餃子マスターのすごいスキル! 1日に6,000個を作る人。 / Korean street food
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「これまでに撮影した空・雲」・4 K 2021-9-11
良いことをまねなさい
子供はよく人のまねをします。それはままごと遊びを見てもわかります。想像力に富む子供はおとなの振りをし,おとなのするとおりをまねしています。
この,人をまねする性質は,だれを手本とするかによって,良い結果にも悪い結果にもなります。子供はテレビや映画に出てくるギャングその他の悪人をむさぼるように見ることがありますが,
これらが良い手本でないことは確かです。都会における青少年ギャングの増加は世界的な傾向であり,その横暴さとろうぜきぶりが世を騒がせていますが,その背後にテレビや映画の影響があることは見のがせません。 親たちが人をまねる子供の性質を良い方向に向けさせるなら,どんなにか子供のためになるでしょう。もとよりこのためには,テレビや映画で子供が見るものを監督することが必要です。 またこのためには,子供がだれを遊び仲間また友だちとするかに気を配り,同時に親自身が良い手本となることが必要です。
子供はふつう親の話し方や行ないをまねます。ことばのきたない親にはたいていことばのきたない子供がいます。たばこをのむ親にはたいていたばこをのむ子供がいます。不正直な親の子供はたいてい不正直です。いつもうそをつく親の子供はたいてい習慣的にうそをつきます。親がことばにおいても行ないにおいても良い手本を見せるなら,人をまねる子供の性質を健全な方向にむかわせることができ,それが子供のためになります。
子供は遊び仲間の考えに影響され,奇抜な髪型やからだの線を出しすぎた服装で知られる,有名人のまねをすることもあります。しかし,目ざとい親は子供を助けてこの危険なあやまちを避けさせます。 神のことばのいましめに従うことを教えるなら,親は悪いものを退け,良いものをまねるべきことを子供に悟らせることができるでしょう。親は早くから子供の考えを形作り,良いものを尊重する態度を養わせねばなりません。
人の考えに影響されるのは子供だけではありません。おとなも世間の考えに動かされ,大勢に従って著名人の意見や行動を追いまわします。こうしておとなもよく人のまねをするのですが,子供の場合ほどには目立たぬことが多いようです。「他の人がしているから」,あるいは社会的に地位があるとされる人々がしているという理由であることをする人は,実際には人をまねているのです。それは良いことをまねているとは限りません。
実業界で成功する人 ― その成功は他の人々を足場にしている場合が少なくない ― は,それをうらやむ人からほめられがちです。これをほめる人々は同じような富と名声を目ざして,その成功をまねようとします。その人々は同じように無慈悲な商業上のかけひきを用います。しかし,こうして悪い手本をまねる人々は自分の目ざしているものを得ず,道徳心を腐敗させて,余生を滅ぼす結果になりかねません。
それゆえ,「まちがってはいけない。『悪い交わりは,良いならわしをそこなう』」という聖書の戒めには理由があるのです。(コリント第一 15:33)
悪い交わりを続けることは,他の人の悪い手本をまねる結果になるでしょう。
悪い仲間と交わり,不道徳な有名人を賛美することは子供の道徳心をむしばみますが,これを知る親なら,世の歓心を求めて自らその種の人々をまねることの愚かさを理解できるでしょう。
子供と同じくおとなの場合にも,人のまねをしようとする性質を良い方向に向けることが必要です。人の心に働くこの力を無視してはならず,同時にこの力がその人の益になるようにしなければなりません。人は神のことばから正しい原則を知り,正しい道徳律を学ぶことによって,この力を賢明な方向に向けることができ,またまねるべき手本とまねてはならない手本とをはっきり見分けることができます。神のことばの知識を得るなら,群衆と共に引きまわされることの愚かさを避けることができます。
正しいことを愛する人のまねをするならはるかに益があるではありませんか。イエス・キリストの使徒たちはそのような良い手本です。テサロニケ人に手紙を出した使徒パウロは,
「わたしたちに,どうならうべきであるかは,あなたがた自身が知っているはずである。あなたがたの所にいた時には,わたしたちは怠惰な生活をしなかった」と書きました。
(テサロニケ第二 3:7)
またパウロはクリスチャンのヘブライ人にあてた手紙でこのようにも書きました。
