きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

「これらが名である」 (שְׁמוֹת)

2016年08月29日 | 羊の声


聖書は「光」で始まり、「光」で終わる。しかし最初の書、創世記は「光」で始まったものの、その終わりはヨセフの死であり、闇で第一幕を閉じるのだ。そして続くのは、一般には「出エジプト=エクソダス=脱出」で知られている第二巻。エジプト脱出や葦の海の奇跡、シナイ山の十戒授与など大スペクタクルなシーンを思い浮かべるものの、実は「最も中途半端にしか読めていない!」とえんぢぇる節がビシリ。

この書は、ヘブル語で「ヴァエレー・シェモット(שְׁמוֹת)」、その意味は「さて、それらが名前である」で始まり、イスラエルの子らの名前が記されている。創世記の「はじめに」から「名前」に続くのだ。全体で聖書を読むこと、それが今回の30分de一巻の目的だ。奇跡も十戒ももちろん重要だが、それがどのように聖書全体のテーマに繋がっていくのか、それを掴むのが大切。

ヨセフがエジプト第二位の地位で治めていた頃から400年後、イスラエルの民は神を礼拝することを忘れ、それ故、エジプトの奴隷と化していた。神様はかつてアブラハムとした約束を忘れることなく、その民を憐れみ、奴隷の地から海を渡って神の約束の地へと導き出す。これは、罪の奴隷だった人間が、洗礼を経て、約束された神の御国へと旅する神の民の歩みのことだ。つまり第二巻のテーマは、「神から導き出された民」。

その内容は、“1〜18章:エジプト脱出”、“19〜24章:神との契約”、“24-40章:幕屋建設”の3つの部分に分けられる。エジプト脱出は"救いの始まり”、神との契約は“救いの内容”、幕屋建設は“救いの目的”であり、私たちクリスチャンの“新生”、“聖化”、“栄化”を表すこの全体枠を見逃して、「洗礼」「癒し」「奇跡」のポイントだけで留まっていたら、信仰の歩みはない。現代社会という荒野の中にあっても主なる神様を礼拝する生活を送り続ける。それは、この旅路の果てに約束された神の御国に入るため。その「名前」がこの書に、そして救いの瞬間に記される天の「いのちの書」にあり、神様が覚えていてくださる「名前」だ。

今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば あなたたちはすべての民の間にあって わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。(19:5-6)

しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。(Ⅰペテロ2:9)


ここからは個人的な感想と覚えておきたいメモ。「神様の性質を知ること」が大事、とメッセージに語られた。性質を表すとも言える主の聖なる御名もこの書で語られている。「名前」については創世記の箇所でも考えることが多いが、主の御名は力の塔。神に従う人はそこに走り寄り、高く上げられる。(箴言18:10)、御名には大いなる力があります。(エレミヤ)、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。(ヨエル)数多く聖書にある「力ある主の御名」、それは主と出会い、主から名前を呼ばれ、使命を与えられたクリスチャンが聴く(知る)、神様とのファーストコンタクトであり、神様の自己紹介(畏れ多い言い方ですが。)かな。神様は私の「名前」をご存知だ。(イエス様も弟子に名前を付けられ、ここぞと言う時にはちゃんと名前を呼んでくださる。)そして、私にご自身をも明らかにしてくださる。今、神様が私を呼ばれる御声に従い、その御名を求めて礼拝しよう。

べレシート(בְּרֵאשִׁית)

2016年08月20日 | 羊の声
聖書を読むことは祝福です。ところが残念なことに、多くの教会もクリスチャンも、枝葉の先ばかりを細かく研究しているばかりで、聖書全66巻という“大樹”を見逃していまっています。枝葉部分も大切なのですが、あくまで幹あっての枝葉。『神様は聖書を通してあなたに何を伝えようとしているのか?』という超基本テーマに至るには、聖書の全体像を把握しなければ、その意味と面白さは分かりません。

その最終章、黙示録は聖書66巻の集大成です。今まさに来たり来る終末に向け、その意味を霊で知るクリスチャンだけが、これからこの世界で何が起きるのかをわかることができるのです。しかし黙示録は、聖書の全体枠を知って初めて解明できるもの。神様の言葉として与えられた聖書66巻すべてとリンクし、神様と人間の回復、小羊の婚宴に至るのが黙示録です。66巻目だけ学んでというものではありません。ということで、始められたえんぢぇる師の30分 de 一巻、全66回シリーズ!

初回はもちろん、創世記。が日本語と異なり、ユダヤ式タイトルは各書の冒頭の語がそのままタイトルになるそうで、幾つかご紹介すると「荒野にて」(民数記)、「これが名前である」(出エジプト)、「何で?」(哀歌)などなど。そして、創世記は「初めに」。ヘブル語では、「べレシート(בְּרֵאשִׁית)」です。




一語ずつの説明はこちらのページなどから。(英語ですが。)
http://biblehub.com/lexicon/genesis/1-1.htm

そして音声はこちら。(最初の7秒だけですが。)



天地創造に始まり、エデンの園、楽園追放(堕落)、アダムとエバ、カインとアベル、バベルの塔、ノアの箱舟、アブラハムへの約束、イサク、ヤコブと12人の息子、ヨセフ物語、などなど盛りだくさんの内容の創世記ですが、今日の第一ポイントはこれ!創世記は「光と命」で始まり、「闇と死」(ヨセフの死)で終わるのです。

では、聖書全体は、何で始まり、何で終わっているでしょうか?

創世記1:3、神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
そして黙示録22:5、もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。

そう、聖書は「光」で始まり、「光」で終わってるのです。これ、決して忘れてはならない超重要ポイント!!

