閑雲孤鶴の日々  - Fire生活者の呟き -

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陸軍中野学校の真実 諜報員たちの戦後

2015年09月21日 | 書評 ノンフィクション
陸軍中野学校の真実 諜報員たちの戦後/斎藤充功/角川文庫/2008

タイトル的には、凄い雰囲気の本であるが、内容を客観的に分析すると、肝心な人物に取材を断られた結果だったとする本である。

著者は戦前・戦中・戦後の暗部に迫ろうと、取材活動を続ける。
その著者には、そうしたい使命、動機が今一つ。別に、戦前・戦中に任務を全うした人々に対し、共感を持っている訳でもない。そして、大東亜戦争や東京裁判の正当性について、調べ、問題提起している訳ではない。

左翼的発想を持つ人物が、愛国心の塊みたいな人物に取材した結果がどのような結果となるのか、考えてみたい。
著者は、一見、中立を装っている。しかし、取材される相手は違う。あら探しのため、国家的悪事を暴こうとする人物に見えてしまうのだろう。
それでも著者は、知りたいという意思表示を前面に出して対応する。
そのような前提で、中野学校出身者は、真実を知っていても語るのであろうか。

147頁にはこう書いてある。

**********
私は矢も楯もたまらず、名簿に載っている奥山の住所を訪ねることにした。
私は意を決して土間に入り、身分を名乗った
**********

153頁にはこう書いてある。

**********
清沢宅へは連絡なしの突然の訪問であった。
私は内心、清沢があってくれるかどうか気を揉んでいた。
**********


似たような箇所は他にもあるという前提で述べたい。
これら二つに共通することは、著者がノンフィクションだとして、取材先を訪問する時の、著者の心情を書き連ねることは、ノンフィクションなのであろうか?
私には、調査マンを描いた私小説にしか思えない。
二つ目は、更なる著者の致命的ミスを自ら立証している。
ノンフィクションなのだから、十分に事前調査なり調査計画、すなわち取材時の聞き取り事項をまとめたうえで、訪問等の了解を頂き対応しているのかと思ったら、どうもそうではないようである。
取材者は、事前に準備していない状況で、ただ詳しく教えてほしいと迫るだけの、素性の知れない、政治的立ち位置がはっきりしない人物に、知っていることを話すのであろうか?

どちらのケースについてもノンフィクションだとするのであれば、あとがきに、こういう経緯があったということを例示的に紹介する際の、エピソードみたいな位置づけでしかない。

どうやら著者は、ノンフィクションというジャンルの定義すら認識せず、取材先と話するだけで私小説的に描くことが好きなようである。

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