「あなた方に神の言葉を伝えた指導者たちのことを,思い出しなさい。彼らが生涯の幕をどのように閉じたかに思 いを馳せて,その信仰に倣いなさい」
(ヘブライ 13:7)
使徒たちを初めとして初期のクリスチャンを導いた人々は良い行ないをしました。それは道徳および聖書の原則にかなっていました。それは共に交わる人々の益になりました。
またそれは,放らつな生活をしていたローマ世界の著名な芸人,軍人,役人などの行ないにまさるものであり,人々のまねるべきものでした。
すべての人がまねるべき最良の手本は神の手本です。神は人間の不従順さを忍ばれ,人類に過分の恵みを示されました。神はいつでも正しいことを愛し,悪いことを憎み,同時に寛容な態度をも取ってこられました。神は誠実に悔改めるなら悪い者をさえすすんで許されますが,このことは神のあわれみ深さをよく示しています。次の神のことばは神の属性のあるものをよく表わしています。
『主(神)は彼の前を過ぎて宣べられた。「主(神),主(神),あわれみあり,恵みあり,怒ることおそく,いつくしみと,まこととの豊かなる神,いつくしみを千代までも施し,悪と,とがと,罪とをゆるす者,しかし,罰すべき者をば決してゆるさず,父の罪を子に報い,子の子に報いて,三代,四代におよぼす者」。
(出エジプト 34:6,7)
おとながまねるにも,子供に教えるにも,これにまさる手本はありません。
現代の道徳の崩壊をおし進める人々の行ないと態度はまねるべきではありませんが,聖書の中にはわたしたちが安心して見ならえるすぐれた手本が他にもたくさんあります。
「愛する者よ。悪にならわないで,善にならいなさい」とは従うべき聖書の助言です。
(ヨハネ第三 1:11)
砂の素晴らしさ
砂が目に入ると痛みを感じます。でも,砂を踏みしめるのは非常に気持ちのよいものです。膨大な量の砂が海にある一方で,乾燥し切った砂漠にもあります。
多くの生き物は砂地が迫ってくると逃げていきますが,逆に砂地に生息する生き物もいます。砂は厄介なものとみなされがちです。しかし,それなくして現代の生活はまず成り立ちません。
こうして考えると,砂は幾らか矛盾をはらんでいるように思えます。では,砂とは何でしょうか。それはどこから来るのでしょうか。
最初は粗い
砂は,鉱物や岩石や土の粒から成っていて,最も多いのは石英の粒です。かつての硬い岩山が,浸食されて砂になります。そのような浸食はどのようにして起きるのでしょうか。
砂は多くの場合,猛烈な海の力によって作られます。波が幾度も海辺の断崖に打ち当たると,その衝撃で岩が壁ごとゆるんではがれ落ちます。
この巨大な岩は絶え間ない猛攻撃に屈し,打ち砕かれて幾つもの大きな塊になり,波にのみ込まれます。そして渦巻く海水の中で角が削られ,大きな丸石になります。これらは絶えず波にもまれ,次第に擦り減って小石になり,つぶされてさらに小さな粒になります。この小さな粒の集まりこそ砂なのです。海は砂を運び去ることもありますが,多くの場所では,波が砂を岸に押し戻し,きれいな砂浜をあとに残します。
猛烈な海の力に寒さが加わると,岩に入り込んだ水が凍結し,氷のくさびとなって岩を裂きます。大きな岩石は,何度も裂かれて次第に小さくなっていき,最終的に砂になります。
風もそれなりの役割を果たします。風は砂粒を吹き上げて岩にたたきつけます。この摩擦の作用によって,さらに砂ができていきます。何十メートルもの厚さのある岩の層が,この自然の砂吹き機によって削られていきます。一方,風はでき上がった砂をまき散らし,砂漠の下地の上にじゅうたんのように広げます。
幾千年もの間に,このような浸食作用によっておびただしい量の砂が作られました。これらの砂が,浜辺で体にしっくりくるクッションとして用いられるだけでも大喜びする人は少なくないでしょう。とはいえ,これから見るように,砂の価値は海岸だけにとどまらず,そのはるか先まで及んでいます。
微小な粒,莫大な益
わたしたちの飲食はかなりの程度,砂に依存しています。なぜそう言えるのでしょうか。わたしたちの食物すべては,何かしら地球の植物が元になっています。植物に必要なミネラルは,砂と,その同類でさらに細かいシルトや粘土によって供給されます。また,土の中に砂があると空気や水が循環しやすくなり,植物の根は栄養分を容易に吸収できます。ところで,砂はのどの渇きをいやすこととどう関係するのでしょうか。
1㍑の瓶に乾いた砂を一杯に入れ,その瓶にさらに水を300㍉㍑注いでも,水はあふれません。なぜなら,砂は間隙率が高い,つまりその粒の間にすき間がたくさんあるからです。
