30年前近くに書かれた「子どもたちに語り継ごう戦争体験」を読んだ。
32名の方々の体験記である。
二人の方が、
玉音放送では天皇のお言葉の意味がわかりませんでした。何故・・・、「日本
は神国であり、戦争は正義の聖戦であって、最後には神風が吹いて勝利する
と信じていたからです」(今ではおとぎばなし)
用事で農家の家に行きますと、いつもなら畑では仕事をしているご主人は、ゆ
かた姿でおりました。私を見るなり、「今日は天皇陛下の玉音放送があります
が奥さんはどう思いますか。きっと国民一致団結して戦ってくれと言うんです
よ。」と言いました。このにはまだ伝わっていないのかしらと驚いてしまい
ました。私が「戦争は終わったんですよ」と言いますと、「そんな事はないです
よ。本土決戦をするから、女も子どもも一丸となって戦ってくれと陛下は言うの
ですよ。それでなければ、戦死した兵隊がかわいそうだ。」というので、
と書いていた。ともに8月15日を迎えた歴史の一断面であった。
多くの方は、「もう空襲もなければ、死ぬこともない、とホッとした」と書かれ
ている。これが国民の本当の気持ちではなかったか。そして二度と戦争をしては
ならないと結んでいる。
同時に教育の恐ろしさも感じていたのではないか。
教育と生活の隅々まで張りめぐらされた仕組み=隣組制度によって、国民の
多くは、身も心も、戦争という巨大な流れに巻き込まれていった。
違うことを言えば「非国民」であった。
この巨大な流れのひとつに、綴方(作文)教育の教師が治安維持法で逮捕
された事件があった。
これを丹念に掘り起こし、取材して連載記事にした釧路市の佐竹記者が、
JCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞した。
昨年12月に「獄中メモは問う 作文教育が罪にされた時代 (道新選書)」とし
て発売されている。
作文教育が犯罪とされていた時代があった。
子どもたちが、自らの生活を作文にしていく。言語と思考を鍛えていく上で、こ
れほど大切な教育はない。
しかし、当時は「自分の頭で考える」ことを極端に嫌っていた。
「なぜ」ということは考えてはならない。それがお上ににたてつく人間になるこ
とだと、あまりにも単純な思考であった。
こうしたことは二度とあってはならない。
貴重な歴史を掘り起こしてくれた佐竹記者のJCJ賞の受賞はジャーナリスト
にとって、これほどの名誉はない。おめでとうございます。
ちなみに、いままでの北海道新聞のJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)は、
2013年 「原子力 負の遺産 核のごみどこへ」
2006年「沖縄返還密約/元外務省高官証言スクープ」
2004年「北海道警察裏金問題に対する一連のキャンペーン報道」
1996年「追求!道庁不正-公費乱用一連の報道」
1988年「祖国へ!」シリーズ サハリン残留韓国人・朝鮮人問題取材班
1959年「一貫して平和憲法の精神を広めた業績」
今回は7回目となる。
歴史に埋もれた不条理な世界、権力の不正と腐敗、平和・自由と民主主義
これこそジャーナリストの目指す道であろう。
(つぶやき; 最近、これぞジャーナリストだと思う記者に会っていない・・・)
「戦争法案」が、平和のためと称して、日本が戦争に参加しようとする欺瞞
が進行しているなかで。
食い止める流れを強く、大きく!!
追記
最近、セキュリティソフトの期限切れのため、ウィンドウズのインターネット
エクスプローラではなく、無料OSである Ubuntu の FireFox でこのブロ
グを書いている。
クラウドのひとつであるブログは、どこにあるパソコンであろうと、どんな
ソフトであろうと、ホームページをみるブラウザがあればOKとなる。
確かに便利だ。
しかし、いまひとつセキュリティ上の不安もある。