きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

苦手なこと

2012年01月31日 | 羊、朝の一声

理想と現実、再び



私は、お掃除が大の苦手です。私の友人に、「イライラする時はお家中に掃除機をかけて、大掃除するのが一番!お部屋もすっきり、気分も爽快だよ!」と言う人がいます。私にとっては、まったく考えられない、宇宙人みたいな人と思います。もちろん、キレイになったお部屋は嫌いではありません。でも私にとっては、「お掃除をする嫌さ加減」は「キレイなお部屋の満足感」をはるかに上回るのです。

ところが、今週はお掃除週間。キレイ好きの牧師が日本から帰ってくるので、教会をピカピカにしておかなければならないのです。不信仰と呼ばれようと、それでも女?と咎められようと、気分は憂鬱。。。

しかし、何とかがんばってお掃除しています。「“個人的"お掃除をする嫌さ加減」は「“個人的"キレイなお部屋の満足感」を上回るのですが、「“個人+他の人”満足感」となると、天秤は当然「満足感」に傾きます。しかも、“他の人”はキレイ好きで、大切な牧師先生なのですから。しかし慣れないことをすると、腰は痛いわ、手は力入らなくなるわ、足はしびれるわ、“個人的”には気分最低空飛行の感じ。

そこで、リビングライフ登場!今日は1月の終わりで、月末の「生き生きとした人生を歩むため」と題したエッセイがありました。今月のタイトルは「具体的な適用」について。


真理を知っていることと実行することは別です。真理を知っているだけでは、頭の中で仮想現実だけを思い巡らすのと同じです。頭の中では、できないことはありません。頭の中では何でも可能なため、現実と違う自分の姿を思い描いて生きています。

うそをついてはならないというインスピレーションや霊感を受けるのと、実際の状況でうそをつかにのとでは、天と地の差があります。礼拝メッセージを聞いて、隣人を愛そうという決心は、だれもがするものです。しかし、そこから一歩進んで、具体的な愛の行いをするのは、簡単なことではありません。

隣人を愛する人になろうという決心よりも、具体的にその愛を行いに移すことが大切なのです。祈る人になろうという決心よりも、一日に短時間でも実際に祈ることの方がずっと重要なのです。



「こんなこと、なんで私だけが。。。」とつぶやいていた私に、神様からの御言葉でした。主はすべてをご存知です。私が嫌がる体を奮起させて掃除していたことも、またブーたれた思いを抱えながらやっていたことも。。。明日も愛の実践に励みたいと思います。



何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。 (フィリピ2:14)

何事も愛をもって行いなさい。 (Ⅰコリント16:14)

救いの確信

2012年01月30日 | 羊、朝の一声
今日のリビングライフの黙想エッセイから。

救いは、正確なものなので、確信がなければなりません。それならば、自分の救いを確信することは、霊的な高ぶりでしょうか。いいえ、そうではありません。まことに救われて、自分の救いを確信することは、救われたものの義務です。
救いの確信があるあなたがすべきことは、はっきりしています。救いに至る信仰をくださった神の恵み感謝することです。なぜなら、信仰自体も私たちのものではないからです。信仰は神がくださったものです。



このエッセイからいろいろと考えました。「救いの確信」については、えんぢぇる師からも幾度も語られ、おかげでその意味の自己アイデンティティはかなりしっかりしていると思っています。そんな私がひっかかったのが、「それでは霊的高ぶりなのか」というところ。ちょっとグサッと来て、違うんだ!とホッとしたと同時に、そうか、その後の「感謝」が足りないんだ、とあらためて思い知らされました。

今日の学びの小テスト(三回目にして、ほんとうに抜き打ちでした。)で、「御霊の賜物9つを、聖書の順番通りに書きなさい。」という設問がありました。信仰は御霊の賜物です。(因みに3番目)これについても、深く考えるといろいろあるのですが、とにかく神様がくださっているものであることは間違いありません。今、神様を信じて祈ることができる、これは信仰ゆえです。意識していないかもしれないけど、大きな大きな恵みです。そのことを感謝すること。恵みの主を賛美すること。そして私の「救いの確信」をますます強めていこうと思いました。


キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。
 知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。(コロサイ3:16)

人生の目的

2012年01月29日 | 羊、朝の一声
昨日の記事で、成り行き上、メモリアルサービスでのメッセージの結論だけ書いてしまいましたが、実は3つのポイントで語られました。心に残ったので、シェアしたいと思います。


