きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

きょうの教会ごはん 完全数スープ

2015年02月28日 | 羊のご飯
きょうの教会ごはんは、野菜スープ。“”の具材の完全数スープです。

聖書では数字も様々な意味を持っていますが、聖書の数字「」は、三位一体の神様の「3」とこの世界を表す「4」の合計で神様の完全数とされています。その意味は、神様の完全です。

天地創造では、神様は6日で創造の業(お仕事)を終えられ、七日目に休んですべてを完成されました。

イエス様が十字架上で語られた言葉は七つでした。

ヨハネ伝には、七つのしるし(奇跡)があり、七つの「エゴ・エイミー(わたしは~である)」があり、復活のイエス様は七人の弟子に会われました。

更に黙示録には、たくさんの「7」が登場します。七つの教会、七つの金の燭台、七つの星、七つの封印、七人の天使、七つのラッパ、七つの雷、七つの災い、七つの鉢などなど。

詩編121には、6回の「守る」という言葉があり、プラス神様の助けを加えて完全な守りになる、と以前メッセージで聞きました。

詩編121【都に上る歌。】
目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。
どうか、主があなたを助けて 足がよろめかないようにし まどろむことなく見守ってくださるように。
見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない。
主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
昼、太陽はあなたを撃つことがなく 夜、月もあなたを撃つことがない。
主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。
あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。


完全数の「7」に一つ足りない「6」は、そのままでは不完全な人間を表すとも言います。そして、人間的数学的定義では、「6」を完全数と呼びます。先週は、洪水後のノアの礼拝の話がありましたが、神様は言葉と「七色の虹」で応えてくださいました。虹は、神様からの希望の約束です。ところが、虹の色は科学的には三原色+中間の三色で六色とされるそうです。しかし、科学者であり、また信仰者であったニュートンは神様の完全数をそこに見て、虹の色を七色としました。私たち人間は、神様という最後の究極のパーツを残したままでは、完全ではないのです。「7」つめの奇跡をあなたものにしてください。あなたは七色の虹を見ていますか?


残念ながら(不信仰ゆえか)虹はありませんでしたが、雨上りの空にきれいな羊雲でした。


ロサンゼルス(グレンデール)の家の教会で、毎週集まっています。牧師なし、会堂なし、聖書のみ、お食事付き!毎週土曜日朝に、集まって祈り、分かち合いの時を持っています。一度でも、「教会って敷居が高い。。。」と悩んだことのある方、ぜひこちらへ!教会は平和と笑いと聖霊様の満ちるところ。七色の虹を見るところ。ただ、それだけを目指して、小さな群れながら、神様を礼拝します。いつでもご連絡ください!213-324-6942 / MUTSUMI


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心(KOKORO)ごはん:「殺すなかれ」

2015年02月25日 | 羊の声
「なぜ、人を殺してはいけないのか?」恐ろしいことにこの質問が巷で“論議”されている。更に、もっと恐ろしいことに、その回答がきちんとできる人が少ない。世界は終わりに近づいている。

では、クリスチャンはその問いに答えることができるだろうか。クリスチャンが答えを用意するため、2通りのアプローチが必要だと、師はメッセージで語る。
聖書は殺人に対して何と言っているか、という基本。
霊的戦いという終末の時代における適応という側面からの見解。

順序が逆になるが、まずから。最近の殺人の動機は、昔から定番とされる、お金、異性関係、恨み辛みなどではない。「人を殺してみたかった。」こんな気味の悪い、理解不能な自己主張が動機であることが多い。屈折した精神病質を潜ませ、常軌を逸する異常人格者が増えている。彼らは、相手の存在に対する意識や感情ではなく、単に自分のテリトリーを守るために相手を“消去”=殺人に及ぶ。それを当然と考え、後悔の念や罪悪感を持たない彼らの心は、まさにその魂が闇に支配されている状態だ。

