きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

「神は呼ばれた(וַיִּקְרָא)」

2016年09月05日 | 羊の声


全体で聖書を読むこと、それが今学んでいる『30分de一巻シリーズ』の目的。一つ一つの細かい解き明かしももちろん重要ですが、それらがどのように聖書全体のテーマに繋がっていくのか、それを掴んでこそ聖書の真髄です。特に旧約聖書は、長いし、ムツカシイし、訳わからない記述も多いし、イエス様の前のことだし、などなど敬遠される理由はたくさん。しかし、聖書は66巻すべてイエス様について書かれていて、金太郎飴のようにどこを切ってもイエス様を見ることができるのです。イエス様が出て来ないと思うのは、大きな間違い。旧約聖書を読む時、大切なことはイエス様の光に照らして読むこと。そして同時に、遥か昔のことと、あるいは遠い中東の一国のことと切り離さずに、今を生きる私にどう適応できるのかを念頭に置くこと。この二点が大切です。

闇雲に読むだけでは、深く暗い霧の中を小さな懐中電灯一つ手にして歩いているようなもの。目の前のことだけを見ていても真の姿はわかりません。つまり、限られたところしか照らさない私たちの知識や経験という手元の道具だけに頼っていても、全体像は見えて来ないのです。イエス・キリストという真の光に照らし出されてこそ、今いるところ、そして歩いて行く先が見えてきます。そのためには上を見上げること。神様の光は、圧倒的な輝きをもって、大きすぎて見ていなかった、しかしほんとうに大切なことをそこに照らし出して見せてくれます。






第一巻(創世記)、第二巻(出エジプト)同様に、第三巻のレビ記もまた、本来のタイトル、ヘブル語での最初の言葉にそのテーマを見ます。それは、「神は呼ばれた(וַיִּקְרָא)」。神様が呼んで、神の国への旅路を始めた民に、モーセを通して語られたこと。どうしたら神に近づくことができ、どのように神と歩むのか。礼拝を忘れてしまって奴隷と化した民に、何よりも大切な「礼拝」について、主ご自身が教えてくださっている神様の言葉なのです。

1-10章:どうしたら神様に近づくことができるのか?
11-24章:どうしたら神様と共に歩むことができるのか?
25-27章:礼拝することによって与えられる祝福の約束

どうしたら神に近づくことができるのか。これは献げものの規定として最初に記載があり、動物の生贄という現代では全く関係ないことのように読んでしまいます。が、「献げもの」とは、神様を礼拝する時に携えて来るもの=心。可愛がっている猫が時々贈り物を持って来ます。はっきり言って、迷惑極まりない贈り物なのですが、猫にとっては日頃の食事やケアに感謝を表す精一杯の恩返し。その気持ちを知ると受け取らざるを得ない、また可愛さが増すのは必至でしょう。神様もまた、その品やお金を受け取るのではありません。大切なのはその「心」です。

自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき霊的な礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。(ロマ12:1-2)

そして、どうしたら神と共に歩むことができるのか。これは「聖別」すること。ヘブル語では、賛美にもある「カドシュ(Kadosh)」で、本来の意味は「分離させる、取り分ける」。聖なる神と共に神の国に住む者として、神の絶対的聖を汚すことはゆるされることではなく、そのために日常生活においても、聖と俗(汚れたもの)とを峻別する指針が記されているのです。

あなたたちは自分自身を聖別して聖なる者となりなさい。(11:44)




しかしこの「聖別」は、人間の力で成し遂げること、続けることはできませんでした。命は命によってしか贖うことができません。だからイエス様は、十字架という究極の方法で全人類の救いを導かれたのです。そのイエス様も公生涯で仰った“最も大切な教え”もまたこのレビ記あります。

自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。(19:18)

少し前のメッセージでも聞きましたが、この直前には、「復讐するは我にあり」があります。さばきは神様がされます。私たち人間は、さばき合うのではなく、愛し合う存在として創られました。神様を愛し、人を愛する。それこそが神の御国であり、イエス様の光の中で見出せる“最も大切な教え”なのです。


「これらが名である」 (שְׁמוֹת)

2016年08月29日 | 羊の声


聖書は「光」で始まり、「光」で終わる。しかし最初の書、創世記は「光」で始まったものの、その終わりはヨセフの死であり、闇で第一幕を閉じるのだ。そして続くのは、一般には「出エジプト=エクソダス=脱出」で知られている第二巻。エジプト脱出や葦の海の奇跡、シナイ山の十戒授与など大スペクタクルなシーンを思い浮かべるものの、実は「最も中途半端にしか読めていない!」とえんぢぇる節がビシリ。

この書は、ヘブル語で「ヴァエレー・シェモット(שְׁמוֹת)」、その意味は「さて、それらが名前である」で始まり、イスラエルの子らの名前が記されている。創世記の「はじめに」から「名前」に続くのだ。全体で聖書を読むこと、それが今回の30分de一巻の目的だ。奇跡も十戒ももちろん重要だが、それがどのように聖書全体のテーマに繋がっていくのか、それを掴むのが大切。

ヨセフがエジプト第二位の地位で治めていた頃から400年後、イスラエルの民は神を礼拝することを忘れ、それ故、エジプトの奴隷と化していた。神様はかつてアブラハムとした約束を忘れることなく、その民を憐れみ、奴隷の地から海を渡って神の約束の地へと導き出す。これは、罪の奴隷だった人間が、洗礼を経て、約束された神の御国へと旅する神の民の歩みのことだ。つまり第二巻のテーマは、「神から導き出された民」。

