あなたは教会で何を得ようと思いますか。
友人との交流?
心の平安?
ただで食べられる食事?あるいは、
人生の目標?それぞれが様々な思いを抱えて教会に来ます。それぞれに導かれている動機や意図があります。それはOK。ただし忘れてならないのは、教会でしか得られない、とっても大切なものがあること。それが
永遠の命。
人はすべて信仰によって生きていると言えます。キリスト者はイエス様を主とする信仰があり、無神論者は「神などいない」という信仰を持っています。人間には、神様が存在することも、あるいは絶対にいないとも、どちらも証明できないのです。無神論者は、神様がいないことを「知って」いるのではなく、「いないと信じて」いるに過ぎません。また、一般的日本人は、「家内安全、無病息災、商売繁盛」の三つの言葉にまとめられるように、災いなし、病なし、貧困なし、の人生を目指し、それを信仰していると言えます。それが完全な幸せだと言えるのでしょうか。いえ、決してそうではありません。
今回は2つの礼拝のアプリケーションを行いましたが、共通点がありました。どちらも同じパスカルの言葉に始まったのです。GNS礼拝はタイトルが、「神在りと賭けて損は無し」と言うパスカルの言葉でしたし、もう一つの「人間とは?」という学びのシェアは、「人間とは、ほんとうに素晴らしい存在なのだ」と言うパスカルの言葉に始まりました。何故素晴らしいのか。学びのシェアで人間は霊的な存在だと繰り返されました。神様がていねいにご自分に模って創り、霊を吹き込み、共に労し、共に喜び、共に愛し合いたいと願ってくださる存在が人間です。一人一人が神様のオーダーメイド&マスターピースとして身体と心と霊を持っているのです。
取り上げられたイザヤ書43:7には、3つの「つくる」が出てきます。何もないところから創造する(=create)、あるものを組み立てる(=make)、そして形作る、仕立てる(=form)です。それは神様の栄光のため、と聖書は語っていますが、つまり一人一人に神様によって託された使命、人生を生きる目的があるということです。
彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。
この体、この世の人生は、いずれ来るほんとうの命、ほんとうの生の影に過ぎません。だからこそ、今の災い、病、貧しさを避けることだけを求めても真の解決には至りません。どんな安楽も、健康も、富も、このままでは「肉体の死」と共にすべてなくなってしまうからです。だからこそ、永遠の命を得るために教会が必要であり、ほんとうに「生きる」ために福音が必要なのです。同じイザヤ書でも、口語訳ではこう書かれています。「すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ」。生きる意味を考える方、このSBCでも真理の種を得ていただきたいと祈っています。





人はすべて信仰によって生きていると言えます。キリスト者はイエス様を主とする信仰があり、無神論者は「神などいない」という信仰を持っています。人間には、神様が存在することも、あるいは絶対にいないとも、どちらも証明できないのです。無神論者は、神様がいないことを「知って」いるのではなく、「いないと信じて」いるに過ぎません。また、一般的日本人は、「家内安全、無病息災、商売繁盛」の三つの言葉にまとめられるように、災いなし、病なし、貧困なし、の人生を目指し、それを信仰していると言えます。それが完全な幸せだと言えるのでしょうか。いえ、決してそうではありません。
今回は2つの礼拝のアプリケーションを行いましたが、共通点がありました。どちらも同じパスカルの言葉に始まったのです。GNS礼拝はタイトルが、「神在りと賭けて損は無し」と言うパスカルの言葉でしたし、もう一つの「人間とは?」という学びのシェアは、「人間とは、ほんとうに素晴らしい存在なのだ」と言うパスカルの言葉に始まりました。何故素晴らしいのか。学びのシェアで人間は霊的な存在だと繰り返されました。神様がていねいにご自分に模って創り、霊を吹き込み、共に労し、共に喜び、共に愛し合いたいと願ってくださる存在が人間です。一人一人が神様のオーダーメイド&マスターピースとして身体と心と霊を持っているのです。
取り上げられたイザヤ書43:7には、3つの「つくる」が出てきます。何もないところから創造する(=create)、あるものを組み立てる(=make)、そして形作る、仕立てる(=form)です。それは神様の栄光のため、と聖書は語っていますが、つまり一人一人に神様によって託された使命、人生を生きる目的があるということです。

この体、この世の人生は、いずれ来るほんとうの命、ほんとうの生の影に過ぎません。だからこそ、今の災い、病、貧しさを避けることだけを求めても真の解決には至りません。どんな安楽も、健康も、富も、このままでは「肉体の死」と共にすべてなくなってしまうからです。だからこそ、永遠の命を得るために教会が必要であり、ほんとうに「生きる」ために福音が必要なのです。同じイザヤ書でも、口語訳ではこう書かれています。「すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ」。生きる意味を考える方、このSBCでも真理の種を得ていただきたいと祈っています。
