妖怪ウォッチの流行に伴い、妖怪も注目を集めている。メディアでは特集番組が放送され、あちこちの町おこし運動や観光誘致のポイントにもなっている。八百万の神やアミニズムを信仰する多くの日本人は、河童のミイラが子宝をもたらすと聞けば、鰯の頭も信心から状態で、妖怪にすらご利益を求めて奉っている。
日本人はご利益に拘るが、欧米人は根拠に拘り、科学で証明できないような摩訶不思議な出来事に、多様な方面からの究明を図る。妖怪ではないが、ガーディアンエンジェルや守護天使とも呼ばれる「サードマン現象」、究極の危機状態に遭遇した時に助けに現れる第三者の存在については、長年研究が重ねられている。米国同時テロの際、炎に包まれるビルから避難した人の証言がある。火災と煙と非常用シャッターでどうにも身動きができなくなったその時、「わたしについてきなさい。あなたを家に送り届ける。」というはっきりとした声に導かれ九死に一生を得た。クリスチャンとしては、紛れもなく天使の助けと思うことだが、聖書を信仰しない一般的科学的論拠としては、(1)精神状態の混乱が招いた幻覚、(2)多重人格症例、あるいは(3)守護天使の存在など可能性としては挙がるものの、確証を得るには至らない。
物質的領域と人間的領域の相互作用は、何世紀にも亘って研究をされてきているが、殊、霊的領域と人間的領域の研究になると、現代に至っても尚、まったく無視されている。しかし、目に見えない世界を信じる人は年々増加し、50年前から数えると倍増というデータもある。霊的世界について、聖書ははっきりと語っている。そのポイントを確認しよう。
人間に類推できない未知の世界は理解できなくて当たり前
聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。(Ⅱテモテ3:16)
聖書は、人間の類推では信じられないこと満載の書物だ。天地創造の神様、数多の奇跡、イエス様の贖い、復活と再臨。その内、理解できる部分だけ、あるいは好きな部分だけ信じているのは、ほんとうの意味で信じることではない。無限であり、永遠の神様が人間に類推できなくて当然と言えば当然なのだ。逆に、人間の理屈にすべて当てはめて理解できれば、それこそ眉唾。ここに、「人間
を創った神」か、「人間
が作った神か」の違いがある。自分には理解しえない未知の世界があるのは確か。それに否定的態度を取るのは愚かであり、知らない世界に対するオープンな気持ちとチャレンジ精神を抱いてこそ、新しい世界が広がっていく。
神がいるなら悪魔もいる
神様という言葉に抵抗のある人はほとんどいないが、話が天使とか悪魔とかになると、途端に荒唐無稽な御伽噺のように捉えられてしまう。この世界には、光と影、陰と陽、表と裏、 善と悪、男と女、のように必ず二つの対照がある。つまり神が存在しているのなら悪魔も存在し、神に仕える天使がいるのなら、悪魔に使える悪霊も存在する。天使や悪魔は、単に人間の心や善と悪とを象徴的に擬人化したものではない。創世記から黙示録まで、聖書は霊の世界の存在について繰り返し言及し、悪魔について警告しているにも係わらず、教会がこの事について論じないのは、この段階で悪魔の策略に陥っているのだ。犯罪を企む者にとって最も都合が良いのは、自分の存在と自分の目的を相手に知られないこと。私たちに対する悪魔の第一の働きは、自分の存在を隠すことなのだ。
悪魔とか悪霊とか、そんな話しを喜んで聞きたいと人など誰もいないが、それは好きとか嫌いとかの観点で捉える問題ではなく、それが聖書にある事実か否かが問題なのだ。C.S.ルイスはこう語った。「サタンに対して無関心であることも、侮ることも、恐れることも、彼らの思うつぼなのである
」と。
悪魔の目的は、神と人間とを切り離すこと
へブル語ではサタン、ギリシャ語ではサタナス、いずれもその意味は「訴える者、告発する者」だ。この世の悪の根本原因は、すべてサタンの誘惑と人間の誤った自主判断に拠る。サタンは、人間の理性や感情に巧妙に働きかけ、この世の美しいものや楽しいものを使って人間を罪の道へ誘う。そして誘惑に陥って罪を犯すな否や告発する。サタンは、目に見える悪意ではなく、正論を持って誘惑してくるのだ。
「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません!」と豪語したペテロには、仲間を出し抜こうとする抑揚した感情があった。「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」と呟くユダの正論には、自らの誤魔化しの奥にある隠れた心の動きがあった。私たち自身、時に自分の心の動機がわからないまま、言葉を発することがある。この世界、どこを見てもすべて正論が前提で動いている。政治も経済も道徳も。そしてあのイスラム国や北朝鮮であっても、彼らの「正論」によって動いているのだ。その歪んだ確信による「正論」が人を殺している。どこの国も、誰もが自分たちの正当性を主張する。しかしその正論に決定的に欠けているものがある。そこには愛が存在しない。