人間が人間の生命を暴力的に奪う行為を「殺人」と言う。「なぜ殺人はいけないのか。」という質問は、自分とは違う一人の人間を人間を考えていないからだ。つまり、人間という“存在”の意味を知らず、またそれが“尊い”こともわからない故に起こる質問だ。聖書=神様の言葉は、「神様の目に人間は尊い」と語る。神様はがその存在を認め、人間を大切に思っていると語っている。それらを否定することは、神への冒涜に他ならない。

殺人を奨励する法律を持つ国はないだろう。にも拘らず、毎日どこかで殺人は起きている。私は一般市民で殺人とは全く無関係です、という立場であれば、こんな殺人連鎖の世界になるはずがないのだ。「殺すなかれ」は普通に生活してさえいれば、簡単に守れるという戒めではないことを、イエス様がマタイ伝で指摘されている。相手に腹を立て、相手を憎み、妬み、怒る思いは心の中で殺人が行われていることだ、と。

神様は天地と共に人間を創造された。神様のかたちにかたどって、神様と交わりができる存在として、神様と愛し合う対象として。聖書はそれを繰り返し伝えている。また、「汝殺すなかれ」と書かれたモーゼの十戒よりもずっと前、洪水から逃れたノアの家族にも、祝福のメッセージとして神様が語られた。

人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。(創世記9:6)

これが殺人を禁ずる聖書的理由。人の命は神様のものだから、人が勝手に奪ってはならないのだ。人間という存在の意味、そこに注がれている大いなる愛を知らない間は、どれだけ考えても「なぜ人を殺してはならないか」の答えは出ない。神様の思いを受けなければ、前に見るのは死屍累々の世界だけだ。

神様に背いたアダムとイブが追放されたエデンの東は、罪によって神様から離れて生きる世界だった。そこでは、神様との関係だけでなく、人間同士の関係において、最も近しい夫婦や兄弟でも傷つけ合い、関係は破綻した。挙句、カインは弟アベルを殺し、人類史上初の殺人者となった。カインは、ノドの地をその名の意味通り、彷徨うことになるが、神様はその額に印を付けられた。罪の結果を背負って生きなければならないカインに付けられた印は、犯罪者のレッテルではなく、神様が彼を守っていることを示す印。主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。(創世記4:15)神様は、殺人を犯してしまったカインを見捨て、滅ぼされたのではない。それでもなお、神様の守りの中で救いの機会を与えて下っているのだ。なぜ人を殺してはならないとつぶやく人間に対してですら、神様の守りが確かにある。人間の頭では考えも付かないむちゃくちゃな神様の恵み、究極の救いの業。これが死屍累々の現代に生きる私たちの希望であり、その神様の印こそがイエス様の十字架だ。

「なぜ人殺しがいけないのか。」その答えは聖書にあった。そして、もっと大切な「いのち」についての答え、「なぜ生きるか」もまた、聖書にあるのだ。

ロサンゼルス(グレンデール)の家の教会で、毎週集まっています。美味しい食事を囲みながら、えんじぇる田中牧師の聖書メッセージから、生きる知恵と希望を語り合いましょう 「教会って敷居が高い。。。」と悩んだこがのある方、ぜひ一度おいでください。教会は平和と笑いと聖霊様の満ちるところ。いつでもご連絡ください213-324-6942 / MUTSUMI


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きょうの教会ごはん 上を向いて歩こう!

2015年02月22日 | 羊のご飯
きょうの教会ごはんは、すき焼き丼。ほんとうはとろとろ半熟玉子をトッピングしたかったのですが、朝のコーヒータイムに盛り上がってしまい、ふと気づくとゆだりすぎてしまっていました。。。大失敗。アメリカで驚くことのひとつに、卵の黄身の色の薄さがあります。最初は割ってビックリ。黄色というよりレモン色。アメリカの鶏って色素が薄いのね、と思っていたら、先日、日本の鶏卵業者さんに学ぶチャンスがあり、日本ではパプリカなどを餌に混ぜることで、色濃い黄身の玉子にしているそうです。理由として、日本では生食もされるので見目重視なのかもしれませんね。あぁ、こう書いていると恋しさが募るT.K.G.(Tamago Kake Gohan)!(因みにこの写真の玉子は、日本の業者さんのものなので、純アメリカ製より色が濃いです。でも、日本に帰ると必ず一枚は卵の黄身の記念撮影をしてしまう私です。)

