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原本ヨハネ福音書研究付録3「復活物語」

2017-04-16 08:33:58 | 聖研
原本ヨハネ福音書研究付録3「復活物語」

復活物語
(ヨハネ福音書21章)

1.ヨハネ21章について
ヨハネ福音書は20:30~31に「本書の目的」が次のように記されている。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。この言葉に21章の結びの言葉(24~25節)「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」をつなぐとより完璧な結びの言葉となる。従って、21:1~23は一旦完成したヨハネ福音書に付加されたものであろう。その意味ではこの部分はかなり独立性が高い。

2.これを付加した人物が誰か
問題はヨハネ福音書本体を編集したいわゆる教会的編集者と同一人物かどうかということが問われる。その問いに対する直接的な確証は得られない。ただ、言葉遣いや内容から著者は別であろうと想像される。著者が別人物だとするもっとも確実な証拠は文体、使用単語であろうが、前者についてはかなり専門的な知識が要求されるが使用単語については丁寧に見ていくと明らかになる。
20章まででは使われなくて、21章でだけで使われている単語の主なものは以下の通りである。「漁をする」(3)、「網」(6,8)、「裸」(7)、「朝食を取る」(12)、「帯する」(18)、「年を取る」(18)で、これらについてはたまたまその単語を使用する必要がなかったからであるという説明も付く。
次の8単語については、かなり執筆者の特徴を示している。
(a)「ゼベダイの子ら」(2)
松村克己はヨハネ福音書本体と21章の著者が異なることの証拠として、この表現を取り上げている。これはただ単にこの表現が20章までには出てこないというだけではなく、「ゼベダイの子」つまり「ヤコブとヨハネ」を示すと思われるが、彼らについてはほとんど無視されている。ただ、ヨハネに関しては「イエスの愛されている弟子」という曖昧な表現で登場するだけである。
(b)「岸辺」(4)
マタイ福音書や使徒言行録では用いられているが、ヨハネ1~20章では、湖についての記述はあるのに「岸辺」はいちども用いられていない。
(c)「子らよ」(5)
弟子たちに向かってイエスが「子らよ」と呼びかけるのは、ヨハネの手紙では多用されているが、ヨハネ福音書本体にはない。
(d)「おかず(プロスファギオン)」(5)
これは主食にそえる「ちょっとしたもの」を意味する。通常は「魚」を意味する。しかし著者があえて「魚」という言葉を用いずこの言葉を用いているので「おかずになるような魚」と訳した。新共同訳や口語訳では「何か食べ物はあるか」と訳しているがそれは明らかに誤訳。そうするとそこに既にパンがあることが無視されてしまう。この語は新約聖書全体でもここだけで用いられている単語である。
(e)「上着」(7)
新約聖書全体でもここだけで用いられている。「着る」という動詞に「上に(エピ)」という前頭詞を付けた言葉。それが具体的にはどういうものを意味するのかは不明。
(f)「小羊(アルニオン)」(15)
21章の著者が20章までの著者と異なる決定的な根拠。20章まででは小羊は「アムノス」(1:29,36)で21章では「アルニオン」。アルニオンは黙示録で多用されている。
(g)「飼う(ボスコー)」(15)
羊を飼うという場合、この単語使っているのはここだけ。
(h)「牧する(ポイナイオー)」(16)
これもボスコーと同様、ここだけ。

3.何のために書かれたか。
松村克己は21章の執筆目的について次のように述べている。
「ヨハネ福音書の成立は小アジヤの中心地エペソ辺りだと考えられているが、2世紀を通じてローマ教会の指導権が徐々に強化されて行った。ヨハネの指導下にあった教会で読まれていたこの福音書がローマの教会の人々にも読まれ親しまれるようになった時、この福音書の叙述がペテロの権威、使徒団の筆頭としての地位に対して否定的であることを訂正しようとする意図が感じられる。この福音書が、ペテロを重んじるローマの教会の流れに従う人々の群れに対する配慮としてこの部分が付加されたのではないだろうか」。
確かに福音書本体では、ペトロについてほとんど無視されている。イエスが逮捕される場面では、剣を振り回してイエスを守ろうとしているが、それもイエスからはたしなめられている(18:10~11)。また18:15~27ではイエスを否認したペトロの姿がクローズアップされている。
ところが21章では明らかにペトロの立場が強調されている。

