きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

「これらが言葉である・・」 申命記FBコメント

2016年09月26日 | 羊、朝の一声


モーゼ五書の締めくくり総決算第五巻、最後の律法書である申命記。これはモーゼの決別説教。80歳のモーセが、神様の命令でイスラエルの民を罪の場所から引き連れ出し、40年もの間、荒野で「神様に従う」ことを教え続け、しかし自分は約束の地へ入れないと知った彼が最後に、新世代に対して神の民として知っておくこととして繰り返し語った渾身のメッセージ。あなたが知らなければならない、守らなければならない神の言葉はこれだ!申命記のテーマは「これらが言葉である」。

イエス様が荒野の誘惑でサタンに立ち向かった言葉はすべて申命記からあり、新約にも引用が多く、厳かで立派な書というイメージはあったものの、内容として私の中に落ちていませんでした。それが「これが神様の言葉だ!」と語られました。イエス様は御言葉の権威をもって語ってくださいます。それは過去に書かれたことが今でも生きていることを教え、神様は今も生きて働いておられていることを繰り返し知らせてくださるため。モーセが血を吐く思いで語った申命記のように、聖書は神様が強く大きな愛を持って、私たちに神様を選ぶこと、共に生きることを語り続けてくださいます。あらためて神様の言葉、聖書をより深く学ぶ意欲を与えられました。


またまた、追い付いていないブログレポートですが、まずはコメントでお茶を濁しておきましょう、と。。。

「荒野にて」(「べ・ミドゥバル」בְּמִדְבַּר) 荒野の唐揚げ編

2016年09月24日 | 羊の声
聖書中、最も有名な聖句と言えば、ヨハネ3章16節。「John 3:16」はアメリカではしばしば看板やポスターでも街中で見かけます。あの美味しいハンバーガーショップのIN-N-OUTの飲み物カップの底内側や、アパレルのFOREVER 21の袋にも印刷されています。(両方とも、クリスチャンカンパニー)救われた時にいただいた御言葉であったり、最初の暗唱聖句である人も多いことでしょう。しかし、この超有名聖句の前に、民数記の一事件について書かれていることを、クリスチャン10年以上している私は分かっていませんでした。

 


天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:13-16)

モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。(民数記21:09)

民数記21章は、神様が攻めて来るカナン人にイスラエルを勝利させるところから始まります。しかし勝利したイスラエルの民は、なんと「食べ物が粗末だから、もうエジプトに帰って奴隷していた方がマシだ!」とつぶやくのです。客観的に読めば、なんておバカでわがままな、と思いますが、ここでかの有名な唐揚げ好きMさんが登場し、実にリアリティに溢れる例で教えてもらいました。神様に救われたものの、40年間唐揚げなしの生活にあなたは耐えられますか?と訊かれると、はっきり言って自信がありません。要はそう言うことです。私はわがまま放題のおバカな民と同じなのです。

そんな民に、神様は炎の蛇を送られ、その蛇にかまれた者がバタバタと倒れて行くのです。その時、民は再び泣きつき、悔い改め、モーセの祈りによって青銅の蛇を掲げ、それを見上げた人はいのちを回復したのです!青銅の蛇はイエス様の十字架を予表したもの。「信じる者が皆、永遠の命を得」て、救われます。

これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(Ⅰコリント10:11-13)

また上記第一コリント10章13節の有名聖句。これも暗唱している人は多いはずですが、その前、1節から12節には、民数記の出来事が記されています。13節は、そのことを踏まえての適応として、本来は語られている御言葉なのです。

更に、メリバの水事件もありました。この失敗によって、モーゼはカナンに入れなかったのですが、この理由もわかりづらいかもしれません。これは、神の権威の乱用を諫めています。モーゼはこの時、岩を二度叩いてしまいました。自我にとらわれ、感情的になったのでしょう。しかしこれは、神様の絶対的聖を汚したことになるのです。このため、モーゼはカナンの地に入ることができませんでした。

