ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

停年待望(つのぶえ2005.1.20)

2005-01-20 11:19:02 | つのぶえ
停年待望
師走に入り気分はすっかりアドベント(降臨節)。そこに、つのぶえ編集部から一月分の原稿依頼が飛び込んできた。締切は12月20日必着とのこと、さて困った。
というのは、この原稿を読む人たちは1月の気分で読むだろう。ところが、筆者は12月の気分で書く。このギャップをどう埋めるのか。こちらが読者の気分を先取りして、あたかも1月に書いているかのように書くべきか。あるいは、読む人たちの方が、この原稿はひと月前に書かれているのだということを考慮して読むべきなのだろうか。
12月と1月との気分の違いは単純に時間の経過ということでは済まされない。当然こういうギャップは、月刊の刊行物を出していればやむをえない事情であろう。
さて、アドベントという季節は「未だ」ということが支配している。ところがクリスマス以降、特に1月は「既に」という気分に満ちた顕現節である。こんなことは数年教会生活をしていれば分かり切ったことであろうが、クリスマスの前と後とのこの気分のズレは深刻な緊張を生み出す。
深遠な神学(終末論)によれば、教会は「既に」と「未だ」という緊張の中で生きている、という。
主イエスの弟子たちは、旧約聖書における「終わりの日」という預言を、キリストにおいて実現したものと理解した。と同時に、キリストはもう一度再来すると信じ(再臨信仰)、実質的に世の終わりを先延ばしにした。
かの有名なアルベルト・シュワイッツアーはこの緊張の中で生きるキリスト者の生き方を「中間倫理」と呼び、二十世紀の偉大な神学者バルトとその仲間たちは「時の間」という神学雑誌を刊行した。
そういう難しい神学論議はともかく、キリスト教がもたらした時間観念のコペルニクス的転換は、「終わり」が単純な終わりではなく、新しいエイコーン(時代)の「始まり」であるという主張である。悲劇的な終わりが、希望に満ちた始まりでもある、という発見は決して小さくない。
私事で恐縮であるが、停年ということが、具体的なプログラムの中に入って来ると、それまであまり深く考えていなかったことをいろいろと考え始める。確かに、停年は一つの終わりである。しかし、同時に新しい始まりであり、解放でもある。その意味ではある種の期待に満ちた停年である。ただ、青年時代の、どう生きるべきかとか、何をしたいのかというような未知の、その意味では新鮮な希望に満ちた始まりと異なり、今までしたくてもできなかったこと、し残したことが自由にできるだろうな、という慎ましい喜びに胸がふくらむ。考えてみると、したくてもできなかったこと、し残したことが沢山ある。
ただ、残念なことに、そのときには、おそらく一日の内で自由時間はかなり豊富にあるであろうが、身体的に限界があり、おまけに残余日数が少ないことである。だからこそ、今頃になって言うのは遅すぎると思うが、一日でも早く停年が来ることを待ち望んでいる。まるで、クリスマスを待ち望むアドベントの季節ように。

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