3節の光は太陽ではありません。(太陽は4日目に創造されます。)この光は「シャカイナグローリー」=神の光、神の栄光、神様の臨在とともに発せられる光のこと。神様のいらっしゃる永遠の時空から、有限であるこの世界に神様が顕現され、すべてが「始まり」ました。そして神様のかたちに創られた人間が、罪の介入によって破滅の道を辿るようになってすぐ、楽園追放の前に3:15(原福音/Prot-Evangelium)で、人間を罪から救うためのイエス•キリストによる救済計画を、預言されています。 神様はイエス・キリストによって、聖書全体のテーマである愛を繰り返し繰り返し、人間に示されているのです。そして神様の光と共に(内に)、本来の人間に戻る回復の物語が始まった!それが聖書が語ってくれる希望なのです。

さて、闇からどう回復していくか、66週の聖書の旅の始まりです。私にはやはり予習は必須かも。確か何年か前に、一日一巻通読という目標を立て、1週間が限度だった覚えがあり、今回もサムエル記は1回かな?2回かな?などと先の心配をしつつも、気持ちはワクワク。聖書を読むことは喜びで、力で、祝福です。今日、私もあなたも、その考えられない大きな祝福を喜びをもって受け取ることができますよう、祈りつつ新しい「始まり」に臨みます。

死後の世界の真実

2016年08月13日 | 羊の声


心が凍るような相模原の事件。個人個人で思うところは様々あるだろうが、クリスチャンとして知るべきことがある。「キリストの福音を知る機会と能力のなかった人の救い」について。一クリスチャンとして、「障害のある方は天国に行けるのか?」という質問に、私自身がわかりやすく、そして福音につなげて答えることができるだろうか?そのために確認することを教えられた。

まず、「死」について。なぜ人は死ぬことになっているのか。人間が創造された時には、死ぬようには創られていなかった。罪を持った故に人は死ぬことになったのだ。罪を持つ者はすべて死ぬ。

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。(ロマ5:12)

では、障碍者や子供には、罪がないのか?否、ある。人間は誰でも生まれもっている原罪がある。そして罪を持ったがために死ぬこととなった。罪を持った人も、死ぬ人も天国にはいない。憎しみ、悲しみ、苦しさ、嫌悪、盗み、殺し、これらも天国にはない。それが天の国なのだ。こういった人間の持つ罪の要素が聖化され、変えられなければ、天国に入ることはない。聖化する唯一の方法が、イエス様の十字架だ。イエス様を信じること、これは決して難しいことではない。信じるだけ、受け取るだけだ。

罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(ロマ6:23)

罪を失くそうと別の方法で頑張っているのが仏教などの修行だ。しかし残念ながら、罪は簡単には無くならない。仏教僧もそれは知っている。経典には、輪廻転生を繰り返して、何億年と修行して、それで罪と共に己もなくなる、無になるしか方法がないとある。彼らの目的地は、天国ではなく、涅槃=まったくの無の世界だ。そういった人間の一生懸命な、しかし無意味な努力を聖書も記している。何千年にも亘る旧約聖書の記述には、人間の努力では罪の清算ができなかったことが証明されている。人間には到底無理。だからこそ、人間ではなく神様ご自身が「罪」を肩代わりしてくださるために、イエス様がこの地上に来てくださった。そして十字架という究極の方法を通して、罪をその身に被り、死を葬り去った。このことを信じ、「イエス様、ありがとう」と受け取った人は誰でも天国へ行くことができるのだ。

キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。(ロマ8:02)

救いは恵みだ。罪と死との法則から解放されるのは、恵みを受け取るか受け取らないか、ただそれのみだ。もらえない人は、もらいに行けばよい。もらった人は、「○○さんの分もください」ではなく、○○さんがもらいに来なければならないのだ。その人の人生のために。

クリスチャンは、「私が愛するイエス様はこうあってほしい!」と思うことが多い。が、「こうあってほしい」とは「私の」主観、思いであって、神様の思いではない。私の思いで、神様の思いを変えることはできない。神様の思いの方が大きく、高く、深く、絶対だから。私の視点など高が知れている。聖書解釈に個人的価値観、感情を入れてはならない。

福音にすら、「私の」主観が微妙に入ることがある。だから「信じるだけ」に納得できないことがあるのだ。「あの人は礼拝を休んだのに、あの人は私に嫌なことを言ったのに。あの人は聖書を読んでいないのに。」そんな主観を福音より優先しようとしていないだろうか。天国に行ける基準は唯一、「十字架を信じているか」だけだ。これは、一人でも多くの人を救いため、救いの窓口を広くするための神様の真理。私の主観、価値観より神様を優先させられるか。それが如何に神様を信じているかどうかにつながる。

聖書にはあらゆる問題解決の糸口が記されている。が、「キリストの福音を知る機会と能力のなかった人の救い」については明らかな記述はなく、聖書は沈黙している。その理由は、私たちが知る必要のないことだからだ。知るべきことは、人間は、創造主である神様との交わりの中で生きて行くように創られた霊的な存在であり、神様との関係なしには、誰もが生まれながらの障碍者なのだ。不条理の原因を解明したところで、解決には至らない。が、「どうして?」を「何のために?」と、問い直す時、そこに一つの答えを見出す事が出来る。それがイエス様だ。イエス様は、誰のところにも来てくださる。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる。(ロマ10:13)」これは真実だ。イエス様と出会い、どのような御方であることを知った時、私たちはすべて癒されて、人生の劇的変化が訪れる!ハレルヤ

しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。(ロマ5:15)