まだまだあります。あのバラムという人はなんと民数記だけでも22章から24章の3章と、プラスアルファで登場し、その後、申命記、ヨシュア記にも名前を出します。しかも、新約にも3回(第二ペテロ2:15、ユダ11節、黙示録2:14)その名前が出て来るのです。調べてみたら、旧約にも更に二回、ネヘミヤ、ミカにも名前がありました。が、いずれも避けるべき注意の対象として書かれているのです。

バラムはもともとは預言者でした。しかし、不義のもうけを好み、二心を持ったために、道から外れ、悲惨な終わり方をしました。正しい道から出発することだけでなく、その道を最後まで歩き通すことがとても重要なのです。彼はメシア預言までしているにも関わらず、死んだときの記録では、「預言者」ではなく「占い師」と呼ばれました。神の代弁者である預言者として出発しましたが、最後には神の敵である「占い師」と成り果ててしまったのです。

私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。(民数記24:17)

不幸な者たちです。彼らは「カインの道」をたどり、金もうけのために「バラムの迷い」に陥り、「コラの反逆」によって滅んでしまうのです。(ユダの手紙11節)

黙示録の直前にあるユダ書は、信仰の霊的闘いがテーマです。ここで、真の礼拝を怠ったカイン、貪欲と二心のバラム、そしして高慢と反逆のコラが不幸な者と呼ばれています。バラムもコラも、民数記中の事件です。

同時に、ユダヤ人が安息日の最後に祈る言葉もこの民数記にあります。彼らは未だメシア到来を待ち望み、流浪の二千年間、欠かすことなくこの祈りを献げ続けています。ユダヤ人が最後に救われる根拠となっている神様の約束です。

主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて あなたに平安を賜るように。
彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、わたしは彼らを祝福するであろう。
(民数記6:24-27)


信仰を持った者は荒野の道を歩くことになります。行けども行けども、荒野に続く荒野。周囲の敵はたくさん、問題は山積み。現実生活の中で、あたふたしているクリスチャンの姿があります。神様は、今の霊的戦いを戦い抜く戦士としてクリスチャンを考えておられ、約束の地へ「わたしが共に行く」と導いてくださっています。その神様への信頼=信仰を強く持ち続けること。それが「荒野にて」語られた神様の約束、言葉なのです。

「荒野にて」(「べ・ミドゥバル」בְּמִדְבַּר) その壱

2016年09月18日 | 羊の声


「はじめに」「これらが名である」「神は呼ばれた」、そして民数記。大胆なご意見のえんぢぇる師は「出エジプトから民数記に話は続いている、とおっしゃったけど、私は二巻(出エジプト記)、三巻(レビ記)、そしてこの四巻(民数記)への流れに感動したのでした。

二巻最終章40章 のほぼ最後では、「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」(34&35節)と、神様の栄光が幕屋に満ちている様子がありました。第一巻の創世記は、光で始まったものの闇で終わっていますが、二巻は光、それも主の栄光で終わるのです。そして第三巻、その光の中から「神は(私たちを)呼ばれた」のです。圧倒的な真実の光の中から、そこに近づきたくても近づけない私たちに「声」をかけてくださり、神様に近づくための「礼拝規定」を教えてくださいました。さぁ、だから礼拝するぞ!と思うものの、続く四巻の始まりは「荒野にて」?え?と思いますか。でも思い出してください。イエス様が公生涯に入られて最初にいらっしゃったのは荒野でした。サタンの誘惑に遭い、退けられたところです。そして第四巻民数記では、救いに与った民がシナイ山からモアブへの旅する経緯と様々な事件が書かれています。これは、クリスチャンの信仰の歩み、イエス様が荒野でサタンを退けられたように、勝利すべきクリスチャンの歩みに必要なこと。二巻から既に「新生聖化栄化」に絡めて語られていますが、この民数記の数々の事件は新約でも引用されているものも多く、それだけ私たち、霊の戦士が心得るべきことなのです。聖書は全体で読まばければならない、そのための30分de一巻、この目的を再びかみしめられ、感動しました。(そしてこの後は神様の言葉、申命記に続くのだ、と思うとひとしお。)