コーヒータイムで盛り上がった理由はこれです。



美味しい珈琲ショップの「インテリゲンチャ」のコーヒーです。ブルーボトルコーヒーの日本出店のニュースもあって、コーヒー豆の選定や煎り方、淹れ方にも拘りを見せる、主にサンフランシスコで展開されている「サードウェーブ」と呼ばれるカフェチェーンが最近注目されていますね。ロサンゼルスにも、ブルーボトルコーヒー、スタンプタウンが出店しています。このインテリゲンチャはシカゴが本店で、他には全米でロスとNYのみ。どちらかと言えば小さ目堅実チェーンですが、そういった姿勢も珈琲の味も、私にとっては好きかな。家の教会にもふさわしいような、、、とあくまでも個人的感想ですが。

ロサンゼルス(グレンデール)の家の教会で、毎週集まっています。聖書のみ、恵みのみ、お食事付き!毎週土曜朝に、集まって祈り、分かち合いの時を持っています。一度でも、「教会って敷居が高い。。。」と悩んだことのある方、ぜひこちらへ!教会は平和と笑いと聖霊様の満ちるところ。(with珈琲の薫りも。)ただそれだけを目指して、小さな群れながら、神様を礼拝します。いつでもご連絡ください!213-324-6942 / MUTSUMI



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心(KOKORO)ごはん:「脱・後回し人生」から

2015年02月18日 | 羊の声
だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです (Ⅱコリント8:11-12)

『Procrastination is the thief of time.』という英語の言葉がある。また、『Procrastinator(プロクラスティネイター)』という言葉も耳にする。Procrastinate=先延ばしする、ぐずぐずする、という意味だ。つまり、ことわざの意味は、「先延ばしは時間泥棒」ということ。が、今日のメッセージから、これは時間管理の問題ではないことを教えられた。これは、霊の問題、つまり“罪”なのだと。

後回しする人のタイプ
回避タイプ:失敗して落胆したり、批判されるのを恐れて先送りにしてしまう。
依存タイプ:自分で決定することができず、自分の人生を他者に委ねてしまっている。
覚醒タイプ:危機的状況に敢えて自分を置くことで、満足を得るタイプ。

今日ズキリと来たのは、「覚醒タイプ」。すべてがすべてでないと思うが、追い込むことでモチベーションを得ようとしている部分など、こちら傾向があるかもしれない。しかしこれは、周囲に迷惑をかける<確信犯>。「後回し」のことではないが、最近、「私はそんなつもりはなかったのに。。。」と思うことでも、自分自身の言動を直す必要があるようなことを幾つか示されている。後回しも8割は自己認識できていないとあった。そしてライフスタイルそのものが、後回しに慣れてしまって、正常に働かなくなる。だからこそ、今これにも、きちんと向き合わなければいけないな、と思った1st my “ズキリ”

そのために聖書から学ぶ、予防、診断、治療、メンテナンスの4ポイント。

明確なヴィジョンを持つ。
幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。(箴言29:18)
あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。(フィリピ2:13)
目的遂行のために、他のものを切り捨てる勇気が必要。ほんとうに必要なものを選び取る力と、それ以外を手放す潔さ。私にとっては断捨離の実践かな。

後回しにする理由はどこにもない
周囲の否定的意見や批判に流されない。
しかし、“霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。 (Ⅰテモテ4:1)
後回しは結果として高い代償になる。先延ばしの慢性化は、要は自己管理能力の低さ。精神面ばかりでなく、肉体的健康面でも影響が出、仕事や生活の能率は悪く、約束を守らず、信頼を失い、人間関係を損なう、という恐ろしい悪循環。これはまさに“罪”の連鎖だ、と気付いて2nd my “ズキリ”。真理に反するものに付和雷同していてどうする今、きっぱりと拒絶する意志を持つ。

