ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

原本ヨハネ福音書研究からの抜粋(20章)

2017-04-15 08:48:07 | 聖研
原本ヨハネ福音書言及より抜粋(復活)

シーン1 復活日の朝

<テキスト20:1~10>
語り手:安息日が終わった翌日の朝、つまり日曜日の朝、まだ夜も明けきらない暗いうちに、マグダラのマリアはイエスが葬られている墓に来ました。見ると、心配していた墓石は取り除かれ、墓穴がぽっかり開いています。それを見て驚いたマリアは直ぐにシモン・ペトロとイエスが愛していたもう一人の弟子の所に行き、報告しました。

マリア:イエス様の御遺体がなくなっています。どこに持って行かれたのか、分かりません。

語り手:それを聞いたペトロともう一人の弟子はすぐに墓を見に行きました。2人は一緒に走りましたが、もう一人の弟子の方がペトロよりも速く、墓場に着きました。彼は墓穴をのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見ましたが、中には入りませんでした。やっとたどり着いたシモン・ペトロが先に墓の中に入り、そこに亜麻布が置いてあるのを確認いたしました。また、御遺体の頭に被せていた手ぬぐいは亜麻布とは別の所にキッチンとたたまれて置いてあるのも確認しています。そこで、最初に墓に到着したもう一人の弟子も中に入って来ました。彼もその現場を見て信じました。それで2人の弟子たちは家に戻りました。

教会的編集者の挿入句:20:9

<以上>

ここにも「イエスが愛していたもう一人の弟子」が登場し重要な役割を担っている。彼の方がペトロより若く、墓場にはペトロよりも早く到着した。中を覗いたらしいが、墓には入らずペトロの到着を待った。墓に最初に入る特権をペトロに譲ったのであろう。墓の中に入ったペトロは現場を詳しく見てイエスの遺体がないことを確認する。ペトロに続いて入った弟子も同様に墓の内部を確認する。彼は確認しただけではなく「信じた」という。彼は何を「信じた」のだろうか。遺体がないことを信じるのもおかしい話で、これを読む読者には彼がイエスの復活を信じたのだということは理解出来る。ペトロは現場を見て、それをそのまま確認しただけであるがもう一人の弟子はペトロと同じものを見て、イエスの復活を信じたのだという。

シーン2 マグダラのマリアへの顕現

<テキスト20:11~18>
語り手:一人残されたマグダラのマリアは、どうしたらいいのか分からずぼんやりと墓穴の入口で立ち、泣いていました。泣きながら、ふと墓の中を覗きました。すると、そこに、彼女は見たのです。白衣を着た2人の天使が座っているのを、一人はイエスの遺体が置かれていた頭の所に、もう一人は足の所に見たのです。

天使:ご婦人よ、あなたは何故泣いているのですか。
マリア:私の大切な先生のご遺体がありません。どこに持ち去れたのか私には分からないのです。

語り手:こう言って、後ろに何か気配を感じ、ふり向きますと、そこにイエスが立っていました。しかしマリアはそれがイエスだと気がつかなかったようです。
 
イエス:女よ、 何故泣いているのですか。誰を探しているのですか。

語り手:それでもマリアはそれが園丁だと思って、その人に言います。

マリア:ご主人、もしもあなたが彼のご遺体をどこかに持って行かれたのでしたら、どこに置かれたのか仰ってください。私が引き取りますので。
イエス:マリア。

語り手:その声を聞き、マリアはハッとして振り返り、へブライ語で叫びました。

マリア:ラボニ!(編集者註:これは「先生」という意味です)。

語り手:こういう経験をしたマリアは直ちに弟子たちの所に帰り、弟子たちに「私は主を見ました」と語り、その時、主が話されたことを報告いたしました。

教会的編集者の挿入句:20:17

<以上>

この場面、復活したイエスがマグダラのマリアに単独で顕現した物語である。四福音書を通じて墓場で顕現した物語はこれだけである。しかも一人の女性に単独で。マタイ福音書では天使からイエスが復活したことを告げられた3人の女性たち(マグダラのマリアと他のマリア)が「急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」。その途中でイエスが現れ「平安あれ」と語ったという記事がある。その時、彼女たちはイエスに近寄り「イエスのみ足を抱いて拝した」(Mt.28:9)。よく似た出来事であるが、ヨハネの方が叙述がかなりリアルである。もし、この記事が本当だとしたら、復活したイエスが最初に顕現したのはマグダラのマリアということになる。

シーン3 11弟子たちへのイエスの顕現

ここでは原本に教会的編集者の手がかなり加えられており、物語が錯綜している。

<テキスト20:24~29>
語り手:11人の弟子たちはマリアの報告を受けましたが、双子と呼ばれているトマスは、その人の手に釘の痕を見なければ、私は信じない、と言いました。その8日後、トマスを含む11人の弟子たちが集まっているところに、イエスが現れて弟子たちの真ん中に立って語られました。

イエス:平安、汝らにあれ。

語り手:それからトマスの方を向き、手を差し出して言われました。

イエス:私の手を見なさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。
トマス:先生、信じます。
イエス:あなたは私の身体に残った徴を見て信じました。見ないで信じる者が幸いなのです。

教会的編集者の挿入句:20:19~23、20:24~27の大部分、20:30~31

<以上>

田川建三によると、シーン3が原本ヨハネ福音書と教会的編集者の編集の手が入った現行のヨハネ福音書との違いが最も明瞭に出てくる部分である。現行では19節からこのシーンは始まり29節で終わる。30~31節はこの福音書全体の締め括りである。19節から29節の11節の内の19節から23節、24節から27節の大部分が教会的編集者の挿入だと見なされている。ここまでの厳密な分析、ほとんど高度な解剖のような作業がなされる。12頁に及ぶ専門的な分析を、ここに再録することは、私には荷が重すぎる。(参照:田川建三『新約聖書〜〜訳と註〜〜』の718頁から730頁まで)。
それらをすべて除くと、上のような物語となる。
物語は11人の弟子全部が揃っているところに、マリアが「私は主を見ました」という報告(経験)を聞いたところから始まる。その時、他の10人の弟子たちはマリアの言葉を信じるが、トマスだけは信じない。そしてトマスは言う。「その人の手に釘の痕を見なければ、私は信じない」。それから8日後、復活したイエスが11人の弟子たちの前に姿を現し、「平安、汝らにあれ」と声をかけ、特にトマスに対しては手を差し出して「私の手を見なさい」と声をかける。そして声も出ないトマスに対して、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言う。トマスは恐縮し「先生、信じます」と答える。そのトマスに対してイエスは「あなたは私の身体に残った徴を見て信じました。見ないで信じる者が幸いなのです」(Jh.20:29)と言う。
これが復活したイエスが11人の弟子たちに顕現した時の出来事であろうと思われる。田川建三は「見ないで信じる者が幸いなのです」という言葉こそが原本ヨハネ福音書の結びの言葉であり、結論であるという。

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