しかし民数記と言われて思い出すのは人口調査くらい。これではイカン、とがんばって予習すると、出て来る出て来る、たくさんの事件の数々。あ、これってここにあったのね、あれこれも?という感じでした。ところがメッセージを聴いてビックリ。そんな単純なことではありませんでした。民数記の記事の重要性をどれだけ見逃していたことか。民数記がわからずして、黙示録がわかるはずがない、とすら思い、深く反省。

まず人口調査。なぜ、ここで二度に亘る人口調査が行われたのでしょうか?膨大なムツカシイ名前に圧倒されて、肝心の理由を見逃します。しかし、いつでも大切なのは動機であり、理由です。エジプトでの400年、神様を忘れて礼拝をせずに、心身ともに奴隷と化した民衆を約束のカナンの地に率いれ、先住民との戦いに戦いに備えるために群れを組織化し、この荒野で戦士としての意識を持たせる必要があったのです。

長年の奴隷生活は、彼らの本来のアイデンティティを失わせてしまっていました。それはまるで、救われる前の私たちのようです。その私たちに神様は語られます。「あなた方はわたしが選んだ契約の民だ。途中で何があっても、どんな誘惑に落とされようとも、あなた方は確かにわたしの手の保証の内にいるのだ」、と。つまりこれは、天国に入るためのいのちの書に、救いを受けた私たちクリスチャンの名が記されているそのことに繋がっているのです。これこそが、私たちに伝えられているこの書の主題テーマです

しかし事実として、ほとんどの民が、実にヨシュアとカレブの二人以外の601728人はカナンの地に入ることができませんでした。不信仰ゆえです。ヘブル書にはっきりと書かれています。神に従う者は祝福を受けますが、従わないものは受けられません。尚、ヨシュアはエフライム族で、カレブはユダ族です。この二人によって南ユダと北イスラエルが継承されるのです。これは今、終末時代に直面する私たち、霊の戦士に語らていることではないでしょうか?信仰を持った後は荒野の道を歩くことになります。行けども行けども、荒野に続く荒野。周囲の敵はたくさん、問題は山積み。現実生活の中で、あたふたしているクリスチャンの姿があります。これは続く申命記でより一層深く語られるのですが、神様は、この霊的戦いを戦い抜く戦士としてクリスチャンを考えておられ、約束の地へ「わたしが共に行く」と導いてくださっています。その神様への信頼=信仰を強く持ち続けること。それが「荒野にて」語られた神様の約束、言葉なのです。


いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。(へブル3:16-19)

だから、聖霊がこう言われるとおりです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」



更に他の数々の事件も「要注目」なのですが、これらは次回までお待ちください。これらも見逃せないですよ。乞うご期待。

「荒野にて」 (べ・ミドゥバル בְּמִדְבַּר) FBコメント

2016年09月17日 | 羊の声


何とかFBコメントは続行していますが、ブログはまたヤバい雰囲気なので、先ずはコメントを転記するという姑息な手で補足しておくことに。。。以下、FBに載せたコメント、第一次アプリケーションでした。


GNSの師の教え:救いのない学びや集会はあり得ない。どんな聖書勉強会であっても、そこに救いがなければならない、どんな学びやメッセージもイエス様に結び付けなければならない!。。。しかし、もし私が「民数記」の学びを任されたとして、どうだろう?「民数記」って人口調査の話で、ただただ部族と氏族と人数が書かれているだけ、だよねぇ、と思った私は浅はかの極致でした。如何に聖書を読んでいないことか!民数記には、非常に深い意味を持つ事件がたくさん記されていました。特に、ヨハネ3:16が、民数記の青銅のヘビから繋がっていること、これは覚えておかなければなるまい!と大発見気分の他、多々「ハッ」と気付かされることを与えられたメッセージでした。ありがとうございます。さぁ、行くぞ申命記!

