量子力学が投げかける究極の問い──「物質は実在しない」は本当か? 100年に及ぶ論争の意外なゆくえ
現代ビジネス より 211017 吉田 三知世
従来の科学では決められない「基準値」と「受け入れられないリスク」の関係
相対論とならぶ二大物理理論・量子力学は、世界の見方を根幹から変えたことで知られています。量子力学が提示した世界観・物質観に猛然と異を唱えたアインシュタインは、量子力学の創始者の一人・ボーアと激しい論戦を繰り広げました。
「果たして実在とは何か」──大いなる問いをめぐる熱い論争の100年を克明にたどった近刊『実在とは何か──量子力学に残された究極の問い』(筑摩書房)が話題となっています。
私たちの暮らすこの宇宙は「必ず終わる」──いつ、どうやって?
同書の翻訳を担当した吉田三知世さんに、その深い魅力を語っていただきました!
⚫︎量子力学の解釈問題
20世紀の幕開けに萌芽(ほうが)した量子力学は、1925年に理論的に定式化され、はや100年になろうとしている。その応用は着々と進み、エレクトロニクスを生み出して、情報通信技術や医療その他の産業を成り立たせている。スマートフォンなど、日常生活で触れる機器をとおして暮らしにも浸透している。
ジャーナリストのブライアン・クレッグによれば、2014年における「先進国」のGDPの約35パーセントが量子技術に由来するという。今や量子力学は現代社会にとって不可欠だ。
そんな量子力学だが、わかりにくい。
だが、それはある意味当然だ。量子力学は、日常生活では見たり触れたりできない分子や原子、そしてそれよりもはるかに小さな要素を扱う理論だからだ。そのため高度な数学が必要で、訓練なしには厳密には扱えなくなってしまう(だが、数学抜きでも、最も大切なその「考え方」は議論できるので、ご安心を)。
さらに量子力学には、その解釈を巡る問題がつきまとう。
量子力学の正統的な解釈法は、ボーアが提唱したコペンハーゲン解釈である。観測結果のみが実在であり、その背後に実在など存在しないという、実証できることだけを問題にする立場だ。観測対象を記述する波動関数は、観測によって乱され、瞬時に「収縮」して一つの値に決定するという。
『実在とは何か』は、コペンハーゲン解釈の持つ問題点を取り上げ、それが初期から批判されてきたこと(特に、局所的な客観的実在を信じるアインシュタインによって)、代替解釈がいくつも提案されていること、そして実験によって局所実在論的な見方は否定されたものの、コペンハーゲン解釈の実在の捉え方にも問題があることを紹介し、このような状況に至った科学史的経緯を、多くの文献やインタビューを通して明らかにし、最後に今後物理学者はどのような姿勢で物理学に臨むべきかを提案する意欲的なものだ。
著者アダム・ベッカーは、宇宙論の博士号取得後、カリフォルニア大学バークレー校の客員研究員を務めたこともある。BBCのウェブ動画の原稿や、科学誌『ニュー・サイエンティスト』の記事なども執筆し、量子力学の不思議な世界を人々に広める活動に取り組む。
「How can we truly understand what’s real?(実在とは何か、真に理解するには?)」という約7分のウェブ動画に『実在とは何か』のエッセンスがアニメでわかりやすく紹介されているので、ぜひご覧いただければと思う(https://www.bbc.com/reel/video/p09fgqll/how-can-we-truly-understand-what-s-real-)。
⚫︎従来とは異なるボーア像
『実在とは何か』で驚くのは、従来とは違ったボーア像だ。
賢人と呼ばれながら、話は要領を得ず鈍重で、自らを中心とするグループが構築した、実在については不問にする解釈を強気で押し進めたかのように描かれている。これは、若手研究者を大切に育てた徳の高い科学者としてデンマーク市民からも尊敬されているという、ほかの多くの本のボーア像とはかなり違う。