その内容は、“1〜18章:エジプト脱出”、“19〜24章:神との契約”、“24-40章:幕屋建設”の3つの部分に分けられる。エジプト脱出は"救いの始まり”、神との契約は“救いの内容”、幕屋建設は“救いの目的”であり、私たちクリスチャンの“新生”、“聖化”、“栄化”を表すこの全体枠を見逃して、「洗礼」「癒し」「奇跡」のポイントだけで留まっていたら、信仰の歩みはない。現代社会という荒野の中にあっても主なる神様を礼拝する生活を送り続ける。それは、この旅路の果てに約束された神の御国に入るため。その「名前」がこの書に、そして救いの瞬間に記される天の「いのちの書」にあり、神様が覚えていてくださる「名前」だ。

今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば あなたたちはすべての民の間にあって わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。(19:5-6)

しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。(Ⅰペテロ2:9)


ここからは個人的な感想と覚えておきたいメモ。「神様の性質を知ること」が大事、とメッセージに語られた。性質を表すとも言える主の聖なる御名もこの書で語られている。「名前」については創世記の箇所でも考えることが多いが、主の御名は力の塔。神に従う人はそこに走り寄り、高く上げられる。(箴言18:10)、御名には大いなる力があります。(エレミヤ)、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。(ヨエル)数多く聖書にある「力ある主の御名」、それは主と出会い、主から名前を呼ばれ、使命を与えられたクリスチャンが聴く(知る)、神様とのファーストコンタクトであり、神様の自己紹介(畏れ多い言い方ですが。)かな。神様は私の「名前」をご存知だ。(イエス様も弟子に名前を付けられ、ここぞと言う時にはちゃんと名前を呼んでくださる。)そして、私にご自身をも明らかにしてくださる。今、神様が私を呼ばれる御声に従い、その御名を求めて礼拝しよう。

べレシート(בְּרֵאשִׁית)

2016年08月20日 | 羊の声
聖書を読むことは祝福です。ところが残念なことに、多くの教会もクリスチャンも、枝葉の先ばかりを細かく研究しているばかりで、聖書全66巻という“大樹”を見逃していまっています。枝葉部分も大切なのですが、あくまで幹あっての枝葉。『神様は聖書を通してあなたに何を伝えようとしているのか?』という超基本テーマに至るには、聖書の全体像を把握しなければ、その意味と面白さは分かりません。

その最終章、黙示録は聖書66巻の集大成です。今まさに来たり来る終末に向け、その意味を霊で知るクリスチャンだけが、これからこの世界で何が起きるのかをわかることができるのです。しかし黙示録は、聖書の全体枠を知って初めて解明できるもの。神様の言葉として与えられた聖書66巻すべてとリンクし、神様と人間の回復、小羊の婚宴に至るのが黙示録です。66巻目だけ学んでというものではありません。ということで、始められたえんぢぇる師の30分 de 一巻、全66回シリーズ!

初回はもちろん、創世記。が日本語と異なり、ユダヤ式タイトルは各書の冒頭の語がそのままタイトルになるそうで、幾つかご紹介すると「荒野にて」(民数記)、「これが名前である」(出エジプト)、「何で?」(哀歌)などなど。そして、創世記は「初めに」。ヘブル語では、「べレシート(בְּרֵאשִׁית)」です。




一語ずつの説明はこちらのページなどから。(英語ですが。)
http://biblehub.com/lexicon/genesis/1-1.htm

そして音声はこちら。(最初の7秒だけですが。)



天地創造に始まり、エデンの園、楽園追放(堕落)、アダムとエバ、カインとアベル、バベルの塔、ノアの箱舟、アブラハムへの約束、イサク、ヤコブと12人の息子、ヨセフ物語、などなど盛りだくさんの内容の創世記ですが、今日の第一ポイントはこれ!創世記は「光と命」で始まり、「闇と死」(ヨセフの死)で終わるのです。

では、聖書全体は、何で始まり、何で終わっているでしょうか?

創世記1:3、神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
そして黙示録22:5、もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。

そう、聖書は「光」で始まり、「光」で終わってるのです。これ、決して忘れてはならない超重要ポイント!!

3節の光は太陽ではありません。(太陽は4日目に創造されます。)この光は「シャカイナグローリー」=神の光、神の栄光、神様の臨在とともに発せられる光のこと。神様のいらっしゃる永遠の時空から、有限であるこの世界に神様が顕現され、すべてが「始まり」ました。そして神様のかたちに創られた人間が、罪の介入によって破滅の道を辿るようになってすぐ、楽園追放の前に3:15(原福音/Prot-Evangelium)で、人間を罪から救うためのイエス•キリストによる救済計画を、預言されています。 神様はイエス・キリストによって、聖書全体のテーマである愛を繰り返し繰り返し、人間に示されているのです。そして神様の光と共に(内に)、本来の人間に戻る回復の物語が始まった!それが聖書が語ってくれる希望なのです。

さて、闇からどう回復していくか、66週の聖書の旅の始まりです。私にはやはり予習は必須かも。確か何年か前に、一日一巻通読という目標を立て、1週間が限度だった覚えがあり、今回もサムエル記は1回かな?2回かな?などと先の心配をしつつも、気持ちはワクワク。聖書を読むことは喜びで、力で、祝福です。今日、私もあなたも、その考えられない大きな祝福を喜びをもって受け取ることができますよう、祈りつつ新しい「始まり」に臨みます。