自分の意見に賛同してくれる仲間を持つ。
ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。 倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。(伝道の書/コヘレトの言葉4:9-10)
もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。(ヨハネ15:15)
メッセージでは、コヘレトの言葉10節だけが取り上げられていたが、聖書を開いてふと目に入った9節。そして、ヨハネ伝のイエス様の力強い励まし。これこそが、礼拝メッセージでの神様からの恵みだ。

行きたくないところには足が遠のく。その内に行かざるを得ない状況に追い込まれる。そして、行って初めて知る。
 自己流が間違っていたこと、
 自分勝手な思い込みは度を過ぎた楽観であったこと、
 ほんとうに大切なことから退避していた人生のこと。
これは、神様を知らずに死を間際にした人の見る世界かもしれない。その時になってからでは遅いのだ。知らなかったでは済まされないことなのだ。だから今、その“罪”の予防、診断、治療、メンテナンスに踏み出そう。家の教会はその窓口です。


ロサンゼルス(グレンデール)の家の教会で、毎週集まっています。一緒にご飯を食べましょう。心の食べ物も用意しています。えんじぇる田中牧師の聖書メッセージから、生きる知恵と希望を受け取ってほしいのです。 「教会って敷居が高い。。。」と悩んだこがのある方、ぜひ一度おいでください。教会は平和と笑いと聖霊様の満ちるところ。いつでもご連絡ください213-324-6942 / MUTSUMI



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きょうの教会ごはん in Valentine Day!

2015年02月14日 | 羊のご飯
今日はバレンタインディです。アメリカでのバレンタインディは、日本のチョコレート戦争のような感じとはちょっと違います。というより、日本が独特なようです。欧米では、夫婦、家族、友人など愛する人の間でカードやお菓子、花束を贈り合って「愛」のメッセージを伝える日で、どちらかと言えば、男性陣の方が贈る側であることが多いかな?(がんばっているのは、主に男性、という感じ。日本と逆ですね。)今年は週末のせいか、お花屋さん、お菓子屋さんで、男の人がお買い物をしている風景を多々目にしました。

 

 


またビックリする話ですが、「バレンタインディは、宗教的なイベントだぁ」なんてことを言う人も(アメリカ人)「宗教的なイベント」そうであれば、日本はこの日、全国民レベルで宗教的イベント開催なのでしょうか。。。あり得ない!しかもバレンタインディについても諸説あるようなので、一体何の「宗教」なのか、よくわかりません。考え出すと怖いことになり、また「宗教」は私も好きでないので、横に置いておいて。

起源がどうであれ、愛する人にメッセージを伝える日、というアメリカの一般的イベントとして教会でも自然に贈り物が用意されました。そして、バレンタイン・スペシャルメニュー、ビーフシチュー!日本の独自性の一端を担って、男の子には更に特別にサーブ。デザートはチョコレートディップのストロベリー。某有名ショコラティエでは、一粒10ドルするとか。。。そこまで高価なものは用意できませんが、ちょっとアメリカっぽくて素敵でしょ。



 



ロサンゼルス(グレンデール)の家の教会で、毎週集まっています。一緒にご飯を食べましょう。心の食べ物も用意しています。えんじぇる田中牧師の聖書メッセージから、生きる知恵と希望を受け取ってほしいのです。 「教会って敷居が高い。。。」と悩んだこがのある方、ぜひ一度おいでください。教会は平和と笑いと聖霊様の満ちるところ。いつでもご連絡ください213-324-6942 / MUTSUMI



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心(KOKORO)ごはん:「罪と罰と復活」から

2015年02月12日 | 羊の声


イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)

人間の本質は「霊」にあります。「霊」とか「死後の世界」とか口にすると、教会の中であっても「」という反応を見ることがあります。しかし、現世だけでなく来世への命に繋がること、そしてその「復活」のため唯一の鍵を語っているのが聖書です。「復活」の信仰なしに、クリスチャンである意味はまったくありません。復活こそが、クリスチャンにとって信仰の源であり、クリスチャンの最大且つ唯一の特権なのです。

