きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

「荒野にて」(「べ・ミドゥバル」בְּמִדְבַּר) その壱

2016年09月18日 | 羊の声


「はじめに」「これらが名である」「神は呼ばれた」、そして民数記。大胆なご意見のえんぢぇる師は「出エジプトから民数記に話は続いている、とおっしゃったけど、私は二巻(出エジプト記)、三巻(レビ記)、そしてこの四巻(民数記)への流れに感動したのでした。

二巻最終章40章 のほぼ最後では、「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」(34&35節)と、神様の栄光が幕屋に満ちている様子がありました。第一巻の創世記は、光で始まったものの闇で終わっていますが、二巻は光、それも主の栄光で終わるのです。そして第三巻、その光の中から「神は(私たちを)呼ばれた」のです。圧倒的な真実の光の中から、そこに近づきたくても近づけない私たちに「声」をかけてくださり、神様に近づくための「礼拝規定」を教えてくださいました。さぁ、だから礼拝するぞ!と思うものの、続く四巻の始まりは「荒野にて」?え?と思いますか。でも思い出してください。イエス様が公生涯に入られて最初にいらっしゃったのは荒野でした。サタンの誘惑に遭い、退けられたところです。そして第四巻民数記では、救いに与った民がシナイ山からモアブへの旅する経緯と様々な事件が書かれています。これは、クリスチャンの信仰の歩み、イエス様が荒野でサタンを退けられたように、勝利すべきクリスチャンの歩みに必要なこと。二巻から既に「新生聖化栄化」に絡めて語られていますが、この民数記の数々の事件は新約でも引用されているものも多く、それだけ私たち、霊の戦士が心得るべきことなのです。聖書は全体で読まばければならない、そのための30分de一巻、この目的を再びかみしめられ、感動しました。(そしてこの後は神様の言葉、申命記に続くのだ、と思うとひとしお。)

しかし民数記と言われて思い出すのは人口調査くらい。これではイカン、とがんばって予習すると、出て来る出て来る、たくさんの事件の数々。あ、これってここにあったのね、あれこれも?という感じでした。ところがメッセージを聴いてビックリ。そんな単純なことではありませんでした。民数記の記事の重要性をどれだけ見逃していたことか。民数記がわからずして、黙示録がわかるはずがない、とすら思い、深く反省。

まず人口調査。なぜ、ここで二度に亘る人口調査が行われたのでしょうか?膨大なムツカシイ名前に圧倒されて、肝心の理由を見逃します。しかし、いつでも大切なのは動機であり、理由です。エジプトでの400年、神様を忘れて礼拝をせずに、心身ともに奴隷と化した民衆を約束のカナンの地に率いれ、先住民との戦いに戦いに備えるために群れを組織化し、この荒野で戦士としての意識を持たせる必要があったのです。

長年の奴隷生活は、彼らの本来のアイデンティティを失わせてしまっていました。それはまるで、救われる前の私たちのようです。その私たちに神様は語られます。「あなた方はわたしが選んだ契約の民だ。途中で何があっても、どんな誘惑に落とされようとも、あなた方は確かにわたしの手の保証の内にいるのだ」、と。つまりこれは、天国に入るためのいのちの書に、救いを受けた私たちクリスチャンの名が記されているそのことに繋がっているのです。これこそが、私たちに伝えられているこの書の主題テーマです

しかし事実として、ほとんどの民が、実にヨシュアとカレブの二人以外の601728人はカナンの地に入ることができませんでした。不信仰ゆえです。ヘブル書にはっきりと書かれています。神に従う者は祝福を受けますが、従わないものは受けられません。尚、ヨシュアはエフライム族で、カレブはユダ族です。この二人によって南ユダと北イスラエルが継承されるのです。これは今、終末時代に直面する私たち、霊の戦士に語らていることではないでしょうか?信仰を持った後は荒野の道を歩くことになります。行けども行けども、荒野に続く荒野。周囲の敵はたくさん、問題は山積み。現実生活の中で、あたふたしているクリスチャンの姿があります。これは続く申命記でより一層深く語られるのですが、神様は、この霊的戦いを戦い抜く戦士としてクリスチャンを考えておられ、約束の地へ「わたしが共に行く」と導いてくださっています。その神様への信頼=信仰を強く持ち続けること。それが「荒野にて」語られた神様の約束、言葉なのです。


いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。(へブル3:16-19)

だから、聖霊がこう言われるとおりです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」



更に他の数々の事件も「要注目」なのですが、これらは次回までお待ちください。これらも見逃せないですよ。乞うご期待。

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