゆえ、私たちは臨死のモチーフがある物語に心惹かれるし、文化のなかでそのような物語が好まれ続けてきたのだ。臨死の物語は私たちにこう問いかける。
⚫︎「もう一度チャンスがあったとしたら、どんなふうに生きる?」 (続く)
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