死後の世界の真実

2016年08月13日 | 羊の声


心が凍るような相模原の事件。個人個人で思うところは様々あるだろうが、クリスチャンとして知るべきことがある。「キリストの福音を知る機会と能力のなかった人の救い」について。一クリスチャンとして、「障害のある方は天国に行けるのか?」という質問に、私自身がわかりやすく、そして福音につなげて答えることができるだろうか?そのために確認することを教えられた。

まず、「死」について。なぜ人は死ぬことになっているのか。人間が創造された時には、死ぬようには創られていなかった。罪を持った故に人は死ぬことになったのだ。罪を持つ者はすべて死ぬ。

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。(ロマ5:12)

では、障碍者や子供には、罪がないのか?否、ある。人間は誰でも生まれもっている原罪がある。そして罪を持ったがために死ぬこととなった。罪を持った人も、死ぬ人も天国にはいない。憎しみ、悲しみ、苦しさ、嫌悪、盗み、殺し、これらも天国にはない。それが天の国なのだ。こういった人間の持つ罪の要素が聖化され、変えられなければ、天国に入ることはない。聖化する唯一の方法が、イエス様の十字架だ。イエス様を信じること、これは決して難しいことではない。信じるだけ、受け取るだけだ。

罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(ロマ6:23)

罪を失くそうと別の方法で頑張っているのが仏教などの修行だ。しかし残念ながら、罪は簡単には無くならない。仏教僧もそれは知っている。経典には、輪廻転生を繰り返して、何億年と修行して、それで罪と共に己もなくなる、無になるしか方法がないとある。彼らの目的地は、天国ではなく、涅槃=まったくの無の世界だ。そういった人間の一生懸命な、しかし無意味な努力を聖書も記している。何千年にも亘る旧約聖書の記述には、人間の努力では罪の清算ができなかったことが証明されている。人間には到底無理。だからこそ、人間ではなく神様ご自身が「罪」を肩代わりしてくださるために、イエス様がこの地上に来てくださった。そして十字架という究極の方法を通して、罪をその身に被り、死を葬り去った。このことを信じ、「イエス様、ありがとう」と受け取った人は誰でも天国へ行くことができるのだ。

キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。(ロマ8:02)

救いは恵みだ。罪と死との法則から解放されるのは、恵みを受け取るか受け取らないか、ただそれのみだ。もらえない人は、もらいに行けばよい。もらった人は、「○○さんの分もください」ではなく、○○さんがもらいに来なければならないのだ。その人の人生のために。

クリスチャンは、「私が愛するイエス様はこうあってほしい!」と思うことが多い。が、「こうあってほしい」とは「私の」主観、思いであって、神様の思いではない。私の思いで、神様の思いを変えることはできない。神様の思いの方が大きく、高く、深く、絶対だから。私の視点など高が知れている。聖書解釈に個人的価値観、感情を入れてはならない。

福音にすら、「私の」主観が微妙に入ることがある。だから「信じるだけ」に納得できないことがあるのだ。「あの人は礼拝を休んだのに、あの人は私に嫌なことを言ったのに。あの人は聖書を読んでいないのに。」そんな主観を福音より優先しようとしていないだろうか。天国に行ける基準は唯一、「十字架を信じているか」だけだ。これは、一人でも多くの人を救いため、救いの窓口を広くするための神様の真理。私の主観、価値観より神様を優先させられるか。それが如何に神様を信じているかどうかにつながる。

聖書にはあらゆる問題解決の糸口が記されている。が、「キリストの福音を知る機会と能力のなかった人の救い」については明らかな記述はなく、聖書は沈黙している。その理由は、私たちが知る必要のないことだからだ。知るべきことは、人間は、創造主である神様との交わりの中で生きて行くように創られた霊的な存在であり、神様との関係なしには、誰もが生まれながらの障碍者なのだ。不条理の原因を解明したところで、解決には至らない。が、「どうして?」を「何のために?」と、問い直す時、そこに一つの答えを見出す事が出来る。それがイエス様だ。イエス様は、誰のところにも来てくださる。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる。(ロマ10:13)」これは真実だ。イエス様と出会い、どのような御方であることを知った時、私たちはすべて癒されて、人生の劇的変化が訪れる!ハレルヤ

しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。(ロマ5:15)



聖徒=ハギオス

2016年01月30日 | 羊、朝の一声


キリスト者は「聖徒」と呼ばれる。原語のギリシャ語は『ハギオス』で、この元にある意味は「他のものとは異なっている」という意味だそうだ。神殿は他の建物とは異なっているから『ハギオス』、安息日は他の日とは異なっているから『ハギオス』、祭壇は他のものとは異なっているもので『ハギオス』、ユダヤ人は他の民族とは異なっているから『ハギオス』、それぞれそう呼ばれている。そしてキリスト者は、他の人とは異なっているから『ハギオス』なのだ。キリスト者が他の人々とは区別され、分かたれている故に「聖徒」と呼ばれる。

「聖徒」であることを確認させられたメッセージをいただいた。以下、ロイドジョンズの著作から抜粋。



 山上の説教は、人間の行為の単なる描写ではない。その核心は、キリスト者と非キリスト者との間のこの相違なのである。新約聖書はこの点を、全く基礎的、根本的事柄であると見ている。