じつのところボーアは、コペンハーゲン解釈を当面のあいだ守り通すことにより、慎重な不可知論の立場で、生まれたばかりの量子力学を大切に育てたかったのではないだろうか。 ノートルダム大学のドン・ハワード教授が述べているとおり、不明な部分を推測で論じるのではなく、しばらく不問にしておいて、確実にわかる観測結果だけを論じているうちに、やがて客観的で腑に落ちる全体像が出現するだろうと期待していたのではないか。
科学で問題に取り組む際、わからない困難なことに出会ったなら、多くの科学者がするように。それは不誠実さとは違うだろう。
20世紀前半にウィーンを中心として興隆した論理実証主義哲学と、量子力学との双方向の影響について、詳しい事実が紹介されているのは興味深い。観測結果だけが実在だというコペンハーゲン解釈は、知覚可能なものだけが存在するという論理実証主義の考え方とうまく合致していた。
ウィーンの論理実証主義者たちと、コペンハーゲンの物理学者たちは交流もしていたという。同時代にあって、共通する考え方の枠組みを使い、影響しあっていたようだ。科学は、哲学をはじめとする思想や、時代の趨勢と常に関わりあっている。
ボーアはまた、東洋の陰陽思想や、美術のキュビズムにも触発され、相補性の考え方に至ったそうだ。物理学の思考と、ほかの思想との類似性を見抜き、役に立つ思想を柔軟に取り込み、物理学に活かすことのできる人であったと言えよう。
⚫︎アインシュタインの先駆性
アインシュタインも、常に哲学を思考に活用していた。相対性理論構築の際、論理実証主義の前身とも言えるエルンスト・マッハの思想を拠り所とした。
しかし後に実在論的立場へと転じ、いわば量子力学の哲学的な基盤を厳しく問い、実証主義的なコペンハーゲン解釈の批判に回る。二度のソルヴェイ会議で論争を挑み、また、1935年にEPR論文を発表して、量子力学は「非局所的か、あるいは不完全だ」という議論を突きつけたことはつとに有名だ。彼は、量子力学の背後に、何らかの実在的な「隠れた変数」があると考えていた。
(1920年初頭のボーアとアインシュタイン。アインシュタインは、後にボーアらの実証主義的なコペンハーゲン解釈の批判に回った)
科学史においては、ボーアとアインシュタインの議論では、保守的な実在論に固執するアインシュタインが、進歩的なボーアに論駁(ろんばく)されたとされることが多いようだが、じつのところ、古典力学に従う巨視的な観測者に依拠した観測論に固執したボーアのほうがむしろ保守的で、アインシュタインが行ったコペンハーゲン解釈批判こそ、ボーム、エヴェレット、ベルをはじめとする新しい考え方につながったように思われる。
1964年、ベルは量子力学の予測と一致するような予測をする隠れた変数理論はすべて非局所的であることを発見し、仮に局所的な隠れた変数理論が存在するなら、それが満たすべき不等式を突き止める。これにより、それまで哲学的傾向の強かったボーアとアインシュタインの論争が、科学的に検証可能なものとなった。
そして、ついに2015年、ベルの発見から半世紀を経てようやく、四つの研究チームが独立に、正確な検証実験に成功。ベルの不等式の破れが検証され、アインシュタインの局所的実在論は反証されたのだった。
しかし、証明されたのは、非局所的な相関が存在するということであって、実在を考えないコペンハーゲン解釈が正しいということではないだろう。非局所的な相関を持つ実在には可能性が残っている。
つまり、観測による波動関数の瞬時の収縮を持ち込まないで済むような量子力学の解釈の可能性は否定されていない。エヴェレットの多世界解釈など、新しい提案はこの方向にあるといえよう。
⚫︎「新しい物理学」のために必要なこと
波動関数の収縮と、たとえば多世界、どちらも直観的にはなじみにくく、どちらを好むかは人それぞれだろう。解釈は恣意的に選べるなら、既存のコペンハーゲン解釈を使い続ければいいという考え方もある。
しかしベッカーは、どの解釈を採用するかは大きな問題だという。現状を打開し、新しい物理学を発見するには、解釈の選択は重要なのだ。
