イエスは女性を気遣った
聖書時代,娘は息子ほどには貴ばれませんでした。タルムードはその見方を反映し,「子どもが息子ばかりの人は幸いだが,娘ばかりの人は災いだ」と述べています。
親たちの中には,娘を育てるほうが負担が大きいと考える人もいました。配偶者を見つけて持参金を持たせてやらなければならず,自分が年老いてもその娘に頼れないからです。
イエスは少女の命が少年の命と同じほど大切であることを示しました。ナインのやもめの息子を生き返らせたのと同じように,ヤイロの娘をも復活させたからです。
『イエスが話しているうちに,会堂の役員の家から何人かの人が来て,「娘さんは亡くなりました。もう先生を煩わさなくてもよいのではありませんか」と言った』。
(マルコ 5:35)
『そして子供の手を取って,「タリタ クミ」と言った。これは訳せば,「少女よ,さあ,起きなさい」という意味である。すると少女はすぐに起き上がって歩き始めた。(少女は12歳だった。)その時,両親はわれを忘れて大喜びした』。
(マルコ 5:41,42)
『この後すぐ,イエスはナインという町に移動した。弟子や他の大勢の人が同行していた。町の門に近づくと,死人が運び出されてくるところだった。それはある母親の一人息子で,しかも母親はやもめだった。町のかなり多くの人も一緒にいた。 主イエスはその母親を見ると,かわいそうに思い,「泣くことはありません」と言った。そして,遺体を載せた台に近づいて触った。担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは言った。「若者よ,さあ,起き上がりなさい!」 すると死人は体を起こして話し始め,イエスは息子を母親に渡した』。
(ルカ 7:11~15)
また,「十八年のあいだ虚弱の霊」に悩まされていた女性を癒やした後,その人を「アブラハムの娘」と呼びました。それは,ユダヤ人の書物の中ではほとんど知られていない表現でした。
『安息日に,イエスは会堂で教えていた。そこに,18年間邪悪な天使に取りつかれて病弱な女性がいた。腰が折れ曲がり,どうしても真っすぐに立てなかった。イエスはその女性を見て話し掛け,「あなたはもう病弱ではありません」と言った。 そして両手を置くと,その女性はすぐさま真っすぐに立ち,神をたたえ始めた。ところが会堂の役員は,イエスが安息日に病気を治したので憤り,群衆にこう言った。「仕事をすべき日は6日あるのだからb,それらの日に来て治してもらいなさい。安息日は駄目だ」。しかし主イエスがこう答えた。「偽善者たち,あなた方はそれぞれ安息日に牛やロバを家畜小屋から解いて,水を飲ませに引いていきませんか。それなら,アブラハムの子孫でサタンに18年も縛られていたこの女性が安息日に解放されてもよいのではありませんか」』。
(ルカ 13:10~16)
イエスは,そうした敬意のこもった優しい表現を使うことにより,その女性を社会の立派な一員とみなしただけでなく,その信仰の強さをも認めたのです。
『イエスは言った。「今日この家の人たちは救われました。この人もアブラハムの子だからです」』。
(ルカ 19:9)
「皆さんは,信仰によって生きる人がアブラハムの子孫であることを知っているはずです」。
(ガラテア 3:7)
今日におけるその教えの影響: アジアには,「娘を育てるのは隣人の庭に水をやるようなものだ」ということわざがあります。
クリスチャンであり父親でもある愛情深い人は,そのような精神に影響されたりせず,自分の子どもを息子も娘もみな大事に育てます。親の立場にあるクリスチャンは,どの子もふさわしい教育を受け,健康でいられるようにします。
イエスは女性を信頼した。ユダヤ人の法廷では,女性の証言は奴隷の証言と同等としかみなされませんでした。1世紀の歴史家ヨセフスは,「女性の提出する証拠は一切受け入れてはならない。女性はその性のゆえに軽率で無鉄砲だからだ」と忠告しました。
それとは全く対照的にイエスは,自分の復活を証しさせるのに女性たちを選びました。
「安息日の後,週の最初の日が明ける頃,マリア・マグダレネともう1人のマリアが墓を見に来た」。
(マタイ 28:1)
『それで,女性たちは急いで墓を去り,恐れと大きな喜びを抱きつつ,弟子たちに報告するために走った。すると何と,イエスが現れ,「おはよう」と言った。女性たちは近づいてイエスの足をつかみ,敬意を表した。その時,イエスは言った。「恐れることはありません! 行って,私の兄弟たちに報告しなさい。そうすれば彼らはガリラヤに行き,そこで私に会えます」』。
(マタイ 28:8~10)
それら忠実な女性は自分たちの主が処刑され埋葬されたことの目撃証人でしたが,使徒たちはその女性たちの言うことがなかなか信じられませんでした。
「多くの女性たちが,離れた所で見ていた。ガリラヤからイエスに同行して仕えていた人たちである。その中には,マリア・マグダレネ,ヤコブとヨセの母親マリア,ゼベダイの子たちの母親がいた」。
(マタイ 27:55,56)
「しかし,マリア・マグダレネともう1人のマリアはそこにとどまって,墓の前に座っていた」。
(マタイ 27:61)
「マリア・マグダレネ,ヨハンナ,ヤコブの母親マリア,また一緒にいたほかの女性たちも,これらのことを使徒たちに告げるのだった。しかし,11人とほかの人たちにとってそうした話はあり得ないことに思え,女性たちを信じようとしなかった」。
(ルカ 24:10,11)
とはいえ,復活したキリストは,最初に女性たちの前に現われることにより,女性を他の弟子たちと同様,証しをする者としてふさわしい,とみなしていたのです。
「しかし,聖なる力があなたたちに働く時,あなたたちは力を受け,エルサレムで,ユダヤとサマリアの全土で,また地上の最も遠い所にまで,私の証人となります」。
(使徒 1:8)
「皆,思いを一つにしてひたすら祈り続けた。何人かの女性,イエスの母親マリア,イエスの弟たちも一緒だった」。
(使徒 1:14)
今日におけるその教えの影響: クリスチャンである夫たちは,妻の言うことに注意深く耳を傾けることにより,妻に「誉れを配し」ます。
「同じように,夫の皆さん,知識に基づいて妻と暮らしてください。女性はより繊細な器ですから,妻を大切にしましょう。妻たちも皆さんと一緒に,命という惜しみない恵みを受けるのです。妻を大切にするなら,祈りが妨げられることはないでしょう」。
(ペテロ第一 3:7)
『すると神はアブラハムに言った。「あの子とあなたの女奴隷についてサラが言っている事を不愉快に思ってはいけない。彼女の願いを聞き入れなさい。あなたの子孫と呼ばれる者はイサクから出るからだ」』。
(創世記 21:12)