正論の応酬に、「愛」など持ちだせばせせら笑われるだろう。それくら、まったく愛が欠如している。国家間レベルから日常生活に至るまで、正論を振りかざす側と振りかざされた側のやり取りは平行線を辿るのみで、根本的な解決の糸口にはならない。こうして、世の中の正論を巧妙に用いながら、私たちを不幸と混沌へ陥れて行くのが、サタンの奥深いやり口なのだ。
サタンの究極の目的は、人間を苦しめることでも、殺すことでもない。一生、家庭や財産に恵まれていても、最後に神様との関係がなければ、サタンの勝ちであり、すべてを、命すら失っても、最期に主を呼び求めればサタンの負けなのだ。サタンは、神様の最後の審判の時、自らが滅ぼされてしまうことを知っている。だから、一人でも多くの人間を道連れにしようと必死に、ありとあらゆる手を使って唆してくるのだ。
人間は神につくか悪魔につくかの二つに一つ
知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。
つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。(ロマ6:16)
多くの人々、特に日本人は、神様側にいなければサタン側にいることになると理解していない。文化的に、イエスかノーかをはっきり主張せず、敢えて中庸を重んじ、白黒はっきりさせないのがマジョリティであり、良しとしている。しかし、霊の世界に中間のグレーゾーンはない。人間という存在は、神につくか悪魔につくかの二択を自らで選ぶことになっている。神様側につけば罪を赦され、永遠の命を得られる。一方、悪魔側につけば罪の奴隷となって、永遠の滅びになる。しかし徹底した現世主義に根差した自己中心性と霊的無知ゆえに皆、後者を選んでいる。明らかに人間を神から離そうとするサタンの働きに乗ってしまっているのだ。
イエス様に繋がること!
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。 (Ⅰペテロ5:7)
身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。(Ⅰペテロ5:8)
神様側についているために、必要なのは、イエス様に繋がっていること!ただそれだけ。サタンが最も敵視しているのは、クリスチャンの存在。他の人々は策略が功を奏して、知らずと悪魔陣営に繋がってしまっているのだから。ペテロの手紙は、各地に離散していて仮住まいしている選ばれた人たち、つまりクリスチャンに対してのメッセージだ。上記2つは良く知られているッ御言葉だが、前後して繋がっていることに気付いている人は少ない。聖句は呪文ではない。前後、そして全体の内容と意味を正確に把握理解することが大切だ。
ここで、悪魔に食い尽くされそうになっているのは、すぐ前にある思い煩いを任せることができないクリスチャンのことだ。神様と言う最強の味方を知りながら、日々悩みの連続、思い煩いの山。これら悩み煩いが不信仰となって、悪魔が噛みつく餌になる。クリスチャンの最も弱い部分につけ込み、躓かせようと、悪魔が狙う。実に「躓き」のギリシャ語は、スキャンダルの語源であり、人間が神様に躓くことが元祖スキャンダル、という訳だ。
神様に完全に委ねた途端に、サタンは手出しすること適わず、イエス様の前には何もできなくなるのだ。この戦いは、イエス様によってすでに勝利が決定している。決して侮ってはならないものの、神の子にとって悪魔は恐れる対象ではない。ただ、イエス様と繋がっていることだけに、気を配ればよいだけだ。
「全ての人に要請されている最も重要な決断は、心の底からイエスキリストに対する態度を決断することである。 一切のことがそれに懸かっている。」聖書ハンドブックを著したヘンリー・ハーレーの言葉通り、誰もがこの決断に日々直面する。そのことに、あなたの人生の一切が懸かっている。受難週の今、イエス様の言葉を聞いてほしい。「あなたの罪は赦された。今日、あなたはパラダイスにいる。」この言葉をあなたが選び、確実にあなたのものになりますように。Happy Blessed Easter!
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