ポイント1:人生のしあわせ
「しあわせ」と聞くと、「幸せ」を思う人がほとんどですが、広辞苑では「仕合せ」(こういう字もあるんですよ!)が最初の定義として出ているそうです。しあわせとは、「仕え合うこと」。

えんぢぇる牧師はしばしば、「自分が得たものより、あげたもの、手放したもので“しあわせ”ができる」と仰います。また、別の牧師さんが仰っていました。「必死になってあれがほしい、これがほしいと獲得しようとする。でもね、あのパソコンが欲しい!と思って、手にして御覧なさい。然程のことではないんです。あの車でなきゃダメ!と思っても、買ってしまったら然程ではないんです。あの人と結婚したい!!と思って結婚したら、、、ここからは申しませんが。」

この牧師さんたちのメッセージからも同じようなことを感じます。しあわせとは、「仕え合うこと」なのです。


ポイント2:人生の希望
人は死を迎えます。その時、どんなものも持って行くことはできません。大切な物だけでなく、愛する人や家族も、貴重な思い出すら、人間は死に際して何も持つことができません。では人生の希望、「生きる」希望はどこにあるでしょうか。私たちクリスチャンは知っています。「希望」はイエス様にあることを。イエス・キリストが、私を含むすべての人間の罪を負って十字架にかかり、死んで復活されたことを信じる者には、永遠の命が与えられています。私もまた、いずれ地上での生を終え、この肉体とお別れします。でも神様の愛の内にある私の霊は、神様と共に永遠を生きるのです。そこで生きる「私」が真にあるべき「私」の姿なのです。その「私」のために、今の人生が与えられています。神様の元で、真の「私」を生きることができる、これ以外に確かな希望はありません。


ポイント3:人生の目的
だからこそ、人生の目的がはっきりとわかります。「しあわせ」を教え、「希望」を与えてくださった神様を賛美することで、人生が本来持つべき輝きを取り戻すのです。直接的に歌う賛美はもちろん、生活を通して「しあわせ」「希望」を実践することも、神様への賛美です。真の意味で「生きる」ことそのものが賛美なのです。



主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。(詩篇33:1)

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(Ⅱコリント 4:18)






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千の風になって

2012年01月28日 | 羊、朝の一声
今日はある方のメモリアルサービス(告別式)に行って参りました。多くのお証しと共に、賛美もたくさん献げられましたが、その中にあの有名な「千の風になって」がありました。

実はこのお歌、歌詞にちょっと引っかかる部分があって、聞くのに躊躇というか、身構えてしまうのです。猫に喩えれば、毛が逆立っちゃうような感じ。ふくろうに喩えれば、羽膨らまして威嚇ムードにある感じ。単に解釈の問題なので、妙に「重箱の隅つつく」タイプの偏屈な私だけの個人的な捉え方なのですが、何か引っかかる~、という感じでした。が、今日の賛美では、ちょっと歌詞が変えられていたのです。完全に覚えていませんが、こんな感じでした。



私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません

痛みも苦しみも 涙もない天国で
生きてイエス様と共に
あなたに微笑む
いつかまた会える日を待ち望みながら

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません



偏屈な私の心に聖霊様の風が吹き込んだように、爽やかな気持ちになりました。帰宅後、いろんなバージョンがあるのかな?と思って調べましたが、上の完全形は見つかりませんでした。今日の賛美を歌った方のオリジナルなのでしょう。でも、探している内に、あのJTJの岸先生バージョンというのがあることがわかりました。これです。



① 私のお墓の前でほほえんでください
  そこに私はいません 天国に来てます
  青い空の はるかかなたの国で
  愛する人々と 手を取り合っています


② 主イエスは死に打ち勝って よみがえられたので
  すべて信じる者は 滅びることがない
  青い空の はるかかなたの国で
  ともに手を取り合って よろこぶ日が来る


③ 私のお墓の前で 喜んでください
  すでに私は召されて 天国に来てます
  千の天使 愛する一人一人
  あなたに会う日まで 見守っています
  
  千の天使 愛する一人一人
  あなたに会う日まで 見守っています
  あなたに会う日まで 見守っています




これも聴いてみたいなぁ。神様が人間だけに与えられたもののひとつに「創造力」があります。人間だけが、物や作品を創り上げることができるのです。今日の賛美者も、岸先生も、神様から与えられた創造の力を用いて、主を賛美されていることに感動を覚えました。今日のメモリアルサービスメッセージは、人生の目的は主を賛美することだ、と語られ、賛美を愛し、最後まで歌い続けた彼女を偲びました。明日、日曜日の礼拝後、ゴスペルクラスを開いています。神様を賛美したい、賛美って何?と興味のある方、ぜひ朝から教会へお越しください。賛美の素晴らしさ、爽快さ、美しさを満喫できるところが教会です。

日本語礼拝は午前10:30から、コリアンタウンで行っています。どなたでもぜひ、お出でください。お待ちしています。
場所はここをご覧ください。http://goodnewsstation.com/schedule2011.html



後の世代のために このことは書き記されねばならない。
 「主を賛美するために民は創造された。」(詩篇102:19)


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目覚めよ!