 現代の世相を見るとき、教会における第一の必要は、この根本的な相違の明白な理解なのである。この相違は漠然とされてしまっている。世は教会の中に入って来ており、教会は世的になってしまっている。境界線は以前ほどはっきりとはしていない。この区別がはっきりとしていた時代があった。その時代は、いつの場合も。教会の歴史における偉大な時期の一つとなっている。しかし私たちは、絶えずもち出されるあの議論を知っている。私たちは、教会を外部の人にも魅力的にすべきであり、できるだけ外部の人と似たようにするべきであるという考え方に接してきた。

 第一次世界大戦のときのことであるが、評判のよい軍隊付き牧師たちは、自分の兵隊と親しく付き合っていた。ともにたばこをすったり、ともにいろいろのことをしたりしていた。それは兵隊たちを励ますためであった。彼らはその結果として、戦争が終われば、退役した兵隊たちが群れをなして教会に来るであろうと考えていた。ところがそうはならなかった。かつて一度もそうなったことはない。

 教会は絶対的に世と相違しているときに、世をひき付ける。ここに福音のすばらしさがある。初めのうち、世は教会を憎むかもしれない。しかし、世が教会のメッセージに耳を傾けさせられるのは、そのときなのである。これが信仰復興の起こる道である。このことは、個人としての私たちにも事実でなければならない。自分はたまたまキリスト者ではあるが、できるだけ非キリスト者と同じようでありたいということが、私たちの希望であってはならない。むしろ、少しでも、また、できるだけ、キリスト者でない人々と違っていたいと切望すべきである。私たちが切に願うことは、キリストに似ることでなければならない。キリストに似れば似るほど、望ましいことである。キリスト者は、キリストに似る者となればなるほど、ますます非キリスト者とは似ない者になるのである。

和解の血:Ⅱコリント5:20

2015年10月31日 | 羊、朝の一声
「私はそんなにひどい悪いことをしていないから、死んだら天国に行くだろう」と思うアナタの天国はどんなところ?天国には一切の悪がない。自分ではこれくらいと思ってしまうような、どんなに小さな嘘でも嘘は嘘。神様には受け入れられないモノ。 嘘以外にも、嫉妬、自己憐憫、虚栄心、競争心、みだらな思い、ごくごく微小でも“罪”を持って、聖い神様のいるところにはいられない。神様はどんな小さな罪にも妥協されないし、大目に見ない。だから神様なのだ。では、誰が天国にいることができるのか。神様と和解ができた人。それは、十字架で血を流してその命を代わりにささげてくださったイエス様を知る人。罪は血をもって贖われる。イエス様の血によって赦された人だけが、天国にいることができるのだ。

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。




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情報力と実践力

2015年10月11日 | 羊、朝の一声
巷には累々と情報が溢れている。特にインターネットやスマートフォンの時代になった今、いつでもどこでも何をしていても、情報の波が轟々と流れるのを見る。「何を最もお得に買うか。」「どのように効率よく動くか。」「いかにそつなくこなすか。」情報の欠如は、「損」「要領悪い」「鈍くさい」となる。正確な情報をいかに入手し、生活に適応しなければ、大きな損失を生むことになる。これはグルポンとか、スマホのアプリレベルの話ではない。人生の、「いのち」の話だ。情報は力だ。

情報には、data (データ)、information(情報)、intelligence(知性)、この三種がある。データを集め、情報を選び取り、それを知性とする。その時初めて、その情報は私のものとになる。Intelligenceは、生きて行くための特殊情報という意味になる。例えば聖書を題材にすると、こうなる。

 data: 聖書は世界で最も多くの言語に翻訳され、世界一の発行部数を誇る本。
 information: 聖書は全66巻からなる神様が人間に与えた啓示である。
 intelligence: 聖書は私に語られている神の言葉であり、人生のすべての問題の解決はここにある。

「データ」とは、客観的事実や既知の事項で、調査や実験により得られて判断の材料となるものである。聖書は史上最大のミリオンセラーであり、2000以上の言語に翻訳されている他に例を見ないもの。この「データ」の類は、調べようと思えばいくらでも得られる。が、ほとんどは、右から左への聞き流し、内に留まることなく、消え去っていくことが多い。それが留まる時、「インフォメーション」になる。聖書は、歴史や預言を通して神様が人間にくださったメッセージなのだ、とわかって読む時、聖書の言葉は光を放つ。まさに啓示だ。この体験は私にとって忘れられないものなので、断言できる。しかしまだ先がある。それを「インテリジェンス」に適用すること。体現することだ。

AD68年、ローマ軍はエルサレムの城壁周囲を取り囲んで、抜け出す術はなかったその時、ただ一度だけ好機が訪れた。ほんの一時期、包囲が解かれたのだ。「憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」というイエス様の言葉を握っていたクリスチャンは、脱出することができた。「インフォメーション」を「インテリジェンス」に適用して、助かったのだ。

聖書は、一人一人に語られている神様の言葉だ。人生で得るべき、最大最強のインフォメーションだ。「あなたは何者なのか。」「どこから来てどこへ行くのか。」人類史上繰り返し問われたこの永遠の問いに聖書は答えてくれる。それを「インテリジェンス」にすることができれば!

