ジャン・メッツァンジェ
キュビスムにはアルルカンを扱った絵が多い。それは形を切り刻むような表現の中で、微妙に人間存在の裏にある虚偽を表現できるからだろう。
道化というのは難しい存在だ。下賤でありながら、王宮にも住んでいる。王侯貴族がそれを欲しがるからだ。
慰めとなる笑いを。つかの間、何かを忘れさせてくれる、犬のような馬鹿らしい人間が欲しいのだ。
貴族の教養を刺激する冗談を言いつつ、自分を犬のように下げてみなを笑わせてくれる。冗談の中にすべてをひっくり返してしまいたい現実を背負っている、馬鹿な王侯には、道化が時に必要らしい。
彼らは時に、道化のほうが自分より正しいのではないかとさえ思えるのだ。王子と乞食の様に、ときには自分を道化とすり替えたいとさえ思うのだ。なぜか。
本当は自分の方が道化だからだ。
嘘とずるで本当の王侯から自分を盗んだ、道化というものが自分の正体だからだ。
まつりごとなどできない魂が、王の人生を盗んでいる。ぼんくらなことしかできないことを側近に見抜かれて、冷ややかな目で見られていることに気付いている。その苦しさが、道化を必要とするのだ。
あれが本当の自分なのだと。
王侯に似た冠をつけ、派手な衣装を着て、こっけいな失敗をして、冗談で人の笑いをそそることしかできない馬鹿が、本当の自分なのだと。