今日の新聞記事では、北海道では改憲に反対が6割超とか。左系の道新記事の調査なので、当然反対が増えていることは自明であり、読売や産経が同じ調査をして、足して2で割った7くらいが正しい数値なんだと思います。
ここで、もう一度「憲法第9条」について考えてみましょうか。
<第九条>
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この9条は読み方で変わってきますね。だからこそ解釈というものが存在するのでしょうが、そもそも解釈というのが不思議です。そこがすでに苦しい言い訳のように聞こえてしまうのは私だけではないでしょう。
「武力の行使」を放棄するというのは、攻めることのみに該当するのか?守るときも該当するのか? 威嚇は攻めるときになると思いますので、これの放棄は納得がいきます。しかしながら、この憲法では守るときはどうなのか?が明文化されていません。「守るときは別」というのが解釈のうえで一般的となったと思いますが、この条文を読む限りでは、「攻守を問わず武力の行使は放棄」と読むのが自然だと個人的には思います。これが、2項の「戦力は保持しない」という部分に結び付いていくのだというのが自然な考え方だと思います。
だからこそ「自衛隊は憲法違反である」と発言する学者が多く存在するのでしょう。そしてそういった意見を抑え込むために「自衛の武力は別」という解釈が発生したのが流れなんだと思います。
この憲法が出来た昭和20年は、戦争が終わってすぐの頃です。ですから、この憲法の精神は十分に理解できるところです。しかしながら、朝鮮戦争の勃発による冷戦激化の中で自衛隊を持つこととなりました。本来ならばこの時点でこの論争は行い解決しておくべきだったと思います。が、敗戦後数年での改正は戦争の惨禍の記憶がまだ生々しい日本では不可能だったと思います。そこで「解釈」による運用が始まったのですね。
あれから70年近くが経過し、世界の情勢は大きく変化しました。今、現実的な視点で考えれば武力を保持しなければ他国からの侵略に備えることは不可能でしょう。それは中国、朝鮮、ロシアといった国々から日本を守るということになります。仮想敵国はその3国です。戦後すぐの頃とは他国の力も大きく変わっています。
昨今の議論は、不毛だと思います。非現実的な「理論」とか「理屈」の部分でのみ論議が行われており、拡大解釈の可能性から否定するような堂々巡りの論議が続いています。本来ならば解釈ではなく時代に即して憲法そのものを変えることが必要だと思います。ただ、ずっと平和だったこの国では、それはタブーとも言える話のようです。
西沙諸島をフィリピンから奪った中国は、アメリカ軍のフィリピン駐留が無くなってすぐに行動を起こし実効支配しました。アメリカの沖縄駐留が徐々に縮小していったら、南西諸島は確実に中国に実力行使されるというのは、普通に考えればあたりまえなのに、政治家は「中国の脅威をあおりすぎていませんか?」と平気で発言しています。ミサイルの発射を繰り返す朝鮮の挑発にも、同様に「あおりすぎ」と発言する政治家やマスコミ。嘆かわしいですがそれが今の日本の現実です。
そうは言っても再び戦争が起きることは避けなければいけません。パワーバランスを保つというのが、今の外交における現実的な路線であることは間違いないでしょう。それに即した現実的な憲法はぜひとも必要です。理想と現実のあまりにも酷い乖離。ここを是正していくための論議を政治家は活発にしてほしいです。
ここで、もう一度「憲法第9条」について考えてみましょうか。
<第九条>
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この9条は読み方で変わってきますね。だからこそ解釈というものが存在するのでしょうが、そもそも解釈というのが不思議です。そこがすでに苦しい言い訳のように聞こえてしまうのは私だけではないでしょう。
「武力の行使」を放棄するというのは、攻めることのみに該当するのか?守るときも該当するのか? 威嚇は攻めるときになると思いますので、これの放棄は納得がいきます。しかしながら、この憲法では守るときはどうなのか?が明文化されていません。「守るときは別」というのが解釈のうえで一般的となったと思いますが、この条文を読む限りでは、「攻守を問わず武力の行使は放棄」と読むのが自然だと個人的には思います。これが、2項の「戦力は保持しない」という部分に結び付いていくのだというのが自然な考え方だと思います。
だからこそ「自衛隊は憲法違反である」と発言する学者が多く存在するのでしょう。そしてそういった意見を抑え込むために「自衛の武力は別」という解釈が発生したのが流れなんだと思います。
この憲法が出来た昭和20年は、戦争が終わってすぐの頃です。ですから、この憲法の精神は十分に理解できるところです。しかしながら、朝鮮戦争の勃発による冷戦激化の中で自衛隊を持つこととなりました。本来ならばこの時点でこの論争は行い解決しておくべきだったと思います。が、敗戦後数年での改正は戦争の惨禍の記憶がまだ生々しい日本では不可能だったと思います。そこで「解釈」による運用が始まったのですね。
あれから70年近くが経過し、世界の情勢は大きく変化しました。今、現実的な視点で考えれば武力を保持しなければ他国からの侵略に備えることは不可能でしょう。それは中国、朝鮮、ロシアといった国々から日本を守るということになります。仮想敵国はその3国です。戦後すぐの頃とは他国の力も大きく変わっています。
昨今の議論は、不毛だと思います。非現実的な「理論」とか「理屈」の部分でのみ論議が行われており、拡大解釈の可能性から否定するような堂々巡りの論議が続いています。本来ならば解釈ではなく時代に即して憲法そのものを変えることが必要だと思います。ただ、ずっと平和だったこの国では、それはタブーとも言える話のようです。
西沙諸島をフィリピンから奪った中国は、アメリカ軍のフィリピン駐留が無くなってすぐに行動を起こし実効支配しました。アメリカの沖縄駐留が徐々に縮小していったら、南西諸島は確実に中国に実力行使されるというのは、普通に考えればあたりまえなのに、政治家は「中国の脅威をあおりすぎていませんか?」と平気で発言しています。ミサイルの発射を繰り返す朝鮮の挑発にも、同様に「あおりすぎ」と発言する政治家やマスコミ。嘆かわしいですがそれが今の日本の現実です。
そうは言っても再び戦争が起きることは避けなければいけません。パワーバランスを保つというのが、今の外交における現実的な路線であることは間違いないでしょう。それに即した現実的な憲法はぜひとも必要です。理想と現実のあまりにも酷い乖離。ここを是正していくための論議を政治家は活発にしてほしいです。