クロスバイクで元気

念願叶った定年退職の身は、先立つ物は細く時間は太くの狭間。
歩いて、自転車に乗って感じたことを、気ままに書き続けます。

南直哉さんは語ります 『人が死んだら魂は、愛する者のところへ行く。』

2017年08月06日 19時08分39秒 | 日記
昨日は始発のJRに乗って、東別院(真宗大谷派名古屋別院)へ向かいました。
私は初めて聴くのですが、「暁天講座」と称して毎年8月1日から5日まで東別院で5日間の早朝講座が行われているのです。

開始は朝の6時15分、3時40分には起きて、家を出たのが4時40分。
途中からそぼふる雨もなんのその、最寄りのJR駅まで“けった”をこいで行きました。

6時を少し回ったころ、講演会場の本堂に着きました。
『早起きは「聴聞」の得』のキャッチフレーズに賛同する人が多いのでしょうね、本堂内には準備されてた椅子席(多分180席)はいうに及ばす、その前後両隣りにも人がびっしりと、400人から500人くらいでしょうか、大勢の人が集まっています。

昨日の講師は南直哉(みなみじきさい)さんで、講題は、『「魂」のゆくえ』です。
南さんは、福井県越前市霊泉寺のご住職であり、また青森県の霊場恐山菩提寺の院代(住職代理)でもあります。
私も愛読していますが、10日ごとに書いている南さんの「恐山あれこれ日記」は、人気のブログです。

さて、6時13分になりました。
東別院で修行中でしょうか、12人のお坊さんが、須弥壇の前に整列します。
導師の先導で、会場内全員で正信偈を同朋奉讃します。

次いで司会のお坊さんから、3つの連絡事項がありました。
『携帯は、電源を切るか、マナーモードにしてください。』
これは、一般的な注意ですが、次いで『講演が終わってから、パンと飲み物を配りますが、一人一つずつでお願いします。』
うん、なるほど。
そして、『講演者の話が終わった後で、拍手はしないでください。共に学んでいくという趣旨から、本尊に礼をし、お念仏をとなえてください。』
うんうん、なるほどなるほど。

さぁ、南さんの登壇です。
中央の須弥壇に向かい、ご本尊に深く一礼し、合掌をした後で、講演台に着きます。

開口一番『私は立派な話はしません。気楽に聴いてください。』、『ここに来る前は恐山に3、4日居て、東京で1つ仕事をした後、昨日名古屋に着いた。この後は福井の寺に行ってお盆を迎える。日本をしょっちゅう半周していて、“住所不定住職”と言われている。』と、にこやかな顔をして大きな声ではっきりと、まずは場を和らげます。

最初にお坊さんになった経緯です。
東京でサラリーマンをしていたが、25歳の冬に辞めたそうです。
祖父母、両親、伯父伯母、妹も教員といいますから実直な家庭環境だったのでしょうね。
会社を辞めたことを、家族にいつまでも黙っているわけにもいかず、大みそかに家に電話したら、出たのは親父さん。
『サラリーマンをやめたいと思っている。』と言ったら、『永平寺か?』と訊いた親父さんに『ウン』と答えてしまったのが、修行に入るきっかけとか。

永平寺では、鳥も起きていない3時半に起こされるが、20年間も続いたといいますから、水があったのでしょうね。

と、ここで、『恐山に行ったことのある人?』との南さんの問いかけに、会場の20人くらいが手を挙げます。
私もその中の一人ですが、南さんは更に『一生に一度は、行ってみるのがいい所だと思います。でも、二度以上行くのは趣味の人。』、うん、私は趣味の人になりました。

南さんは、恐山に始めて行ったのが15年程前、永平寺の貫主と一緒で、ちょうど恐山大祭(7月20日 ~ 7月24日)の夏なのですが、その年は大祭期間中20℃を超えた日がなく、毎日が霧の中だったそうです。
恐山大祭といえば、“イタコ”がすぐに思い浮かびますが、恐山菩提寺は“イタコ”とは何も関係がなく、昭和30年代から境内に集まってきたそうです。

死者の魂が“イタコ”の身に宿し、その言葉を伝えてくれますが、そういった魂が本当に恐山にいるのか、南さんは菩提寺の院代を奉ずるようになって2、3年経った頃に、夜な夜な境内を徘徊したそうですが、ついに魂には会えずじまいとか。
そんな南さんの姿を見たある人が、魂と勘違いしたことはあったそうですが。

『死後の霊、あるかないかは“答えない”ことが仏教の正式見解。』だと南さんは言います。
『世の中で霊があると語る人は、皆生きてる人で、死後の世界に行って実際に霊を見た人ではない。』
そうかといって『“霊は存在しない”とも言えない。なんとなれば、古今東西、霊をイメージしてない文化社会は1つもないから。』と。

『2011年の大震災で、日本中の誰もが感じた。』のは、『自然の地盤の不安定さ。そして社会基盤のしくみが実にいい加減である。』

『生きている意味、価値が“魂”である。』、では『魂は人が死んだらどこへ行くのか?』、『魂は、愛する者のところへ行く。』

『愛されること。人が亡くなった時に、本当に悲しんでくれる人が5人いれば、その人は素晴らしい人生を送った人。』

『人を赦すことは難しい。その人を赦すとは、赦す自分を赦すことであるから。』

『大きなリュックを背負い、両手に持った杖を頼りに今年もおばあちゃんは恐山にやってくる。リュックから1つずつ、パイナップルを出して、メロンを出して......。大きな声で“また今年も来たよう”。』
恐山の存在意義は、死者のいるところ。

南さんは、まだまだいっぱいお話しされましたが、いずれの話も歯切れがよく、強い目力と、口元の表情で聴く人の心をとらえ続けました。

( 本記事は、南さんのお話をもとに、私のメモ、記憶をたよりにまとめたものです。南さんのお話の趣旨に合わないところがあれば、私の不徳のいたすところです。 )

写真は、一昨年7月の恐山菩提寺です。
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