ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

第6回 マタイ福音書講釈

2014-05-12 08:28:25 | 聖研
第6回 マタイ福音書講釈 イエスと反イエス勢力との対立(11:2~12:50)

まえおき
11:02~11 降臨節第3主日
11:25~30 特定9

どういう理由か、主日のテキストにマタイ福音書12章から一つも選ばれていない。聖公会から「嫌われた章」というタイトルを付けたくなる。
12章は大きく分けて、5つの部分からなっている。
(1) 1節から14節まで、安息日問題
(2) 15節から21節まで、危険を避けるイエス
(3) 22節から33節まで、ベルゼブル論争について
(4) 33節から45節まで、イエスの批判者への批判の言葉
(5) 46節から50節まで、イエスの家族のこと
全体の流れとしてはイエスとイエスを抹殺しようとする勢力との対立ということでまとめられるであろう。

1. 安息日問題(1~14) 並行記事:マルコ2:23~3:6、ルカ6:1-11
対立の発端はイエスの弟子たちが安息日に麦畑で麦の穂を摘んで食べたということであり、その行為を批判したファリサイ派の人々とイエスとの対立である。それに対してイエスはダビデの故事を引き合いに出して反論する。マルコ福音書では祭司だけが食べることが許されている「供えのパン」を「飢え」という緊急事態により、ダビデと部下たちが食べたという判例に従って「緊急避難的行為」として許されるのだという。ここまではマタイはマルコの「理屈」をそのまま受け継いでいるが、マタイはそれをさらに一歩進めて、5節~7節を挿入する。「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならないという」律法の例外規定を取り上げている。この議論は非常に面白い。つまり安息日には働いてはならないという厳しい律法規定を、神殿で働いている祭司たちには許されるのだという規定があったのであろう。つまり法律というものは絶対的ではなくて、人間の都合によって「緊急避難的除外」や「例外規定」があるということを言っているのである。6節~7節は無意味な蛇足。その意味で、「人の子は安息日の主なのだ」と論じたのである。
そのことが直ちに具体的な問題として9節以下の所で取り上げられている。9節以下の所で興味深い点はマタイはマルコの「イエスは怒って」(3:5)を削除していることである。マルコはイエスの生々しい論争を、マタイは11節~12節の言葉を挿入して律法についての解釈論争にすり替えている。
この論争がファリサイ派の人々のイエスに対するテロを誘発する出来事となった。

2. 危険を避けるイエス(15~21) 並行記事:マルコ03:07~12、ルカ06:17~19
この部分はかなり複雑な構造になっている。基本的にはマルコの並行記事の引用ではあるが、かなり加筆変更している。
Mk7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った」。
Mk12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。
Mt15~16 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。
つまりマタイはマルコの殆どを省略し、ただ、そこを去ったということ、群衆がついてきたと言うこと、皆の病気の癒やしたこと、自分のことを誰にも言いふらさないようにと口止めしたことだけが取り上げられている。その上で、「それを知って」という言葉を書き加え、17節のイザヤの預言の言葉を引用している。これは確かに並行記事であるには違いないが、ほとんど何も平行していない。マルコだけを読んでいると、イエスのファリサイ派の連中がイエス殺害の計画をしているのを知ってか知らないのか、全く無頓着にますます、いろんな所に出かけ、多くの病人を癒やし、イエスの人気はますます上がっていったのだということを読まされる。しかも最後には悪霊までもがそのことに手を貸しているという印象である。だから悪霊に対して、もうこれ以上、宣伝するなと口止めをしている。
それに対してマタイの方はファリサイ派の連中がイエスを殺害しようとしていることを「知って」、逃げるようにしてその場を離れたが、それでもなお多くの群衆がイエスについてきたので、イエスは彼らの願いを聞いて病気を癒やしたが、そのことについてはあまり言いふらさないようにと言っているのである。つまりここでのイエスは危険を避けて逃げているという印象である。イエスはなぜ逃げるのか。という疑問が出てくる行動である。そういう疑問に応えるのが預言者イザヤの言葉の引用である。それ以外にこの文脈でのイザヤの引用は理解できない。従ってここでのイザヤの預言の19節の「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない」が鍵の言葉。
イザヤ書の言葉についてのマタイの引用の仕方についてはいろいろ問題があるが、それは専門家に任せておいて、ここではマタイはイザヤの預言を引用することによって、ここでの「争いを避けて逃げるイエス」とほとんど何も抵抗を見せずに十字架刑に処せられてイエスとを重ねているに違いない。マタイは大祭司カイアファの庭での裁判において何も語らないことを報告している(26:62)。ピラトの裁判でも何も語らない(27:12)。十字架上では「エリ・エリ・サバクタニ」(27:46)と叫んだだけである。つまりマタイは何も語らないイエスを強調している。そのイエスと、ここでのイエスとが完全に重なる。