ヨハネ福音書には7つの奇跡が書かれています。最初はカナの婚礼での話で、そして本日の聖書箇所、ラザロの復活は7番目の奇跡です。最初の奇跡で、イエス様は水をワインに変えられました。水をワインという全く質の異なるものに変えられたのです。聖書に書かれた「新しい」という言葉には、二種類の意味のもので区別されています。一つは一般的に新しくなる意味のネオス。そして、全く異質のものに変えられるという意味の「κ α ι ν σ ζ/カイノス」。イエス様が「新しく」されるのは、いつでもこのカイノスです。ラザロの命もまた、カイノスされたのです。

聖書には「死」もまた、二種類の意味で書かれています。黙示録には、「第二の死」という言葉が4回書かれています。「第一の死」という言葉はありませんが、「第一の復活」はあります。「第二の復活」はありません。どちらの「死」も、「分離」を意味する言葉となっています。今回は他のことは一切忘れてよい、と言われたことに忠実にこのポイントをまとめて、自分のものにしたいと思いました。

第一の死:霊と肉体との分離 = 『肉体の死』
第二の死:私たちの霊と神様の霊との分離 = 『霊的死』


主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記2:7)

人間は、神様の息を吹き込まれて、生きる者となりました。ヘブライ語の「ルーアッハ」רוּחַは、「霊」(spirit)、「風」(wind)、「息」(breath)と訳されます。人間は、この神様の息なしに生きることはできないのです。人間の主体は、肉体でも脳が司る心でもなく、神様から直接吹き込んでいただいた息=霊なのです。そして霊は、肉体を離れても霊の世界で存在し続けます。

だから、この霊の世界での「死」が、人間にとってより重要で、より切実なのです。そこでの「死」、霊の滅びは永遠の滅びを意味するからです。この「第二の死」は、神様からの完全な断絶です。神様の恵み、存在が全くない場所なのです。私にとっては、映画What Dreams may comeのイメージが強烈です。信仰を持つ直前に観たものですが、今はコワすぎて観られない、観る気にならないのですが、ご希望があれば教会で上映会をいたしましょう。ご連絡ください。



人間は、誰一人の例外なく、死を体験します。これは意思の尊重も選択の余地もありません。しかし、コワすぎる「第二の死」については、その憂き目に遭わず、神様の霊と分離すつことなく永遠に神様の世界で生きる人がいるのです。それが、イエス様に従うクリスチャンです。つまり、この「死」は個人の選択次第で回避可能であり、行先をそれぞれが決めることができるのです。天国か地獄か。HEAVEN OR HELL。避けられないと思っていた「死」を逃れられるとしたら?それは素晴らしい良い知らせでしょ?まさにGOOD NEWS、福音なのです。

第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。(黙示録20:6)

つまり、二度生まれた人は、二度死ぬことはありません。二度生まれた人は、一度だけ死ぬのです。そして、一度生まれた人は、二度も「死」の体験をすることになります。その基準は、善行や行いではありません。基準がわからないような曖昧なもので決定されるのではなく、自らの意志による自らの決定に拠ります。天国に入るためには資格は必要ありません。ただイエス様が差し伸べられている手を取るか払いのけるか、その決定だけで、「永遠の生命」か「永遠の滅亡」のどちらかのゴールに至るのです。

主の名を呼び求める者はだれでも救われる。(ヨエル3:5、ローマ10:13、使徒2:21)

先週、優先順位についてメッセージをいただきました。人生という限られた時間の中で、優先すべき事を優先し、どうでも良いことは捨てていくことは、実に重要な作業なのです。私たちが何に時間を使っているのかということは、何に対して自分の命を使っているのかということと同じだからです。だからこそ、その選択をまだ保留にしている人は、今すぐ決定をしましょう。「人々が喜ぶレベルで話していても、救いは起こらない。語るべきは、救い、聖霊様の導き、癒し、祝福、そして死からの解放について。」と、ある牧師先生が仰っていました。その通りです。あなたの命を死に支配されたままにしないでください!そして、復活を知る私たちクリスチャンは、その希望と喜びを一人でも多くの人に与え、喜びの連鎖を作ること、これこそが、神様が与えてくださっている「使命」です。