4.講釈:大漁物語 (1~14) について

ルカ福音書の5:1~12にもこの物語とよく似た大漁物語がある。シモン・ペトロの弟子入りの切っ掛けとなった物語である。これらを比較すると類似点が実に多い。場所は「ゲネサレト湖畔」と「ティベリアス湖畔」で共にガリラヤ湖の別名である(jh.6:1)。ガリラヤ湖が「ティベリアス湖」と呼ばれるようになったのは、ヘロデ・アンティパス王がローマ皇帝ティベリゥス(Tiberius、在位14~37)のご機嫌を取るためにガリラヤ湖西岸の風光明媚な場所にヘレニズム風の豪壮な別荘都市を建造し、その町を皇帝の名前をとって「ティベリアス」と呼んだことによる(紀元26~27)とされる。建てられた頃はユダヤ教正統派の人々はこの町を不浄の町として近づかなかったが、後にヘレニズム文化の中心都市となった。2世紀以後はユダヤ教における主要なセクトがここに形成されるようになった。この名称が見られるのはヨハネ福音書だけで6:1、6:23にも見られる。おそらくこの大漁物語はガリラヤ地方に流布していたイエスのエピソードの一つであり、ルカはそれをペトロの弟子入りの切っ掛けの物語に仕上げ、ヨハネは復活のイエスの顕現物語に仕上げたのであろう。どちらが本来のものであったのかということについてはもはや知ることはできない。いずれにせよ、この物語がペトロの生き方の大転換を示すエピソードであることは興味深い。ルカが福音書を書いたのが紀元80年代頃で、ヨハネ福音書の原本(仮説)は60年代、現在の形のヨハネ福音書は90年代から2世紀の初め頃の成立だとすると21章はそれ以後だと思われる。その間にガリラヤ湖についての名称を含めその他この物語の細部に口伝特有の変化が見られる。
たとえば、ペトロが「主だ」という叫び声に反応して「上着をまとって湖に飛び込んだ」という叙述もユーモラスであるがどうでもいいことである。どこかの話し上手の脚色かもしれない。あるいは、取った魚の数についても「153」という数字はいかにも何か(神学的な解説)がありそうな感じがする。松村克己先生は「4世紀のヒエロニムスによると、ギリシャの博物学者は魚の種類を153と数えたという。また、それほど多くとれたのに、網は破れていなかった」という注釈について「カトリック教会では、福音の網はあらゆる人々(民族)を集め、しかも網は裂けず、一つとなっていることを象徴的に示すものだと解釈している」と説明している。
この問題について立教大学の聖書学の秋吉教授が面白い解釈を紹介している。「これはアグスチヌスの解釈であるが」とことわった上、「153」という数字は1から17までを足した数字であり、「17」という数字は十戒の「10」にイエスの福音を完全なものとする完全数「7」という数字をあてはめているという。つまり、ユダヤ教の律法に打ち勝つイエスの福音がここに実現したのだという隠喩である(池澤夏樹『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』118頁)。こういうことを考える伝統がユダヤにはあり、それを数秘術(numerology)という。また、「舟の右側に」という細かいことも、なぜ「左」ではいけないのか、伝承の過程において語り手に何らなの意味づけがあったのであろうが、現在ではその理由は分からなくなっている。ともかく、この物語は多くの人々の口を通して、語り継がれていくうちにいろいろな要素が吸収されたのであろう。

<以下テキスト>(1~14)
語り手:その後、イエスはティベリァスの湖畔で弟子たちの前に姿を現されました。その次第は次のようなことでした。(1)
エルサレムでの出来事の後、弟子たちは郷里ガリラヤに逃げ帰っておりましたが、彼らの内、シモン・ペテロと、双子と呼ばれるトマスと、ガリラヤのカナ出身のナタナエルと、ゼべダイの息子たちの他に2人の弟子たちも加わって、7人が意気消沈して一緒に過ごしていました。(2)
そんなある日のこと、年長のシモン・ペトロはこのままでは、みんな駄目になると思い、他の弟子たちに声をかけました。 (3)

ペトロ:漁にでも行こうか。
6人の弟子たち:そうですね、このままではどうにもならいし、俺たちも一緒に行こうかな。(3)

