きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

カエル、海へ出る。

2012年03月06日 | 羊のお出かけ
1年半ぶりに日本へ帰省します。今回の目的は2つ。ひとつは東北の地を訪れること。もう一つは親孝行。

「東北へ行こう」と思い立ったものの、アテはなく、さてどうなるのか、、、と思っていたら、牧師や信仰の友の助けをいただき、道が開けて来ています。会えないはずの方に会えるようになったり、「枕する所もない」状態からお泊り場所が与えられたり。。。

数々の奇跡(!?)を経て、出発直前に思っていることは、我が身の小ささ弱さ。まさに井の中の蛙でした。

今や、「行って私に何ができるだろう???」とほぼ強迫観念に囚われる瀬戸際でしたが、主は私に御言葉をくださいました。

イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。
 そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。
 そしてその日は、イエスのもとに泊まった。(ヨハネ1:39)

「来て、見てみなさい。」私にできるのは、この御言葉に従うことくらいです。ただそれだけに忠実にありたいと思う出発前夜です。コンピュータ持参予定でしたが、身軽が一番ということで実家入りするまでオフラインになります。後ほど、カエルの東北レポートをお送りします。皆様のお祈り、心から感謝します。行って参ります。


3.11 Memorial Concert

2012年03月05日 | 羊のお出かけ


今度の日曜日は、3月11日。東日本震災から1年が経ちました。私はどうしても一度、震災の地を目と心に留めたくて、まもなく東北へ出発します。このロサンゼルスでも、11日は様々なメモリアルイベントが予定されているようです。これはチラシのデザインに眼を惹かれたので、ご案内です。今尚、苦しみ悲しみの中にいる人が、この日この時、主の救いを見ることができるよう、祈らずにはおられません。


主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。(エレミヤ31:16)

賢明な選択

2012年03月04日 | 羊、朝の一声


今日の礼拝では、「選択すること、決断すること」を語られました。毎日、毎時、毎分、私たちは何かを選択しています。今日は何を着ようか、何から取り掛かろうか、何を食べようか、誰に声をかけようか、どこへ出かけようか、聖書はどこを読もうか、ごくごく日常的にはこんなことを毎日選択しています。そしてその結果が、私の人生となっているのです。

時に、順番を間違った!と思うこともあり、失敗して否応がなくそれに気付かされることもあり、あるいは、間違っているのになかなか気付かないこともあります。「賢明な選択」を得るにはどうしたらよいのでしょうか?というところから始まりました。そして、今日の御言葉です。


兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。(Ⅰコリント2:1-5)


人の知恵ではなく、神様の力によって動くこと。それが何よりもの「賢明な選択」です。。。とは言え、私としてはわかっているけど、なかなかうまくいかないワ、というのが実情。そんな私に『頑なでなくなること』が神様の力で動く重要ポイントと教わりました。

毎日毎時の選択がそうできるかどうかは、今後に期待することにしますが、今日の御言葉でひとつ「知恵」をいただきました。私は、まもなく日本へ一時帰国します。言ってしまえば「里帰り」ですが、気持ちは「宣教派遣」です。目標もいくつか持っており、神様の導きを強く求めています。そんな私に与えられた「知恵」は、御言葉にあるとおり、『わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた』ことです。

「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」と決断すること。パウロ先生ほどの方でも、優れた言葉や知恵を用いず、「イエス・キリストの十字架」以外語らなかった、それ以外のことは知らないことと決めたのです。私程度の言葉や知恵でどうにかなるものではありません。

神の知恵は、私たちの救いにために用意して下さった十字架にこそ隠されています。それは人間の想像を越え、理解を越えた出来事ですが、だから信じられないと拒否するのではなく、信じる選択をしてください。信じて受け入れるときに救いは成就します。

今の私には、ただイエス様の十字架を見上げ、その導きに従うこと、そして復活されたイエス様を伝えること。それを出発の餞としていただきました。御言葉に力があることを決して忘れず、御言葉と共に日本へ行こうと思いました。ほんとうに最良のタイミングで語られる神様です。主に感謝。



この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。 (Ⅰコリント2:8-9)


