ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

親爺のこと(5) 美的生活を論ず

2008-05-10 15:15:56 | ぶんやんち
正直なところ、親爺と樗牛との関係を考えながら、樗牛の作品をいろいろ渉猟していて「美的生活を論ず」という作品を発見したとき、何かしらゾクッといたしました。直観というか、ヒョッとするとこれかも知れない、と思ったのです。早速、ネットで探し、幸い青空文庫に収録されていたので(http://www.aozora.gr.jp/cards/000271/card4603.html)、手に入れ、読み始めましたが、何しろ明治時代の格調高い名文です。そんなに簡単に読めるわけがありません。でも、何回か繰り返し読んでいるうちに、おぼろげながら、主旨は読み取れるようになりました。その結果、やっぱり親爺の生き方の土台にある思想はこれだと確信いたしました。細かい分析は、後日改めてするといたしまして、とりあえず、この作品の主旨を紹介しておきます。

この論文は、「人生の至樂(目的)とは何か」ということを主題し、その結論として「本能満足説」の立場から、「美的生活」こそ、人生の目的であると論じています。「美的生活」といいますと少し堅苦しいがく感じますが、要するに「美しい生活」という意味です。結論を先取りしますと、マタイ福音書の6章24節以下に記されているイエスの生き方こそ、「美しい生活」のモデルである、ということです。
わたしにとって、非常に驚いたことは、その序言です。短い文章であり、著者の文体に触れていただくためにも、序言の全文を原文のまま引用しておきます。
「古の人曰へらく、人は神と財とに兼ね事ふること能はず。されば生命の爲に何を食ひ、何を飮み、また身體の爲に何を衣むと思ひ勞らふ勿れ。生命は糧よりも優り、身體は衣よりも優りたるものならずやと。人若し吾人の言をなすに先だちて、美的生活とは何ぞやと問はば、吾人答へて曰はむ、糧と衣よりも優りたる生命と身體とに事ふもの是れ也と」。
前半の文章は明らかにマタイ福音書6章24節以下の引用です。この文章が、この論文の全体を引っ張る牽引力になっています。著者は、この論文の中心部でも、美的生活の要点として、ふたたび、マタイ福音書を引用しています。
「古の人曰へらく、野に咲ける玉簪花を見よ、勞かず紡がざれども、げにソロモンが榮華の極みだにも其の裝ひ是の花の一に及ばざりきと」。
これが著者の考える美しさの極地です。著者は、この文章を引用した上で、「あゝ玉簪花、以て彼等の行爲の美しきにも喩へむ乎」と賛美しています。この視点に立って、忠孝の倫理や哲学的論理の探求などの価値を「絶対的なものではない」として批判いたします。結びの文章も明解である。
「嗚呼、憫むべきは餓えたる人に非ずして、麺包の外に糧なき人のみ。人性本然の要求の滿足せられたるところ、其處には、乞食の生活にも帝王の羨むべき樂地ありて存する也。悲むべきは貧しき人に非ずして、富貴の外に價値を解せざる人のみ。吾人は戀愛を解せずして死する人の生命に、多くの價値あるを信ずる能はざる也。傷むべきは、生命を思はずして糧を思ひ、身體を憂へずして衣を憂ふる人のみ。彼は生れて其の爲すべきことを知らざる也。今や世事日に日に劇を加へて人は沈思に遑なし、然れども貧しき者よ、憂ふる勿れ。望みを失へるものよ、悲む勿れ。王國は常に爾の胸に在り、而して爾をして是の福音を解せしむるものは、美的生活是れ也」。
この論文を発表した翌年に病気のため帰らぬ人となりました。

一言付け加えておきますと、樗牛はキリスト者ではありません。イエスの言葉にしても、イエスと特定せずに「古の人」という言い方をしています。樗牛がキリスト教にもっとも接近したと思われるのは、ニーチェを通してであり、宗教的には日蓮宗に傾倒した、と言われています。

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