2012年01月27日 | 羊、朝の一声

理想と現実?




最近、朝、起きれないでいます。用心して早めに寝るようにしているのですが、この10日ほど、予定の時間には起きた試しがない!

教会では早天祈祷というものをします。朝早く起きて、共に祈ること。教会で共同生活していたり、クリスチャンホームなどは良いですよね、仲間がいて張りがあるでしょう。仲間のいない私ですが、少し前から神様に「早天祈祷したら~?」のように促されています。たぶん、今の私にとって真実必要なことなのだと思い、心がけるのですが、なかなかできない。。


主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て あなたを仰ぎ望みます。(詩篇5:4)


美しいなぁと思います。でも。。。
何とか早起きパターンをつけようと、いろいろ工夫する中に、「目覚める御言葉探し」というものがありました。この詩篇の御言葉のように、「起きよう!」と思う御言葉を探して、暗唱するというもの。しかし、やる気がないので、いつまでも作業は進んでいませんでした。

と・こ・ろ・が、主は真実な方!今日、何気に読んだ聖書箇所から、何度も何度も「目覚め」を語ってくださいました。


モーセの律法に記されている恐ろしい災難は、紛れもなくわたしたちを襲いました。それでもなお、わたしたちは罪を離れて主なる神の怒りをなだめることをせず、またあなたのまことに目覚めることもできませんでした。(ダニエル9:13)

彼は、わたしに理解させようとしてこう言った。「ダニエルよ、お前を目覚めさせるために来た。」ダニエル9:22)

民の目覚めた人々は多くの者を導く(ダニエル11:33)

目覚めた人々は大空の光のように輝き 多くの者の救いとなった人々は とこしえに星と輝く。(ダニエル12:3)

多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた人々は悟る。(ダニエル12:10)


「聖書に“目覚め”なんて言葉、どこにでもいくらでもあるでしょ」と思わないでください。あまりに「目覚め」が続くので、その後、ウェブ検索で再確認してみましたが、ここ(ダニエル書後半)ほど数多くはないのです。 and かも。

起きなきゃダメだ。。。と思い知らされました。この神様の言葉に従うか、尚逆らうか。悟る人々になりたいと思います。



羊の門

2012年01月26日 | 羊、朝の一声



ウェブサイトを見ていたら、こんなお写真を見つけました。思わず、「羊の門」の御言葉を思い出しました。

イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。
 わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(ヨハネ10:7-11)


わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。
 その羊をも導かなければならない。
 その羊もわたしの声を聞き分ける。
 こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。(ヨハネ10:16)


お写真は、アフガニスタンの羊飼いだそうです。



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「かみさまへのてがみ」

2012年01月25日 | 羊の声
LETTERS TO GODが日本語DVDで発売されるそうです。お勧めの作品!発売元のあらすじはこれ。


8歳の少年タイラーは、家族や近所の人々にたくさんの愛情に包まれながら、勇敢に日々がんと闘っていた。タイラーは、残された貴重な時間を使って、毎日神様への手紙を出し続ける。タイラーにとって“かみさま”は友だちであり、先生であり、文通相手。祈りとは神さまに手紙を書くことだった。その手紙は、アルコールに依存し、愛する息子に会う権利まで取り上げられ、荒んでいた郵便配達人ブレイディの心と生き方を変えていく。さらには近所の住民や町の人々の心を優しくつないでいった。

いつも前向きなタイラーに励まされる家族やまわりの人たち。しかし病魔は容赦なくタイラーの体を蝕んでいく。果たしてタイラーの手紙は神様に届くのか―。実在した男の子の話をもとにして描かれた感動作品!