語り手:彼らはティベリアス湖に出かけ、舟に乗って漁を始めました。彼らにとってはよく知った湖でしたが、どうしたことかその夜には何の収穫もありませんでした。空が白み初め、辺りがだんだんと明るくなってきました。(3)
その時、イエスの姿が岸辺に見えましたが、もちろん弟子たちはイエスだとは気が付きませんでした。その時、その人物が彼らに声をかけました。 (4)

イエス:どうだい、何かおかずになるような魚は獲れたかい。
弟子たち:(ぶっきらぼうに)いいや。(5)
イエス:それじゃ、舟の右側に網を打ってごらん。きっと、何か獲れるよ。 (6)

語り手:舟の上の弟子たちは、一晩かかっても獲れなかった魚が今さら獲れるはずがないと思いながらも、ともかく、網を打ちました。ところが、驚くべきことに沢山の魚が獲れたのです。あまりにも大漁で網を引き揚げることもできない程でした。その時、イエスが愛したと言われているあの弟子がペトロに呟きました。(7)

あの弟子:主だ。(7)

語り手:それでシモン・ペトロは、主であると聞き、裸だったので、上着をまとい、海に身を投げた。他の弟子たちは、陸から遠くはなく、10メートル(20キュペス)ほどしか離れていなかったので、小舟で魚の網を引っ張って来ました。(8)
それで彼らが陸にあがってみると、炭火がおこしてあり、おかず(の魚)がその上にあって、またパンもありました。イエスは弟子たちに語りかけました。(9)

イエス:あなた方が今取ったおかず(の魚)を少し持っていらっしゃい。(10)

語り手:それで陸に上がっていたペトロも手伝って、魚でいっぱいになった網を陸に引き揚げました。数えてみると153尾もありました。しかも、これ程の大漁にもかかわらず網は裂け手いませんでした。(11)

イエス:さあ、朝飯にしよう。(12)

語り手:弟子たちは誰も、「あなたはどなたですか」などと訊ねる者はいませんでした。彼が 主であるということを疑うものはいませんでした。(12)
イエスはパンを取り上げ、弟子たちに与えました。そしておかず(の魚)も同じ様にしました。(13)
これは、イエスが死人のうちから甦って弟子たちに顕れた三度目のことでした。(14)

<以上>

(1) イエスの十字架刑当時、弟子たちは逃げてガリラヤの地に戻った(と、思われる)(jh.16:32、mt.26:31~32)。そして興奮も冷めてガリラヤ湖において以前の漁師に戻ったのであろう。
(2) 2節にはその時一緒に漁に出かけた弟子たちのリストがある。「シモン・ペテロと、双子と呼ばれるトマスと、ガリラヤのカナ出身のナタナエルと、ゼべダイの息子たちの他に2人の弟子たち」で7人である。共観福音書は「ゼベダイの息子たちがヤコブとヨハネ」であると述べている。このリストの中にペトロの弟アンデレの名前が見当たらないのが不思議である。また彼らと同郷のピリポの名前がないのも不思議である。おそらく、匿名の弟子2人は彼らではないかと推測される。この出来事が何時のことかにもよるが、殉死したとも考えられる。
それにしてもヨハネ福音書もまた21章でも「ゼベダイの息子たち」の名前を徹底的に明らかにしないのは興味深い。なお、共観福音書では2人の名前を挙げるとき常に「ヤコブとその兄弟ヨハネ」(mk.3:17)というようにヤコブの名前を挙げているところを見ると、ヤコブの方が年長だったのではないだろうか。
(3) その日は一晩中網を打ったがまったく不漁であった。疲れた切っていたとき、岸から見知らぬ人物から「船の右側に網を打ってご覧」と声をかけられ、その通りにすると沈みそうになる程の大漁であった。その人物をヨハネは「主だ」という。その声を聞くやペトロは慌てて湖に飛び込んだ。その場面で笑ってしまうのは「裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」という。ペトロが湖に飛び込んだ理由が分からない。少しでも早くイエスの所に行きたかったというわけでもなさそうだ。そのことについて著者は何も語らない。だから読者としては勝手に想像するしかない。おそらくペトロはまともにイエスの顔を見ることが出来なかったのかも知れない。思い返せばペトロがイエスの弟子かと問われたとき、「知らない」といってイエスを見捨てた。だから、今さらすました顔で、何事もなかったように、「お元気ですか」などと挨拶するわけにもいかない。おそらく穴があったらそこに潜り込みたい心境だと思われる。それが上着を着て湖に飛び込むという異様な行動になったのかも知れない。陸に上がってもすぐにはイエスの所に行っていないようだ。むしろイエスから「今取ったおかず(の魚)を少し持っていらっしゃい」(10)という他の弟子たちに対する声を聞いてから、ペトロは船に乗り込んで、網を引き上げるのを手伝っている。端から見ていて実におかしい。他の弟子たちもイエスに向かって「あなたはどなたですか」と訊ねる者もいない。むしろ、その気まずい沈黙を破るように、イエスは「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と声をかける。気まずい思いで一緒に食事をする風景は以前にもあった(jh.4:27~33)。ともあれ、ここではイエスが準備した食べ物に弟子たちが獲ってきた魚を交えて、それを囲んで食事をした。

