きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

「荒野にて」(「べ・ミドゥバル」בְּמִדְבַּר) 荒野の唐揚げ編

2016年09月24日 | 羊の声
聖書中、最も有名な聖句と言えば、ヨハネ3章16節。「John 3:16」はアメリカではしばしば看板やポスターでも街中で見かけます。あの美味しいハンバーガーショップのIN-N-OUTの飲み物カップの底内側や、アパレルのFOREVER 21の袋にも印刷されています。(両方とも、クリスチャンカンパニー)救われた時にいただいた御言葉であったり、最初の暗唱聖句である人も多いことでしょう。しかし、この超有名聖句の前に、民数記の一事件について書かれていることを、クリスチャン10年以上している私は分かっていませんでした。

 


天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:13-16)

モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。(民数記21:09)

民数記21章は、神様が攻めて来るカナン人にイスラエルを勝利させるところから始まります。しかし勝利したイスラエルの民は、なんと「食べ物が粗末だから、もうエジプトに帰って奴隷していた方がマシだ!」とつぶやくのです。客観的に読めば、なんておバカでわがままな、と思いますが、ここでかの有名な唐揚げ好きMさんが登場し、実にリアリティに溢れる例で教えてもらいました。神様に救われたものの、40年間唐揚げなしの生活にあなたは耐えられますか?と訊かれると、はっきり言って自信がありません。要はそう言うことです。私はわがまま放題のおバカな民と同じなのです。

そんな民に、神様は炎の蛇を送られ、その蛇にかまれた者がバタバタと倒れて行くのです。その時、民は再び泣きつき、悔い改め、モーセの祈りによって青銅の蛇を掲げ、それを見上げた人はいのちを回復したのです!青銅の蛇はイエス様の十字架を予表したもの。「信じる者が皆、永遠の命を得」て、救われます。

これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(Ⅰコリント10:11-13)

また上記第一コリント10章13節の有名聖句。これも暗唱している人は多いはずですが、その前、1節から12節には、民数記の出来事が記されています。13節は、そのことを踏まえての適応として、本来は語られている御言葉なのです。

更に、メリバの水事件もありました。この失敗によって、モーゼはカナンに入れなかったのですが、この理由もわかりづらいかもしれません。これは、神の権威の乱用を諫めています。モーゼはこの時、岩を二度叩いてしまいました。自我にとらわれ、感情的になったのでしょう。しかしこれは、神様の絶対的聖を汚したことになるのです。このため、モーゼはカナンの地に入ることができませんでした。

まだまだあります。あのバラムという人はなんと民数記だけでも22章から24章の3章と、プラスアルファで登場し、その後、申命記、ヨシュア記にも名前を出します。しかも、新約にも3回(第二ペテロ2:15、ユダ11節、黙示録2:14)その名前が出て来るのです。調べてみたら、旧約にも更に二回、ネヘミヤ、ミカにも名前がありました。が、いずれも避けるべき注意の対象として書かれているのです。

バラムはもともとは預言者でした。しかし、不義のもうけを好み、二心を持ったために、道から外れ、悲惨な終わり方をしました。正しい道から出発することだけでなく、その道を最後まで歩き通すことがとても重要なのです。彼はメシア預言までしているにも関わらず、死んだときの記録では、「預言者」ではなく「占い師」と呼ばれました。神の代弁者である預言者として出発しましたが、最後には神の敵である「占い師」と成り果ててしまったのです。

私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。(民数記24:17)

不幸な者たちです。彼らは「カインの道」をたどり、金もうけのために「バラムの迷い」に陥り、「コラの反逆」によって滅んでしまうのです。(ユダの手紙11節)

黙示録の直前にあるユダ書は、信仰の霊的闘いがテーマです。ここで、真の礼拝を怠ったカイン、貪欲と二心のバラム、そしして高慢と反逆のコラが不幸な者と呼ばれています。バラムもコラも、民数記中の事件です。

同時に、ユダヤ人が安息日の最後に祈る言葉もこの民数記にあります。彼らは未だメシア到来を待ち望み、流浪の二千年間、欠かすことなくこの祈りを献げ続けています。ユダヤ人が最後に救われる根拠となっている神様の約束です。

主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて あなたに平安を賜るように。
彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、わたしは彼らを祝福するであろう。
(民数記6:24-27)


信仰を持った者は荒野の道を歩くことになります。行けども行けども、荒野に続く荒野。周囲の敵はたくさん、問題は山積み。現実生活の中で、あたふたしているクリスチャンの姿があります。神様は、今の霊的戦いを戦い抜く戦士としてクリスチャンを考えておられ、約束の地へ「わたしが共に行く」と導いてくださっています。その神様への信頼=信仰を強く持ち続けること。それが「荒野にて」語られた神様の約束、言葉なのです。

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