ファインマンも、数学的に等価な二つの理論を実験によって区別することはできないが、どちらの理論を選ぶかは、その人の世界観に大きな違いをもたらすと指摘している。科学理論は実験結果だけから構築することはできず、世界観を必ず伴っている。つまり、新しい物理学をもたらすには、新しい世界観が必要なのだ。
ある科学理論が、進歩のために変化すべき時点に到達しているのに、特定の考え方に固執しつづければ、それは謬見(びゅうけん)・偏見となる。進歩するには、考え方の枠組みはシフトしなければならない。
シフトの方向の導き手となるのが世界観であり、哲学はその源として頼れるだろう。シフトを妨げる、科学者個人や科学者コミュニティーに潜む偏見に常に注意を払い、理論にどんな解釈があり得るのか、どの解釈に発展性があるのかについて、オープンな心で探り続け、また、哲学や歴史を学んで、大局観を失わないようにしようと、ベッカーは呼びかける。
たとえばデイヴィッド・ドイッチュは、エヴェレット自身からその多世界理論を聞き、並行宇宙という新しい世界観を獲得し、これを利用して量子コンピュータ理論を考案したという。ドイッチュらの成果を足がかりに、従来のコンピュータでは事実上不可能な計算を超高速で成し遂げる量子コンピュータの開発が実際に取り組まれている今日、多世界解釈には発展性が感じられる。
このように科学理論が突き動かす実社会の動きは、市民の世界観にも変化をもたらし、新しい量子力学の解釈が人々の共通認識になっていくのだろう。逆に社会の共通認識や風潮も、哲学や科学の思考に影響を及ぼして、すべてが絶えず変化していくのだろう。
ゆっくりと、あるいは急激に。
哲学や科学の思考と社会の共通認識や風潮は、互いに影響を及ぼしあって変化していくだろう
⚫︎「新しい物理学」のために必要なこと
波動関数の収縮と、たとえば多世界、どちらも直観的にはなじみにくく、どちらを好むかは人それぞれだろう。解釈は恣意的に選べるなら、既存のコペンハーゲン解釈を使い続ければいいという考え方もある。
しかしベッカーは、どの解釈を採用するかは大きな問題だという。現状を打開し、新しい物理学を発見するには、解釈の選択は重要なのだ。
ファインマンも、数学的に等価な二つの理論を実験によって区別することはできないが、どちらの理論を選ぶかは、その人の世界観に大きな違いをもたらすと指摘している。科学理論は実験結果だけから構築することはできず、世界観を必ず伴っている。つまり、新しい物理学をもたらすには、新しい世界観が必要なのだ。
ある科学理論が、進歩のために変化すべき時点に到達しているのに、特定の考え方に固執しつづければ、それは謬見(びゅうけん)・偏見となる。進歩するには、考え方の枠組みはシフトしなければならない。
シフトの方向の導き手となるのが世界観であり、哲学はその源として頼れるだろう。シフトを妨げる、科学者個人や科学者コミュニティーに潜む偏見に常に注意を払い、理論にどんな解釈があり得るのか、どの解釈に発展性があるのかについて、オープンな心で探り続け、また、哲学や歴史を学んで、大局観を失わないようにしようと、ベッカーは呼びかける。
たとえばデイヴィッド・ドイッチュは、エヴェレット自身からその多世界理論を聞き、並行宇宙という新しい世界観を獲得し、これを利用して量子コンピュータ理論を考案したという。ドイッチュらの成果を足がかりに、従来のコンピュータでは事実上不可能な計算を超高速で成し遂げる量子コンピュータの開発が実際に取り組まれている今日、多世界解釈には発展性が感じられる。
このように科学理論が突き動かす実社会の動きは、市民の世界観にも変化をもたらし、新しい量子力学の解釈が人々の共通認識になっていくのだろう。逆に社会の共通認識や風潮も、哲学や科学の思考に影響を及ぼして、すべてが絶えず変化していくのだろう。
ゆっくりと、あるいは急激に。
哲学や科学の思考と社会の共通認識や風潮は、互いに影響を及ぼしあって変化していくだろう
📗実在とは何か——量子力学に残された究極の問い
著:アダム・ベッカー/訳:吉田 三知世
📗宇宙の終わりに何が起こるのか
著:ケイティ・マック/訳:吉田 三知世
著:ケイティ・マック/訳:吉田 三知世