「インフォメーション」とした手段を、「インテリジェンス」という目的に転換する。このためには、目的意識を持って、情報収集し、記録し、分析し、評価し、判定すること。ただ聞き流しているだけでは、決して「インテリジェンス」にならない。聖書の言葉を一「データ」としてしか理解できておらず、応用方法が見えていない。意味が分からずに暗唱聖句しているのと同じ。スポーツの上達と同じく、理論ではなく、実践あるのみ!現場での経験を培うのみ!知識と知恵を混同してはならないのだ。

知識と知恵の違いは、以前教えてもらった例がわかりやすい。

 知識=国際線フライトには、カバン二個まで、合計40キロの荷物を持ち込める。
 知恵=だから大きなスーツケース一つではなく、20キロずつ分けて持てるものを用意する。

これが、知っているだけではダメ、生活に適応して活かされる、ということだ。だから知識をわかりやすく理解して、自分の内に取り込む作業が必要なのだ。「これは人生に必要不可欠な知的行為です。」と言われたのが、今日のポイントだった。記録していない、整理していない、判定していない、頭の中は私のお部屋同様、ぐちゃぐちゃのまま。これではいけない。ということで、久々のブログ投稿だ。

今まさに現実化しつつある終末世界に備えるためには、ぐちゃぐちゃを整頓しよう。記録し、確認し、その時に「インテリジェンス」として意志判断できるように。そして自分の内の「インフォメーション」を大切な人へ伝えて「インテリジェンス」とするために。聖書を学ぶ理由は知識を得るためではない。勉強が、ただ学校に入るため、テストで高得点とるためではないように。学びを通してどう生きるのか、ほんとうに必要な知るべきことは何かをを知って、生き方を変えてもらうために学ぶのだ。それが聖書にある。聖書で語る神様は変えてくださる。だから、今、実践しよう。


聖書を共に学ぶ仲間を募集中です。ロサンゼルスで一緒に「生きた聖書の言葉」を学び合いましょう。牧師なし、会堂なし、聖書のみ、お食事しながら!平和と笑いと聖霊様が満ちて、神様を礼拝するほんとうの教会(エクレシア)を求めています。いつでもご連絡ください!213-324-6942 / MUTSUMI


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ヨム・キプール(大贖罪日)

2015年09月23日 | 羊、朝の一声
9月22日夕方から23日の夕暮れまで、イスラエルはヨム・キプール(大贖罪日)でした。悔い改めの日。その日、フェイスブックで以下の投稿を見て、私自身も悔い改めを導かれました。『またか?』と思われるでしょうが、ブログも悔い改め。きっかけとなった投稿を記録します。

「ヨム・キプールについて ピーター・ツカヒラ師」

今、終わりの時に私たちは立たされている。大贖罪日が近付いている。自らを吟味し、神様に立ち返る日。神様との関係が本来あるべき姿かどうか確かめる日。

義の門よ。 私のために開け。 私はそこから入り、主に感謝しよう。<詩篇118:19>

ヨム・キプールに主のきよめの臨在が来るよう祈ります。喜びを持って悔い改めることが出来ますように。ヨム・キプールの日は自らの魂を引き裂く時。私たちの肉に対して普段の快楽を拒む時。そうして、神様の御顔を求める時。普段の仕事の忙しさから離れる時。そして永遠の価値を思う日。

聖書のヨム・キプールは一年に一度の贖いの日として設けられている。 祭司の家族、大祭司が至聖所に入ってささげものをする。キリストの血を象徴する血を携え至聖所に入る。わたしたちの心を整えるのがこの日。自分の人生を思い返す日。最後の審判に私を裁かれる方の前に立ちおおせるか。

わたしはあなたがたに、 こう言いましょう。 人はその口にするあらゆるむだなことばについて、 さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、 あなたのことばによるのであり、 罪に定められるのも、 あなたのことばによるのです。 」<マタイ12:36-37>

ここでイエス様は愛を持って弟子たちを教えられていた。神のことばの前ではすべての人は哀れみが必要。私のこころと思いにきよめと哀れみが必要。舌を制御することは難しい。誰もが口の言葉で失敗をする。

ヨム・キプールはこれを覚え、悔い改める日。このようなことを主の前に持って行く日。すべての間違ったことをイエス様の血で洗い流してくださいという日。そして、信仰に堅く立つ時。

主は全てのことをきよめて下さるという信仰を持つ時。神様だけこれをなして下さる。神は全ての罪から赦して下さる。傷つけた人がいるなら、その人のところに行って謝る。その傷を癒やされるのは主のみ。

ヨム・キプールはこれらのことを覚える時。新しい日のように、新品にして下さる日。

また私は、 死んだ人々が、 大きい者も、 小さい者も御座の前に立っているのを見た。 そして、 数々の書物が開かれた。 また、 別の一つの書物も開かれたが、 それは、 いのちの書であった。 死んだ人々は、 これらの書物に書きしるされているところに従って、 自分の行いに応じてさばかれた。<黙示録20:12>

ヨハネは終わりの日を示された。自分を吟味する日がヨム・キプール。自分がやった全ての純粋でない、悪いことを悔い改める日。信仰の確信により、神のみこころでない行った全てのことを主に哀れみをこう日。神様は契約を持って私たちに約束をしてくださっている。大きな罪も小さな過ちも全て神が拭い去って下さると確信する。

さばきの日は必ずやってくる。まるで聖霊様の学校にいるよう。神様は私を愛しており、教師であり導き手である御方。このお方に頼り、最終試験、裁きをパスすることを御言葉から学ぶ。