きょうの教会ごはん あったか~いシチュー

2015年02月07日 | 羊のご飯
日本ではまだまだ寒い日が続いているようですね。アメリカでも今週ニューヨークのお友だちと話したところ、「今日はマイナス10度くらいだったよ~!」とのこと。マイナス10度!南国ロサンゼルス在住には、想像できない寒さです。でも、どこにいても、季節がいつでも、心が寒い時があるのは万国共通。教会では、あったか~い心になってほしいと思って、きょうの教会ごはんはシチューにしました。

パンは、最近気になっているプレッツェルパンが「安売り」していた(ここ、重要!)ので、ホクホク気分で購入。プレッツェルというと日本ではポッキーの親戚のようなものを思われるかもしれませんが、アメリカでは固めでチップスみたいに食べる塩味スナックタイプと、またパンタイプのものもあります。パンタイプは決して固くはありませんが、モチモチした食感で食べ応えあるものです。最近見かけて興味があったのがコレ。パッケージも可愛いでしょ。ちなみに今なら、あのWHOLE FOODS(ホールフーズ)で1ドルオフです

 


と、主婦の話になってしまいましたが、教会だからこそ金銭感覚はとっても大切なんですよ、とヒトコト加えさせていただいて。。。ロサンゼルス(グレンデール)の家の教会で、毎週集まっています。一緒にご飯を食べましょう。心の食べ物も用意しています。えんじぇる田中牧師の聖書メッセージから、生きる知恵と希望を受け取ってほしいのです。 「教会って敷居が高い。。。」と悩んだこがのある方、ぜひ一度おいでください。教会は平和と笑いと聖霊様の満ちるところ。いつでもご連絡ください213-324-6942 / MUTSUMI



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心(KOKORO)ごはん:『人生の危機管理』 ローマ 1:14から

2015年02月04日 | 羊の声


今回の人質事件でも、また「イスラム国」についても、そして戦後の現代世界情勢についても、わかっていたつもりで何もわかっていないことに気付いた。つまり、ほんとうの意味で「エルサレムのために祈れ」なんてことができていない私のことだ。祈りの方向性が曖昧で、非常に漠然としたものだった、ということだ。これで良いはずがない。これが「祈り」であるはずがない。「祈りは具体的に!」これは師も常々口にする祈りの秘訣なのだから。

パレスチナを取り巻く状況は複雑に見える。イスラム国の呼び方が複数(英語報道ではISISとISILなど)あるようだし、アルカイダ、タリバン、ヒズボラ、ハマスなどとの関連性はさっぱり理解できない。元々、中東情勢の基本すらわかっていないのだから、理解できるはずもない。しかし、これがまさに今回の事件の縮小型だ、とメッセージにあった。「中東社会についての的確なアドバイザを持たず、遠い他国の出来事と関わりを避け続け、世界情勢に対する認識の甘さによって生じた躓き」。同じことが私個人でも言えている。えんぢぇる師に言わせれば、「平和ボケ中東オンチの川村睦美」ということだ。そして、事件は最悪の結末を迎えた。人の命が失われた。

だから今すべきことは、「分析」だけでなく、また「感想」ではなく、これからどうするのか、というアプリケーション。わかりにくいからと言って、事情を知らないままでは私自身の目の前に“危機”が迫った時、口を挟むことはできない。つまり、何もできないままだ。祈るために、ほんとうの「祈り」にするために、「理解」も必要なのだ。危機管理は、発生してしまったことへの対処法ではなく、起こるかもしれない“危機”に備えること。このポイントを肝に銘じよう。

生活を維持するための優先順位を認識。
 どうしてもやっておかなければならないことだけは、必ずする。
無理はしない。
 できない時にヘルプしてくれる仲間、人間関係づくり。
信頼に値するものを持つ。これは見つかっている!
 聖書の理解と、世界情勢の学び。そしてそのための聖霊様の力。

神様が与えてくださった使命に忠実に生きることが、クリスチャンにとっての最大の危機管理になる。それが福音、GOOD NEWS、私の命を支えるものだ。その霊から湧き出る信念を見つめ、手に取り、心に刻んで実践し、「真の祈り」に変えることができますように。