実のところ,命を与える水を大都市に供給できるほどの巨大な砂の“水がめ”が多数存在します。それは何でしょうか。
地表面下の大部分には,帯水層と呼ばれる地層が横たわっています。帯水層は,砂や,間隙率の高い他の鉱物の広大な層が幾重にもなったもので,何千年もの間にしみ込んだと思われる水を含んでいます。科学者たちの計算では,それら目に見えない“水がめ”に含まれる淡水の総量は,地上の湖や河川すべての水量の40倍にもなります。井戸を通して,大勢の人の命を支える貴重な液体が帯水層から得られています。
目の前にある砂
砂浜に行かなくても,あなたは毎日砂の上を歩いているかもしれません。あなたの町の道路や歩道は,コンクリートを使って舗装されていますか。このありふれた資材に砂が25%含まれている場合もあります。毎年,何億トンもの砂が建設資材として使われるので,砂不足になっている地域もあります。
砂はふつう足の下にあるとはいえ,別の形態でまさにあなたの目の前にあるかもしれません。コンピューターの画面はおそらく砂からできていますし,山頂に置かれた望遠鏡や卓上の顕微鏡のレンズもそうです。クリスタルガラスの瓶や,洗面所の鏡も砂からできているでしょう。これらの製品はすべてガラスでできており,ガラス作りに使われる原材料の半分以上は砂です。砂からどのようにガラスを作るのでしょうか。
砂と他の原料を混ぜてから,1,400度以上の温度で溶かします。でき上がった粘性のある液体は,転がす,吹く,曲げる,引っ張る,ねじるなどして,ほとんどどんな形にでもすることができます。
ガラス繊維であれば織って布にすることさえできます。そのようなわけで,滑らかで透明なガラスは,その用途が美容であれ産業であれ,また光を屈折させるのであれ反射させるのであれ,元はというと不透明な砂粒なのです。
移動する砂
高さ75㍍の丘が移動するところを想像してみてください。砂丘のうずたかく積もった砂が風に押されて動く時に,そのようなことが生じます。サハラ砂漠では,砂丘のうねるような頂が果てしなく連なっているように見える場所もあります。砂丘は,近くに住み着く人間のところに押しかけてきて不快な思いをさせるかもしれません。実際,移動する砂は幹線道路をふさぎ,家をのみ込み,町全体を埋没させてしまうことで知られています。
生き物がいっぱい
砂地には生命が存在しないように見えますが,実は多くの生物がそこを自分のすみかとしています。キツネ,ヘビ,サソリは昼間,砂漠の砂の中に潜り込んでいます。暑い盛りは眠り,夜になると獲物を求めて出てくるのです。南西アフリカに位置するナミビアのスケルトン海岸沿いでは,ゾウが広大な砂丘を歩き回っています。砂の急坂を,後ろ足を引きずりながら滑り降りるのを楽しんでいるように見えます。“砂漠の船”であるラクダも,アジアやアフリカの砂漠の海を回遊しています。
砂を利用するために海から出てくる動物もいます。カブトガニ,ウミガメ,トウゴロウイワシは,生物時計が合図を送ると波に乗って岸にやって来ます。柔らかい砂の中で卵を孵化させるため,そこで産卵するのです。
ある種の花は,砂丘でも,植木鉢に植えられた時と同じように生き生きとしています。カキレ属の花,ハマエンドウ,ヒルガオなどは,砂地でよく育ち,砂に覆われても頭を押し出します。
長い根で水と栄養分を吸い上げて優美な花を咲かせ,砂地のモノトーンのキャンバスにさまざまな色を添えます。
確かに,浜辺を歩いている時,靴の中に砂が入って不快な思いをさせられることもあります。でも腹を立てないでください。実のところ,わたしたちの生活はそれらの目立たない砂粒に依存しているのです。砂もまた,創造者・神(エホバ・ヤハウェ)の知恵を証ししています。
「主(神)よ,あなたは何と多くのものを造られたことか。あなたはこれらをみな,知恵をもって造られた。大地は,あなたの造られたもので満ちている」。
(詩編 104:24)
砂の魅力
砂にはさまざまな色があります。土地によって,真っ黒,真っ白,紫,灰色,赤,橙,黄色,そしてそれらの中間色の砂が見つかります。貝殻の細かな破片が混じっているものもあります。
砂の多彩な色合いや手触りに魅了されて,砂を集めるようになった人もいます。ほかの人と交換したり,遠くまで砂を見つけに行ったり,自ら腰を下ろして小さなガラス瓶に砂を集めたりして,
新たにコレクションに加えていく人は少なくありません。そのような人たちは,自分たちのことを“砂愛好家”と呼ぶこともあります。
*砂の画像は無料フリー素材