私が学生の時最悪のクラスになった。教師がひどい教師だった。それは数学の授業。その授業は嫌だったが、最終試験が待ち受けていた。心はどんなに頑張っても無理なことを知っていた。この日が近づくにつれて、罪に定められる思いが来た。まるで滅びに向かっていくように感じる試験を目前にして、先輩が来た。「君たちが心配しているのは数学の試験だろ」と言った。なぜ知っているのかというと、自分たちもそこを通ったからといった。その教授は毎年同じ試験問題を出すので、過去問を教えてくれた。これは恵みだった。だから、最後の試験にパスされ、今、こうして皆さんの前で話せている。

最終試験があるが、助けがある時その試験に合格する事が出来る。最終試験の時、二つの部分がある。大切な事は、その時にまでどのように生活するかという事。

もう一つは先程読んだみことばがはっきり語っていることは、行いは大切ということ。イエス様はあなたの言葉によって義とされると言っている。あなたが何を口から語るかは大切な事。ヨハネが黙示録の中で彼らは行いに応じて裁かれたと言っている。すごく重要なポイント。神について正しいことを知っていることは大切。自分の言ったこと、行ったことが裁かれる。

試験には一部と二部がある。あなたの語ること、行なうことが大切。言ったこと、やったこと。どのように生きたかが大切。だから、慈愛のもとに生活すること、正直のもとに生きること、イエス様の純粋さを追い求めるきよさ、イエス様の信仰、希望がほしい。もっと重要な事は神様の愛がほしい。どのように生きているか。神の愛の中に生きているか。まわりの一人ひとりに愛を示すという努力をしているか。自分の家族から始まり、周りの人、そして敵に至るまで。

こころを主に向けて集中する生き方。神様を愛している人に対しては素晴らしい約束がある。すべてのことを働かせて益として下さる。まちがいも失敗もひっくり返して益としてくださる。神の目的に召されている人々はそうなる。神様には義の基準があり、目的もある。地上で達成したいこともある。それは私を通して行いたい。

神様の素晴らしい恵みを与えらるのを見たことがある。人生で大きな欠点を持った人に対して。神様がやってほしいことを行っていたゆえに絶大な恵みを受けた人を知っている。逆に、神様がして欲しいことをしてないことで裁かれた人も知っている。

それはあなたが私の内臓を造り、 母の胎のうちで私を組み立てられたからです。詩篇139:13

あなたの目は胎児の私を見られ、 あなたの書物にすべてが、 書きしるされました。 私のために作られた日々が、 しかも、 その一日もないうちに。詩篇13916

神様が私を造られ、デザインして下さった。毎日緻密に計画を私のために計画を立てておられる。それは生まれる前から。神様の目的を知りたかったらダビデが言っているように、偶然は一日もないということを知る必要がある。エレミヤも同じ結論に達した。

「わたしは、 あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、 あなたを国々への預言者と定めていた。」<エレミヤ1:5>

神はエレミヤの人生を造り召しに呼ばれた。聖書の中には私個人のために模範がある。私たちは神の御手によって計画を持って大切に造られた存在。髪の毛の数も知っているお方。あなたを備えた、計画に応じて造られた。そして、その目的、計画に沿って生きていて、実を結んだかと主は問われる。

試験で問題に何が出るかを知っていることは大切。他の人と比べる必要はない。他の人の夢、ビジョンに対して主はあなたに申し開きを求めない。あなたに関して主は問われる。エレミヤも、ダビデもあなたを神の中で組み立てたと言っている。あなたが生きる前からそれらは全て計画されていた。あなたには大きな計画、デザインがある。

今、悔い改めの話をしている。悔い改めが必要ない分野もある。英語では神は悔い改め、思い直しをしないと書かれている。あなたの召命に対して思い直しをしない。今、あなたはどのように生きているか。どのように神に対しての純粋さを保っているか。

もう一つ大切なのは、主が私達を神の子として造った。その道にしっかり歩めているか。他の人の願いなどに歩んでいないか。ヨム・キプールにその事を悔い改めるべき。自分の死んだ行いから立ち返るべき。命をもたらさないことから主に戻るべき。それは主にある完全な人生。命を与える方に立ち返る時。毎年この年を主が備えてくださっていることに感謝する。まことの大祭司が私たちのために贖罪をして下さる日。リセットボタンが押される日。

裁きの日は神の顔に笑顔があると信じている。裁きの日に弟子たちが語った。タラントの話がそれ。主人が長旅に出て、その人が3人のしもべにお金を預け、10タラント、5タラント、1タラント与えた。主人が戻ってきた時、タラントを増やした人と増やさなかった人に違うことを言われた。増やした人には「よくやった、よく忠実なしもべだ。小さなものに忠実だったので、大きなことをまかせよう」と言われた。このような人になりたい。主が与えて下さった人生の全てを用いたい。3人目のしもべは神様が与えてくださったものを隠した。盗んでなく、無くしたものでもなく、与えられたものを返した。彼は行いが違っていた。何を信じ何をするかが大切。

ヨム・キプールの日は機会を与える日。王のもとに出て行って、今、主の笑顔を見出す時。最後の日までそれを待ってはいけない。信仰の先輩の話を聞こう。試験に何が出るのかわかったらそれに集中して勉強する。ほしいのは主の笑顔。ヨム・キプールは集中する日。聞く耳がある人、御霊が民に言っているのがきこえるでしょう。今日、この日を離れて、主の笑顔を知るでしょう。主を喜ぶことは私たちの力です。