ベルゼブル論争(22~37)  並行記事:マルコ03:22~30、ルカ11:14~23、12:10、
22節~23節はマルコにはないが、ルカ11:14とほぼ一致している。おそらくベルゼブル論争の発端を語るマルコとは別の伝承によるのであろう。「ダビデの子」はマタイ独自の挿入である。
22節冒頭の「そのとき」、どの時か不明。ともかくマタイの気持ちとしてはベルゼブル論争の発端を示す言葉である。マルコでは、論争の発端は、イエスがどこかの家に入る(「帰られると」は誤訳)と、またいつものようにそこに群集がまた集まって来たので、食事をする暇もない程であった。つまり、これがいつもの状況であった。そこに身内の者、おそらく家族がイエスの評判を聞いて「取り押さえに来た」。その評判とはイエスが「ベルゼブルに取り憑かれている(つまり、狂っている)」からだという。マルコではこれがベルゼブル論争の発端とされる。
ところがマタイでは先ず「悪霊に取り憑かれている人がイエスのもとに来て、癒やされた」という出来事があったとされる。つまり先ず出来事があり、その出来事の解釈としてベルゼブル論争が始まる。このことについてはマタイは既に9章32節で取り上げている。つまり資料的には9:34に続く「そのとき」であろう。この出来事を通して2つの解釈があった。
一つはイエスは「ダビデの子」つまりメシアであるから悪霊を追い出すことができたという解釈と、もう一つは悪霊に命令できるのは悪霊の頭に違いないからイエスは悪霊の頭ベルゼブルの力によって悪霊に憑かれた人間を癒やしたのだとする解釈である。論点は明白であるし、議論の展開も単純である。要するにどちらの立場に立つのかということで見方が異なるという種類の問題である。
25節以下32節まではイエスの反論である。この部分に関しては元になった資料が錯綜している。25節と28節はマルコ以外、29節はマルコからの引用。30節はマルコ以外、31節はマルコ、32節はマルコ以外。要するに、マタイはマルコ福音書とQ資料とを平行して見ながら自分の解釈を交えて、イエスの反論を書いている。
あなたたちの議論を受け入れたとして、要するに悪霊追放という悪霊世界においてマイナスになるような行為をベルゼブルがするのだろうかという点にある。それはそうとして、あなたたちの仲間も悪霊追放をしている者がいるが、彼らは「何の力」で行っているのかと問う。いわば、これによって勝負はついた。
そこから発展して28節で重要な発言がなされる。
「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。この言葉はマタイとルカとの共通の資料によるものと思われる。それで、この言葉をどう解釈するのか。いろいろと議論されている。そもそもイエスにまで遡ることができるロギオンなのか。あるいは初期の教会の思想を反映しているのか。なおルカにはこれに類似した会話も記録されている。「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20~21)。
この句について深遠な神学論を展開するのは危険である。文脈から考えるとファリサイ派の連中に対する一種の皮肉なのであって、「あなたたちの議論から言えば、私が悪霊ではなく神の霊によって悪霊を追放しているとするならば、もうここは神の霊が支配するに神の国ということになるよね」。29節はさらに強烈な皮肉のパンチを利かしている。だいたい誰かの家に強盗が入ってきたら、先ず最初にすることはその家で最も強い者を縛り上げるであろう。そうすれば、後はゆっくり仕事ができるからね。それでこの世で強い者とは一体誰だろうね。あんたたちだろう。神が今ここに来られたら先ず最初にあんたたちを縛り上げるだろう。ハハハ」という調子であろう。

30節~32節はベルゼブル論争というつまらない議論の結論である。30節の「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」という言葉は2つの異なる立場に鮮明に分けられる議論における結論的な言葉で、イエスを「ダビデの子」と見るか「ベルゼブルに属する者」と見るかという立場が問題なのだということである。31節はそれを受けて「私に対する敵対行為はいくらしてもいいが、その時に悪霊とか聖霊とかを引き合いに出すな」という警告であろう。なお、32節は31節とほぼ同じ内容の文章であるが、ルカは別の文脈で用いているので、これはおそらく独立したロギオンで、マタイがここで2つの独立したロギオンを並べたのであろう。

つまりここでの議論をまともな神学論争のネタにしても何も出てこないということである。

4. イエスに対する批判者への批判の言葉(33~45)
この部分には、4つのそれぞれ独立したロギオンが記録されている。ただし、36節~37節は平行記事が見られないのでマタイ独自の言葉かもしれない。
木と実(33、35) 並行記事:ルカ6:43~45
その木の良し悪しは結果でわかる。 
蝮の子らよ、34節はマタイ独自の言葉。
悪い人間からは悪い言葉しか出てこない。
自分の言葉に責任をもて(36~37)並行記事なし
自分の言葉によって裁かれる。
(d) ヨナの徴(38~41)  並行記事:ルカ11:29~30
悔い改めたら、変えられる。
(e) ソロモンにまさる者(42) 並行記事:ルカ11:31~32
学ぶべき相手がいる。
(f) 帰ってくる悪霊(43~45)  並行記事:ルカ11:24~26
悔い改めてもまた元に戻れば、以前よりも更に悪くなる。

5. イエスの家族(46~50)  並行記事:マルコ03:31~35、ルカ08:19~21
イエスの家族のことがここで挿入されている意味。マルコでははっきりしているが、マタイではその意味が不明瞭になっている。イエスの家族はイエスが「狂っている」と思っていたのである。マルコ3:21をマタイは削除してしまったので文脈の流れがわからなくなってしまった。マタイにはイエスの家族を悪者にはできない事情があったのであろう。マタイにおけるこの文脈はイエスを狂人とする立場と、ダビデの子とする立場との対立とを際立たせている。
49節、マタイは、マルコの「周りに座っている人々を見回して」を「弟子たちの方を指して」に書き改めている。

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