5.気まずい食事の後で

<以下、テキスト>(15~19)
語り手:食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに声をおかけになりました。(15)

イエス:ヨハネの子シモン、あなたは私をこの者たちよりも愛するか。
ペトロ:はい、主よ、私があなたを愛しているということは、御存じのことです。
イエス:私の小羊を飼え。(15)

イエス:ヨハネの子シモン、あなたは私を愛するか。
ペトロ:はい、主よ、私があなたを愛しているということは、御存じのことです。
イエス:私の羊を牧せ。(16)

イエス:ヨハネの子シモン、あなたは私を愛するか。
ペトロ:(彼は自分に三度も「私を愛するか」と言われたので、困惑した。) 主よ、あなたはすべてを御存じです。私があなたを愛しているということは、あなたはわかっておいでです。
イエス:私の羊を飼え。(17)

イエス:アメーン、アメーン、汝に告ぐ、あなたが若かった頃は自分で自分に帯をして、自分の欲するところを歩いていた。しかし年を取ると、自分の手を伸ばして、他の者があなたに帯をし、自分が行きたくないところに連れて行くだろう。 (18)

語り手:イエスはペトロがいかなる死をして神に栄光を帰するかを示したのである。そしてこう言ってから、ペトロに言った。

イエス:私について来なさい。(19)

