ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

献金考(つのぶえ1993.8.20)

1993-08-20 11:06:01 | つのぶえ
献金考(つのぶえ1993.8.20)
○全てのものは主の賜物。わたしたちは主から受けて主に献げたのです。アーメン。
○献金において大切なことは、金額ではなく心である。喜んで献げるのでなければ、献金にならない。
○献金は、自分の所得の中から自分に必要なものを使った後、残りを献げるのではなく、所得を得たら、先ず最初にするものである。
 私の母は、父が給料を貰ってくると、献金の分を先ず分けて袋に入れ、次の主目に教会に献げていた。
○献金の額は、全所得の十分の一が原則である。もし、十分の一以下しか献金していないとしたら、その分は神様の分を盗んでいるのである。ただし、何を十と計算し、何を一と見なすかということには社会的分析が必要である。
○きっちり一割の献金をするために、一円まで厳密に計算をしている人はけちな人である。きっと神様もその人に対してけちになるであろう。端数は切り上げて献金するものである。
○献金として捧げられたお金は、金額以上の意味がある。だから、一円硬貨も百円硬貨も一万円札も、それぞれ粗末にしてはならない。教会の会計が祈りの心をもって計算する前に、牧師といえども触れてはならない。
○献金は神に属するものであるから、畏れの心をもって扱わねばならない。
 以上は、私の心の底にある献金についての思いを思いつくままに箇条書きしたものである。このような思いが、何時頃から私の中に注入されたのかということについては、全く記憶にない。ただ非常に断片的に、両親がしていたことを見たり、聞いたりしているうちに身に付いてしまったらしい。
 こうした献金についての思いがあるために、三十代の初め頃、献金によって支えられる牧師の生活に耐えられなくなって、クリスチヤン・アカデミーで仕事をするようになった。この問題を克服するのに十一年かかった。それでも、やっぱり牧師であることの一番の苦痛は、献金で生活するということである。しかし、現在振り返って見ると、献金だけで生活をしたのは、聖アグネス教会での五年間だけである。
 献金について考えていると、一つの重要なことに気付かされる。
 信仰の継承についてよく議論されるようであるが、その中で献金のことが問題にされないのはおかしい。おかしいという方がおかしいのかも知れないが、私には信仰の継承ということと献金ということとが切っても切れない関係にあるような気がする。それは論理的な話ではない。風が吹けば桶屋が儲かる式の話である。
 五十数年の信仰生活の中で出会った多くの信仰者たちを見ていると、献金について親からきちんと教育されている子どもは大体信仰生活を継承している。
 献金というものに対する私たちの姿勢が、私たちの経済生活(実生活の全般を支配する論理)の根底を刷新するのである。ここの点がぼやけると、信仰ほ観念化し、教会生活は単なる「つきあい」に堕してしまう。

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