ヘブル書の記者が贖い、血の生け贄について書いている。動物のいけにえは私たちを完全にできない。今、イスラエルで起きていることを文脈で説明したい。神殿の丘で最近衝突が起きている。イスラエル人が神殿を建てなおそうととても熱心。彼らは動物のいけにえを戻そうとしている。そのために熱心になっている。再び祭壇に動物の血が捧げられるために一生懸命になっている。ところがヘブル書の著者は、動物のいけにえは完全にされないと言っているlだから毎年捧げなければならない。しかし、ただ一度ささげられたいけにえがある。十字架において流され天の至聖所に捧げられた神の小羊の血。それによって義の門が開かれる。ヨム・キプールは主の前に来て主イエスの血潮を覚える日。

しかしキリストは、 すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、 手で造った物でない、 言い替えれば、 この造られた物とは違った、 さらに偉大な、 さらに完全な幕屋を通り、また、 やぎと子牛との血によってではなく、 ご自分の血によって、 ただ一度、 まことの聖所に入り、 永遠の贖いを成し遂げられたのです。もし、 やぎと雄牛の血、 また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、 それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、 キリストが傷のないご自身を、 とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、 どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、 生ける神に仕える者とすることでしょう。<ヘブル9:11>

これは効力がある。私たちが言ったこと、やったこと全て永遠に至らないすべてのこと。これを主の前に持っていくのがこの日。完全にされた心を持って新しくされるのがヨム・キプール。次の年の準備の勝利の時。神の御国の基準を持つ日。今年、ひとりひとりにおいて、きよめられた良心を持って歩める一年となる。高いレベルのきよさを与えられる。もっと隣人を愛するようになれる。今まで以上に神の愛の中に歩める。そのような一年になります。

もっと信仰の目が開かれ、目的をはっきり見ることができるように。今年、主のことばを聞きます。これが主の顔に笑顔を作ること。これはひとりひとりが個別に聞く必要がある事。あなたがこの事を行なうなら、主が笑顔になられる。主の前に立つ時「よくやった」と言われる。あなたは正しく、うまくおこなった。それを私は全て見ていたぞ。と。 主人の喜びの中に入ってください。そのために歩んでください。なんという素晴らしき歩みだろう。

そのような神との正しい関係に歩める日を一年に一度設けてくださったことに感謝したい。しかし、賢い人はこれを毎日行う。その事を忘れていた人もヨム・キプールでその事を思い出せる。誰でも今日、この日、神の前で心を完全にして欲しいなら、今、神の御前に進み出る機会が与えられている。創り主と真剣な関係を築きたいと思っている人。これから私のすべてを捧げますと。新しい始まりがある。

今日がその日であって欲しいと思う人はいるか。今日、主の血潮によってきよめてほしい。主の明確な指示を得たいと思う人はいるか。主と真剣な関係になりたい人のために祈ります。

熱い思いで、沙漠の街ベガスへ!

2015年08月25日 | 羊、朝の一声
ハレルヤ 昨夏に続き、再びラスベガスの日本人教会の仲間と共に礼拝する時を与えられ、往復で約1000キロの道のりを旅してきました。 昨年の記事はこちらから。「老舗500年の秘密」 at Las Vegas Japanese Community Church

先週のロサンゼルスも熱波の到来でかなり気温が上がりましたが、さすがラスベガス、この日の最高気温は摂氏44度。暑いラスベガスで、熱いメッセージが語られ、篤い賛美と礼拝が捧げられました。

今年のタイトルは、皆様のリクエストにお応えして「仏教と福音」。通常3-4時間かけて行なうセミナーを、礼拝メッセージでお伝えしました。時間的には厳しかったですが、日本人として知っておくべき「仏教」の実態と、それを包括した神様の愛を語るえんぢぇる師。そしてそれに熱心に応答してくださった鶴田先生とラスベガス教会の仲間たち。外の気温に劣らない“熱烈な”思いが礼拝に充満しました。(まちがいなく祈りの煙が立ち上っていたことでしょう礼拝は、イエス様の愛が溢れ、イエス様の光があり、イエス様のいのちを受ける時です

仏教の教えは実践哲学としては確かに優れてはいますが、真の解決には至りませんでした。苦しみからの解放を目指して修行を重ね、最終的に「無」になることが目的の仏教は、一般の人々には適応することが出来なかったのです。ゴータマ・シッダールタ(仏陀の本名)はイエス様が来る前の時代の人ですから、そこには真の救いがないのです。だからこそイエス様がこの地上に来られ、十字架の贖いによって私たちを解放してくださいました。苦しみの根源である「罪」を打ち砕いてくださったのです。ハレルヤ!

