ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

神主・僧侶・そして牧師 (「つのぶえ」1987.2.20) 

1987-02-20 15:10:33 | つのぶえ
神主・僧侶・そして牧師
神棚と仏壇、それにいわゆるキリスト教の「家庭祭壇」とを、頭の中で比べながら、その本質と形とを考えてみると面白い。一体それらはそれぞれ何を形体化したものなのか。祭壇なのか。建物なのか。それとも宝物を入れた箱なの。
 東南アジアの各地を歩いて、色々な所にある「拝所」を英語でなんと翻訳するか、ということを比較するのも面白い。こちらがシュライン(日本でほ「神社」と訳している)であると思っているのに、現地の人はテンプル(普通「寺院と訳す)と呼んだり、その逆であったりする。要するに、それぞれの文化の宗教観の違いなのであろう。
 「神主」という言葉も、「僧侶」という言葉も、英語で言うと同じプリーストである。日本でわれわれが感じるイメージではかなり違うように思うが、少し距離をおいてみると同じ様なものなのかも知れない。
 旧約聖書の中にも、預言者集団と祭司集団という二つのタイプの宗教家集団が見られる。これら両者は相互に対立しながら、また同時に相互補完的な関係にあったようである。
 キリスト教の聖職を「預言者的なもの」とみるか、「祭司的なもの」とみるか、これは難しい。概して、プロテスタントでは「預言者的構能」を強調し、カトリックでは「祭司的な側面」が表に出ているように思われる。聖公会ではどうか。
 預言者は、「神の言葉」、要するに「言葉」に重点をおき、時間軸の中で活動し、個人または集団の良心を問う。それに対して、祭司は礼拝を重視し、神と人間との関係という空間の中で活動し、個別的なものよりは全体的なものにより重点が掛かっている。祭司は形を重んじ、預言者は内容を問う。
 旧約聖書の中では、これら二つのタイプはわれわれが想像するほど明確な区別があったようには思われない。むしろ、どちらともつかない中間的なものが多かったように見える。例えば、サムエルは祭司でもあり、また最初の預言者とも言われる。
 私のイメージの中では、預言者タイプは「僧侶」と結び付き、祭司は神主と同定されている。
 キリスト教の聖職にも祭司型の者と、預言者型の者とがいる。いずれにせよ、両方の働きをしなければならをいのは当然であるが、その聖職の個人史や関心により、どうしてもどちらかに偏ることは仕方がない。私はどちらかというと、預言者タイプであろうと思っている。
 教会にも、預言者タイプの聖職を好む傾向のある教会と祭司的タイプが必要な教会がある。誤解されないように、もう一度強調しておくが、これら二つのタイプには決して価値の上下はないし、また一つのタイプだけで十分と言うことは断じてないのであり、教会が教会としてその機能が十全になるためには、両方の働きが相互補完的であらねばならないのは言うまでもない。ただその教会のおかれた地域的状況、構成メンバーの階層などによりどちらかに偏る。
 私は、ここ三年「神主型牧師」を肝に命じて努めている。預言者型の牧師の道も厳しいが、根が粗雑でずぼらなので、神主に徹することもなかなか難しい。誰が来たとか来ないとか、早朝聖餐式や晩祷にほ出席者があまりいないとか、そう言うことをあまり気にせず、定期的な公祷を確実に守ること、主教座聖堂を美しく維持すること、誰でもいつでも祈ることが出来るように聖堂を整えることに専心している。そしてそれがとっても難しい。
(聖アグネス教会牧師)

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