「子供の病気をネタにしたお涙ちょうだいモノか。」と思わないでほしい。確かに私も子供の病気モノはあまり得意ではありません。でも、この作品は実話を基に作られており、実在した少年タイラーの父親が製作にも携わっているのです。彼は、本作が少しでも多くの人の希望と心を結びつけるのに役立てばと、語り、これは彼の証でもあると思います。苦しみの中で思わず忘れてしまう、「信じ合うこと、愛し合うこと」の本当の意味を教えてくれる作品です。









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オペラ座の怪人

2012年01月24日 | 羊、朝の一声
主のなさることに偶然はない。お仕事でブロードウェイの「THE PHANTOM OF THE OPERA(オペラ座の怪人)」チケットについて調査した今日、朝のディボーションには、「オペラ座の怪人」にまつわるエッセイがあった。リビングライフのエッセイの要約。

「オペラ座の怪人」が長く愛されている理由として、ある評論家はこう語る。「このミュージカルを観る人々が、怪人の中に自分の姿を見出すからだ。」

 この作品のクライマックスは、怪人のマスクが外され、マスクの内側の醜悪な顔が現れる瞬間です。しかし、ヒロイン、クリスティーヌは、彼の顔を見ても逃げ出すことなく、憐れみに満ちたまなざしで見つめ、彼に近づいてキスをします。この瞬間、怪人を長い間縛っていた憎しみが溶け始めます。

 私たちの周囲にも、これに似たことはしばしば起きています。私がつけていた仮面の下の醜い姿を、イエス様は見捨てられませんでした。近づいて、抱きしめて、癒してくださいました。私たちはこの方の赦しを受け取り、この方によって回復された人生を歩んでいくのです。








それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。(使徒26:18)

新たに生まれる

2012年01月23日 | 羊、朝の一声
イエスは答えて言われた。
 「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)
 ニコデモは言った。
 「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
 イエスはお答えになった。
 「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。

クリスチャンは一度死んでいる。新たに生まれて、永遠の神の国を見るようになった。これを真面目な顔で言うと、「ヘンな人」扱いされるだろう。気味悪がって逃げる人もいるかもしれない。でも、これも本当のこと。イエス様も「驚いてはならない」と仰るほど、ある意味当然のことなのだ。

人は選んで生まれてくることはない。国も、親も、時代も、境遇も自ら選ぶことができず、神様の愛によってこの世に生まれ出た。しかし、実はその後、「新たに生まれる」ことを選ぶことができるのだ。漠然と生きるのではなく、はっきりと父なる神様を見、神様と語らうことで、「新たに生まれる」選択ができる。これは頭で考えていてもわからない。まず、信じてみる。信じることにリスクはない。今、「新たに生まれる」決心をしたいと思うなら、神様に祈ってほしい。神様は心からの祈りに必ず応えてくださる方なのだから。

一度生まれた者は二度死に、二度生まれた者は一度死ぬ。


「新たに生まれる」選択をしたい方、これを読んでみてください。
http://4sl.yotsunohousoku.com/index.html




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求めよ、さらば与えられん。

2012年01月22日 | 羊、朝の一声
今日の礼拝の御言葉は、かの有名なマタイ7:7。先週1週間、どうにもやる気がなく、起床時間はどんどん遅くなるわ、祈りの時間は短くコンパクトにまとめてしまうわ、聖書はツラツラと適当に読むだけだわ、神様の信仰テストに赤点だったせいか、すっかり落第生、オチコボレ生活でした。そんな私に与えられた、この御言葉。「求めよ、さらば与えられん。」


何とかこのブログだけは、動画アップなどの無理はしながらも、必死に毎日更新を目指しました。祈る時間を削ってでも、ブログ更新していたのです。ふと気付くと、この1週間、御言葉がない。。。


御言葉は私たちを生かす源です。クリスチャンであろうとなかろうと、これは事実なのです。御言葉もなく、矢鱈に突っ走っても元気が出るはずありません。源が欠けているのですから。今日の礼拝の御言葉を聞き、そのことに気付かされました。(これも御言葉の力!


このブログの更新に、心していることがあります。これまで何度も中断してしまった私ですが、ブログに一日一食は与えなきゃ、という思いです。つまりブログを子供のように考えて、三食は必要なくても、一食は必ず食べさせなきゃ、というつもりで臨んでいます。私は母になったことがありませんが、周囲には立派なお母さん方がたくさんいらっしゃって、皆さん、お子さんに愛情を持って、時間をかけて、大切に接していらっしゃいます。私もせめて、ブログに手をかけようと思ったのです。


でも、そんな思いも、私自身がしっかり御言葉の食事をしていなかったら、元も子も有りません。それを今朝、教えられました。そして、求めるならば、神様はその幾十倍ものを与えてくださることも、忘れていた私に語られました。私自身が御言葉をいただき、その上で、一日一食をきちんと与えることができるよう、仕切りなおしです。神様と共に。



今日の御言葉:求めよ、さらば与えられん。(マタイ7:7)