木村さんのりんご

2012年03月03日 | 羊、朝の一声
奇跡のリンゴの木村さんのことが、リビングライフに紹介されていました。題して、「変化の時」。

木村さんは、無農薬栽培のりんごを育てるために、何年もの間、農薬に拠らない害虫駆除に悩み、ついには破産してもう死ぬしかない、というところまで来ました。自殺のために入った山奥で、自然な状態でたわわに実をつけたりんごの木と出会い、問題は害虫ではなく、木が植わっている「土」にあることに気付きます。そこから彼の新しいスタートが始まり、9年目についに「奇跡のリンゴ」が実ったのです。

木村さんは、農薬という常識を覆し、変化を求めてやり遂げました。変化するには、長い時間が必要です。しかし、なかなか変わることができないのは、やり方を知らないからです。方法に気付きさえすれば、その瞬間に変化は起こります。彼は自殺覚悟で山へ入り、戻ってからも目に見える状況が即座に変化したわけではありません。借金は変わらずあったでしょうし、リンゴはそれから8年間生らなかったのですから。でも、彼はもう死ぬことを考えませんでした。それは、リンゴが生きる正しい方法、そして彼の魂が根付く正しい場所を見つけたからです。

私も害虫ばかりに目を奪われるのではなく(害虫退治はそれはそれで必要ですけど。)、まずは私がどこに根差しているかを絶えず確認したいと思います。


わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。(ヨハネ15:4)

Coram Deo (神の御前で)

2012年03月02日 | 羊、朝の一声
リビングライフのエッセイから。

高麗大学病院の医師たちがストライキを決め、病院を離れた時、一人の研修医、アン・スヒョンは病院に残ることを決意しました。彼は、医者は患者の側にいてこそ意味があるという信念が有り、それが神様の望んでおられることだと確信していたのです。彼は、人の目と評価を恐れませんでした。幾晩も徹夜して癌病棟を守り、夜は一人一人の患者を訪ねて、祈りをささげました。

彼はこのように言いました。「私たちにくださった福音は、私たちの弱さをかろうじて支える杖程度のものではありません。それは、いのちであり、力です。私は、机の前に『Coram Deo』という言葉を貼っています。『神の御前で』というこの言葉を読むたびに、襟を正します。畏敬の念は、私たちを神に集中させる健全な畏れです。私は、主の御前に立ち、親しみと畏れの二つの柱を軸として、私の内に生じる大小さまざまな思いや感情を静め、心と思いを主に留めます。」


万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。(イザヤ8:13)

新しいこと

2012年03月01日 | 羊、朝の一声
2月中、LAに滞在していたえんぢぇる師は、再び日本へ向けて旅立ちました。(参照:えんぢぇるコラム Back to Japan!

そして新しい月が始まりました。毎朝のデボーションは「出エジプト」になり、今朝の冒頭部分では苦難や迫害の中に働かれ、ご自分の民を強められる神様を見ます。えんぢぇる師は、今回仰ったことで、心に残った言葉のひとつに、『リバイバルのあるところには迫害があり、迫害のないところにリバイバルはない。』があります。国家単位で迫害が起きているアフリカ諸国や中国、北朝鮮のことを思うと同時に、今、私個人が直面する「神様から与えられている地」を思いました。そう、家族であり、職場であり、友人知人との人間関係です。

関係の齟齬を恐れ、安穏としたゆる~い関係を保つことばかりを考えているなら、そこに「リバイバル」はないのです。中川健一牧師は、リバイバルのことを「アウェイクニング=霊的覚醒」と呼んでいらっしゃるそうですが、目覚まし時計が鳴る瞬間、アラーム(警報)が響くその瞬間、少なからずの不快感を感じる(ひょっとして私だけ?)ように、しゃっきりと目覚めるためには何かしらの刺激が必要です。苦難や迫害は、単なる刺激と呼ぶ以上のものですが、その時だからこそ主を呼ぶ、主を求める、そして主は応えてくださるのです。

私自身も、この1ヶ月でいろいろと学びました。そしてとにかく「祈ること」。これが今、必要です。リビングライフには出エジプト1章について、こんなコメントがありました。

世の人々は、神の義が現れるのを恐れ、神の人を疎ましく思い、あらゆる手段を使って教会を迫害し、神の人に重荷を負わせます。しかし、苦難や迫害に遭う神の人は神に祈ります。その祈りは、御心が天に行われるように地でも行われ、驚くべき繁栄と成長がなされます。このように、苦難の中には計り知れない神の深い摂理があります。聖徒は、神の約束は必ず実現することを信じ、絶えず神の御前にとどまっていなければなりません。


私が最初に神様から教えていただいた御言葉が、心に響きました。

このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。 (ローマ5:1-5)