エジプトから救い出され、約束の地カナンへ出発する前に、「戦士」として備えられなければならなかった民。これは、今、終末時代を目の前にする私たちへの「霊の戦士」としてのメッセージです。絶えず祈り、いのちの書に記された神様の恵みの約束に感謝し、荒野の歩みを続けて行きます。霊の家族と共に。


荒野で死んでしまう前に、きちんとしたものを書かねば。応援よろしく、と誰にともなくつぶやいてみます。MR. ITOUのしっかりした教会レポートはこちらから。 http://blog.goo.ne.jp/jesus101/e/c28c7cd5440bb42e0e26671c255cb525

「神は呼ばれた(וַיִּקְרָא)」

2016年09月05日 | 羊の声


全体で聖書を読むこと、それが今学んでいる『30分de一巻シリーズ』の目的。一つ一つの細かい解き明かしももちろん重要ですが、それらがどのように聖書全体のテーマに繋がっていくのか、それを掴んでこそ聖書の真髄です。特に旧約聖書は、長いし、ムツカシイし、訳わからない記述も多いし、イエス様の前のことだし、などなど敬遠される理由はたくさん。しかし、聖書は66巻すべてイエス様について書かれていて、金太郎飴のようにどこを切ってもイエス様を見ることができるのです。イエス様が出て来ないと思うのは、大きな間違い。旧約聖書を読む時、大切なことはイエス様の光に照らして読むこと。そして同時に、遥か昔のことと、あるいは遠い中東の一国のことと切り離さずに、今を生きる私にどう適応できるのかを念頭に置くこと。この二点が大切です。

闇雲に読むだけでは、深く暗い霧の中を小さな懐中電灯一つ手にして歩いているようなもの。目の前のことだけを見ていても真の姿はわかりません。つまり、限られたところしか照らさない私たちの知識や経験という手元の道具だけに頼っていても、全体像は見えて来ないのです。イエス・キリストという真の光に照らし出されてこそ、今いるところ、そして歩いて行く先が見えてきます。そのためには上を見上げること。神様の光は、圧倒的な輝きをもって、大きすぎて見ていなかった、しかしほんとうに大切なことをそこに照らし出して見せてくれます。






第一巻(創世記)、第二巻(出エジプト)同様に、第三巻のレビ記もまた、本来のタイトル、ヘブル語での最初の言葉にそのテーマを見ます。それは、「神は呼ばれた(וַיִּקְרָא)」。神様が呼んで、神の国への旅路を始めた民に、モーセを通して語られたこと。どうしたら神に近づくことができ、どのように神と歩むのか。礼拝を忘れてしまって奴隷と化した民に、何よりも大切な「礼拝」について、主ご自身が教えてくださっている神様の言葉なのです。

1-10章:どうしたら神様に近づくことができるのか?
11-24章:どうしたら神様と共に歩むことができるのか?
25-27章:礼拝することによって与えられる祝福の約束

どうしたら神に近づくことができるのか。これは献げものの規定として最初に記載があり、動物の生贄という現代では全く関係ないことのように読んでしまいます。が、「献げもの」とは、神様を礼拝する時に携えて来るもの=心。可愛がっている猫が時々贈り物を持って来ます。はっきり言って、迷惑極まりない贈り物なのですが、猫にとっては日頃の食事やケアに感謝を表す精一杯の恩返し。その気持ちを知ると受け取らざるを得ない、また可愛さが増すのは必至でしょう。神様もまた、その品やお金を受け取るのではありません。大切なのはその「心」です。

自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき霊的な礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。(ロマ12:1-2)

そして、どうしたら神と共に歩むことができるのか。これは「聖別」すること。ヘブル語では、賛美にもある「カドシュ(Kadosh)」で、本来の意味は「分離させる、取り分ける」。聖なる神と共に神の国に住む者として、神の絶対的聖を汚すことはゆるされることではなく、そのために日常生活においても、聖と俗(汚れたもの)とを峻別する指針が記されているのです。

あなたたちは自分自身を聖別して聖なる者となりなさい。(11:44)




しかしこの「聖別」は、人間の力で成し遂げること、続けることはできませんでした。命は命によってしか贖うことができません。だからイエス様は、十字架という究極の方法で全人類の救いを導かれたのです。そのイエス様も公生涯で仰った“最も大切な教え”もまたこのレビ記あります。

自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。(19:18)

少し前のメッセージでも聞きましたが、この直前には、「復讐するは我にあり」があります。さばきは神様がされます。私たち人間は、さばき合うのではなく、愛し合う存在として創られました。神様を愛し、人を愛する。それこそが神の御国であり、イエス様の光の中で見出せる“最も大切な教え”なのです。