議員活動における相談で、大変なのは「依存症」です。
こちらも振り回され、裏切られ、徒労におわることも数多くあります。
それでも普通の生活にもどれるよう支援していきますが、家族や他人を巻き込んでいく、困難が多い病気のひとつです。
「はしどい」の7月号に寄稿しました。3回にわたって掲載します。
もっとも困難な相談
――依存症――
石川明美
初則人呑酒
次則酒呑酒
後則酒呑人
はるか昔の五言詩といわれている。
いわゆる「人酒を飲み、酒酒を飲む、酒人を飲む」ことである。中国の漢詩には、大酒飲みや酒こそ人生だと豪語する詩が多い。とりわけ酒に強いほど「男があがる」という古今東西の文化は連綿と続いている。しかし、今の若い人は、そうしたジェンダーの影響はうすれているのではないか。私たちの年代と比べても先輩からスナックなどで無理強いされることは少なくなっていると聞く。スナックなど飲み屋ではな、コンビニなどで購入し、仲間内で飲むスタイルのようだ。
お酒は、森の猿酒といわれるように、人類の歴史とともに登場したといわれてい。
C2H5-OH
物理的にはなんと単純な組み合わせであろうか。しかし、この炭素二つに水酸基(―OH)の組み合わせが人を惑わし、人生に豊かな文化とともに地獄をも提供するものとなっている。
昔、労働組合で「酒は団結の武器」だとよく話されたが、確かにそうでもあり危ない話でもある。お酒は人のコミュニケーションや仲間との関係を豊かにする反面、さまざまなトラブルや依存症という地獄の入り口でもある。「至酔性」を持つ飲み物のため、販売が厳しく制限されていたが、例によって「規制緩和」の流れに乗って、いつでもどこでも買えるようになってしまった。
「苦しい、助けて・・・」
夜中に電話が入った。私は急いで駆けつけた。居間にはごみと一緒に焼酎のビンが転がっていた。
これで何回目のスリップであろうか。いつもは水を飲ませたりして時間が経つと落ち着くのだが、今回はあまりにも苦しがっているため救急車を呼び、夜間救急センターに運んだ。医者は点滴をうち、少し休めば大丈夫だろうとのことであった。
四時間後、私の車にのせて自宅に帰し、すぐ横にした。当然に焼酎はすべて処分した。部屋はゴミの山となっており、足の踏み場はない。なぜかベッドとストーブのまわりだけは大丈夫だ。落ちついたようなので、私は帰ることにした。
アルコールとのたたかいに終点はない。一生涯続く。
Kさんは、若いときからお酒を相当飲んでおり、いわゆる「多量飲酒」を続けてきた人である。酒が原因で離婚し、家族は崩壊していた。依存症という病にかかるまで「二十年」といわれる。四十歳以上から危険な状態となる。六十代のKさんもこのパターンを踏んでいた。
私がKさんと知り合ったのは、「お酒を飲んで暴れて困っている」という相談からであった。本人も転んでケガをしており、反省しきりの状態であった。そして部屋はごみ屋敷になっていた。
「アルコールは、自分とのたたかいだよ」
「わかっている。だけど自分はダメな人間なんだ」
「ダメな人間なんてどこにもいない。失敗して、失敗して、そこからだよ」
「どうすればいいんだ。なんとかしたい」
私はチャンスだと思った。いわゆる「底を打った」状態ではないか。
「病院に入院して、徹底的に治療してみないかい」
「どこの病院?」
「精神科のある病院で、アルコール依存症の治療をやっている」
「どのくらい入院するの」
「三ヶ月、どう、チャレンジしてみるかい」
普通は「精神科」というと拒否されるが、Kさんはすんなりと了解してくれた。
よっぽどまいっていたのであろう。この瞬間しかないと、直ちに病院に一緒に行き、受診となった。同時に病院のケースワーカーに、この間の長年の経緯を説明し、本人が「立ち直りたい」と決意を持っていることを伝えた。医師も入院・治療を許可してくれた。
ここから三ヶ月という長い入院・治療がはじまった。
月に一度、お見舞いを兼ねて様子を見に行った。本人は体調も良くなり、いたっ
て元気である。まあ当然といえば当然。一滴のアルコールも飲んでいないし、三食きちんと食べているので血色もよくなっていた。
予定通り、元気になって三ヶ月後に退院した。
しかし、持ったのは数か月。再びスリップした。断酒会にも行っていない。結局、この繰り返しが晩年まで続いた。しかし、ヘルパーさんの掃除により、ごみの部屋ではなくなったため、入院前の状態より明るくなっていた。近くのデイサービスのボランティアをはじめて、お年寄りから何かと頼りにされ活き活きしていた。新たな人とのつながりがもどってきた。それでも、数ヶ月に一回はスリップしていたが、以前ほどではなく、立ち直っていた。
数年後、突然死で亡くなった。
・・・・・続く