<以上>

<この段落を通常の会話体にしてしまうと、微妙な表現が壊れてしまうので、セリフはほとんど田川訳のままにしておいた。>
イエスも、弟子たちも、ほとんど言葉を交わさずに、気まずい食事も終わった。この沈黙を破ったのはイエスであった。食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに声をかけた。ここで著者はわざわざペトロをフルネームでいう。イエスもペトロにフルネームで呼びかける、「ヨハネの子シモン」(jh.1:42)。この言葉を聞いたときペトロはどんな気持ちだったであろう。さぁ、いよいよ来た。名前を呼ばれるだけでペトロは縮み上がったかも知れない。胸はたかなり、心臓ががくがくしたかも知れない。おそらくイエスの声は静かに、ペトロの心に問いかけるように、「ヨハネの子シモン、あなたは私をこの者たちよりも愛するか」。この言葉の意味は、ペトロが仲間を愛するか、私を愛するかという問いである。
イエスは彼らがこうして同じ船に乗って漁をしているというだけで、ペトロがどれ程彼らを愛しているのか、一目瞭然であった。というよりも、それは共にイエスに従ったという仲間への愛と責任であったであろう。落ち込んでいる彼らをほっておけない。従って、イエスに「彼ら以上にわたしを愛しているか」という言葉は意味慎重である。この場面で、ある意味で、彼らを棄ててでも私を愛しているのか、という問いでもある。あの時、あなたは私を棄てて、彼らと共に逃げ出した。ある意味で、ペトロはイエスを棄てて彼らを愛したのである。この問いの前に、ますます身を縮めて、声にもならない声で「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」。ハッキリ自分の言葉で「あなたを愛している」と言えない。この言葉は、自分の気持ちを完全に「あなた」に任せている。その時、それに応えるように「私の小羊を飼え」とイエスは言われた。これはあなたがあの時、彼らと一緒に逃げたことを承認する言葉である。いわば「事後承認」である。言葉を換えていうと、「それで良かったのだよ」。この言葉によってペトロの気持ちがどれ程解放されたことであろう。
イエスの言葉はそれだけで終わらなかった。
再び、前と同じ言葉で「ヨハネの子シモン、あなたは私を愛するか」。この問いには「この者たちよりも」という比較の言葉がない。いわばストレートである。イエスとペトロとの間に、責任感とか今までの行きがかりとか、損得とかいうものを一切挟まないで、「私を愛するか」。この問いに対してもペトロは前と同じ言葉で答えている。ペトロには「私は愛する」という「私」に対する自信がない。人間の決意とか愛というものの儚さを誰よりも知っているのがペトロである。あの時には、実に勇ましく、「私は自分の生命をあなたのために捧げる覚悟です」(jh.13:37)と言い切ったのである。その時のイエスの言葉をペトロは生涯忘れない。「あなたはあなたの生命を私のために棒げると言われるのですか。それはありがたいことですが、本当のことを言うと、あなたは鶏が鳴く前に私を知らないと三度も言うことになるでしょう」。そして、それはその通りになったのだった。この時ペトロはその一連の出来事を思い起こしていたに違いない。これに対してイエスは「私の羊を牧せ」と応えられた。同じような返事ではあるが微妙なところで違う。最初の言葉は「小羊(アルニオン)」であったが、ここでは「羊(プロバトン)」である。「小羊」と「羊」、どう違うのか、ハッキリその違いを解説することは出来ない。むしろ、「飼へ」と「牧せ」との違いの方が重要であろう。カトリックの小林稔は前者を「世話をしなさい」、後者を「牧しなさい」と訳し分けている。まぁ、それぞれが自由に想像したらいいのであろう。
さらにイエスは問いかける。「ヨハネの子シモン、あなたは私を愛するか」。三度とも同じ質問に思えるが、三度目は少し違う。ここで用いられている「愛」は「フィレオー」で前の2回は「アガペー」で、ペトロの方の答えは、3回とも「フィレオー」である。田川建三はここではこの2つの単語はまったく同義語として用いられているという。しかし、小林稔は「アガペー」を「愛している」、フィレオーを「ほれこんでいる」と訳し分けている。しかし、結局訳し分けてもあまり意味はなさそうである。むしろペトロの方が三度も同じ質問をされたことで「悲しくなった」という。この言葉を口語訳、新改訳では「心をいためて」、文語訳では「憂うと訳している。田川建三は「困惑した」、小林訳では「悲しくなった」という。つまり、師であるイエスから二度も同じ質問をされて、それに誠実に応えているのに、さらに三度も質問され、どう答えたらいいのか、私の答えが不十分なのか、もうそれ以上答えようがない。さすがのペトロも「うんざり」してしまったのであろう。それでも、ペトロはなおも誠実に「 主よ、あなたはすべてを御存じです。私があなたを愛しているということは、あなたはわかっておいでです」と答えている。言葉は悪いがペトロは「自棄のやん八」という心理状況であったのであろう。私も考える。どういう意味であろう。多くの注解者はこれはペトロが3回イエスを「知らない」と言ったことに対応していると解釈しているが、私はそんなことではないと思う。もしそうだとすると、イエスはペトロに対して一種の「仕返し」をしていることになるではないか。イエスとペトロの間で、問い、答える関係は無用である、とペトロは言う。「あなたはすべてをご存じです」という言葉がそれを示す。もう、問い、答える関係は必要ない。ペトロは「すべてをご存じ」の方の前に完全降伏をしている。
ここからは私の独断的解釈である。初めの「私の小羊を飼え」と最後の「私の羊を飼え」とは同じ「飼え」という言葉が用いられている。しかし「飼え」の深みが違うのではないか。「飼う」という言葉は同時に「世話をする」という意味でもある。初めの方の「世話をする」をおそらくペトロは「私が」この人たちの世話をするという風に受け止めたのだと思う。私の責任として、イエスの小羊たちの世話をする。しかし最後の「世話する」においては「私」がなくなっている。私は完全に主に克服されている「私」であり、それは「無私の私」である。ただ主に対する無としての私、主の下僕、道具としての私である。イエスはペトロをそこ迄追い込んだ上で「私の羊を飼え」と言われている。
18~19節では、ペトロの死に方についての意味深長な言葉が語られる。そこに見られるペトロの姿は完全に無力化されたペトロの姿である。しかし、完全に無力化されたペトロが神の栄光を現す。そこまで話した上で、ペトロに対して「私について来なさい」(mk.1:17、mt.4:19)と若き日のペトロに呼びかけられた、あの言葉が繰り返される。これはただ単なる繰り返しではない。極限を究めた「付いて来なさい」である。「付いていくしかない」私への「付いてきなさい」である。
あの時、最後の晩餐の席でユダが部屋から出て行ったとき、イエスは「今や人の子は栄光を受け、神も人の子も崇められるときが来ました」と宣言された。その時、ペトロは「先生、あなたはどこに行かれるのですか」と言い、イエスから「私が行く所に、今はあなたは付いて来ることができません。いずれにしても、何時の日か、あなたは付いて来ることになるでしょうが」(13:33)と言われた。その時、ペトロは死ぬ覚悟だとまで言い切りましたが、事実、ペトロはイエスを否認し、「付いていかなかった」。ここで「私に付いて来なさい」が実現した。完全に無になったペトロが初めてイエスに付いていくことができる。