「殺すなかれ」の戒めは仏教にもあり、イエス様もそうおっしゃいます。しかし、仏教は自分の徳のために殺生するなと説き、イエス様は神様の愛ゆえに殺人を禁じます。人間中心と神様中心。同じ戒めでも、どうして?の動機が全く違うのです。人間の力には自ずと限界があり、いくら修行をしても、決して「無」にはなることが出来ないまま苦しみは続きます。しかし今、その苦しみの根源である「罪」からの解放は、ただイエス様によってのみ可能となるのです。これがBAD NEWSからGOOD NEWSへの驚くべき転換です

道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。 (使徒17:23-25)

教会では、このGOOD NEWSを世界中に方々にお伝えしています。ラスベガスでも、ロサンゼルスでも、もちろん日本でも。どうぞ今日、それを受け取ってください。えんぢぇる師をお呼びください。必ずあなたの人生に大きな転換が訪れます。今日、神様があなたの人生を完全に新しく、美しく、素晴らしいものに創り変えてくださるからです。あなたの祝福をお祈りしています。


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死後の世界とセカンドチャンス

2015年08月02日 | 羊、朝の一声
今日のメッセージは、ルカ16章のラザロと金持ちの話から、死後の世界のこと、そして救いについて確かめました。死後の世界をはっきりと語っているのは、聖書しかなく、これは私たちの信仰の基本です。同じ信仰を持つとは言え、色々な人の色々な意見を聞きます。それらを聞き、受け入れる前に大切なことは、「聖書はどう言っているか」、BACK TO THE BIBLEの姿勢。聖書が語っていること基本として再確認しました。

ルカ伝ラザロと金持ちの話は、聖書の中でも死後の世界について記されている独特な記事で、他の福音書には記載がありません。ここから、聖書の語る死後の世界について読み取れることをまとめました。

これは実際にあった話であること。
 イエス様の譬え話は「ある人」と名前なしで語られますが、これは「ラザロ」という実名で記載されていますので、譬え話ではありません。

死後の世界は実在すること。
 苦しい場所と、苦しくない場所の二か所があります。苦しい場所は「地獄(HELL)」ではなく、陰府(ハデス)というところです。苦しくない場所は、ユダヤ人には「アブラハムの懐」と呼ばれています。

死後、現世の記憶が残っている。

死後、生きている人と交信することはできない。

死後の二つの世界は相互に見ることができるが、移ることはできない。
わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。(26節)

最終的な裁きは、この後にある。
 死後、人は一度黄泉へ行き、最後の審判を待つ状態に置かれます。今は終末の時で、やがてイエス様の再臨があり、悪が滅ぼされ、千年王国が始まります。最後の審判は、その千年王国の後にあり、そこですべての人が裁きを受け、天国行きか地獄行きかが決定されます。

そしてこの話の結論は、死語の世界のキーポイント、人生の答えは聖書にあるとあります。
『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』(29節)
『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』(31節)
両方にある「モーセと預言者」というのは、この時代の「聖書」を指します。聖書に耳を傾けよ、聖書に答えがある、と繰り返しアブラハムは答えているのです。

終末時代の今、映画やメディアでも多くのテーマが取り上げられていますし、教会内でも携挙の時期やセカンドチャンスなど、様々は教えが流布しています。中には明らかに間違っているものもあります。私たちキリスト者は、それら間違った教えに対する時、聖書に戻り、聖書で確認しなければなりません。今回、それぞれの意見を持つ前に、これだけは知っているべき大前提と、聖書が語る基本の確認を繰り返しました。

前提:
聖書、神様の言葉は、神様と「私(あなた)」のことです。他の誰か別の人のこと、人の救いについてではありません。「私(あなた)」自身で確認し、受け取ってこそ、神様の言葉なのです。

その聖書には、子供や福音を聞いたことがなくて死んだ人がどうなるかについて、直接的な記述はありません。だから、これ、という断定はできないのです。

基礎事項:
前述通り、イエス・キリストが再臨され、裁きがあり、人間の行き場所が二つに分かれる、という流れがあります。この順序は変わりません。そして、裁きの基準は「イエス・キリストの十字架を受け入れているか、そうでないか」の一点のみです。

人間には「私の知っている神様ならこうあってほしい」、「愛の神様ならきっとこうされるはず」、という思いがあります。夢や幻、また超自然的現象で天国体験する人もいます。しかし、それらが自分の思いか、神様の啓示か、悪魔の誘いか、立証することはできません。「私の神様」が過ぎると、偶像になってしまうのです。極端な例はカトリックのマリア信仰です。だからこそ、聖書に戻って検証するのです。

最後に、天国には、どんな状況であっても罪を持った人はいません。いたら、そこは天国ではないのです。

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。 (ロマ5:12)

悲しい哉、人間は罪を持った存在として生まれます。胎児も子供も例外ではありません。そして死に支配されているのです。そこから解放のために為し遂げられたのが、イエス様の十字架であり、これが神様の恵みです。恵みとは、価値も資格もないのにいただけるもの、神様からの一方的な愛です。恵みは、受ける側が与えられなかったからと不満を述べる権利はありません。だから恵みなのです。そして悔い改めて求めるなら、誰にでも与えられるものなのです。

ルカ伝の金持ちは、死んで苦しいところに落とされました。酷い目に遭ったなら、誰でも「私がまちがっていた!」と悔い改めるかと思えば、彼は悔い改めていません。相変わらず、ラザロを使い走りと考え、自分の立場を変えることをしていません。人間は死んだらその時点でその意識や価値観は固定されてしまって、悔い改めができなくなるのです。だからこそ、今、生きている間に福音を伝えること、聞くこと、イエス・キリストに出会うセッティングをすることが大切なのです。今しかできないことが、確かにあるのです。「なぜ、私が地獄へ行くの?」、この不満をぶつけるのは今です。家の教会はそのために、いつでもどこでも福音を伝える場としてここにあります。今日、あなたの人生を天国行き人生に変換させましょう。恵みは求めるなら、誰にでも与えられるのですから。



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