6.最後のエピソード

<以下テキスト>
語り手:ペトロは後ろをふり返り、そこに立っていたイエスが愛していたあの弟子を見ました。彼は晩餐の時にイエスの胸に寄りかかって、「主よ、あなたを引き渡す者とは誰ですか」と言った者です。(20)
それでペトロは彼を見つめながらイエスに尋ねました。(21)

ペトロ:主よ、彼はどうなるのでしょうか。(21)
イエス:もしも私が再び来るまで彼が生きていて欲しいとしても、それがあなたにどういう関係があるのですか。あなたは私について来ればよい。(22)

語り手:それで、この弟子は死ぬことがないといううわさが兄弟たちの間で広まりましたが、イエスがペトロに言われたことは、彼は死なないということではありませんでした。ただ、もしも私が再び来るまで彼が生きていて欲しいとしても、それがあなたにどういう関係があるのですか、と言わたのです。(23)
実は、彼こそがこれらのことについて証言し、それを書いた弟子です。そして私たちは彼の証言が真実であると知っています。(24)
イエスがなしたことは他にも沢山ありますが、もしもそれが一つずつ書かれるとしたら、世界さえもそれが書かれる(多数の)本を中に入れることができないだろうと思われます。(25)

<以上>

(1) イエスが愛していたあの弟子
この最後のエピソードの主人公はこの弟子である。にもかかわらず、著者はここでもまだ、この弟子の正体を語ろうとしない。
(2) 「彼はどうなるのでしょうか」
ペトロは「彼」のことを気にしている。これはただ心配しているのではない。今、ペトロはイエスから「イエスの羊を飼う」という大変な使命を託された。ペトロはこれまでの経過からみて、「彼」がイエスの信頼をもっとも受けており、この使命を受けるに最も相応しいのは「彼」であると思っていたに違いない。だから、ペトロは「彼」のことが気になった。
(3) 「もしも私が再び来るまで彼が生きていて欲しいとしても、それがあなたにどういう関係があるのですか。あなたは私について来ればよい」。要するに「あなたはあなた」、「彼は彼」であるが、それもイエス自身の意志というよりも、父なる神の意志である、という。
(4) 「この弟子は死ぬことがないといううわさ」
「彼」は決して無名ではない。うわさにされるほどの有名人である。おそらく、このエピソードは、ペトロの死後に広まったものと思われる。その時、少なくとも「彼」は生きている。ただ、これがうわさになるということは、一種の行方不明状態ではなかっただろうか。
何の根拠もない妄想に近い推測であるが、著者は「彼」にパトモス島に幽閉され、そこで幻を見たとされるヨハネ黙示録の「僕ヨハネ」(rev.1:1,9)を想定していたのかも知れない。
(5) 「実は、彼こそがこれらのことについて証言し、それを書いた弟子です」。
彼が書いたとされる「証言集」がヨハネ福音書全体であろう。ヨハネ福音書の背景となった教会がが小アジアの中心地エフェソの教会を中心にしているとしたら、エルサレムからローマへと展開し、ギリシャ半島を飛び越したいわゆる「正統派」キリスト教に対して、こちらこそ正統派であるという自負を持ち、独自の神学形成をしたのであろう。それが原本ヨハネ福音書を継承した、いわゆる「ヨハネ教団」であろう。この集団の流れが後の東方教会の源流になったと想像することには無理があるであろうか。

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