ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

遺骨考「つのぶえ」1988.9.20

1988-09-20 11:07:32 | つのぶえ
遺骨考「つのぶえ」1988.9.20
この夏、友人に誘われるままに、彼の墓参りに付き合うことになった。ほとんど一昼夜かけて、彼の郷里に出かけ、彼の先祖の墓を彼の家族とともに掃除をしながら、いろいろのことを考えた。いろいろの考えの中の一つを述べさせてもらいたい。
この考えの背景には、先祖の墓もなく、自分の墓を持つこともほとんど無理だと思われる人間の、ひがみもあるかもしれない。いや、はっきり言って、墓を持っている人がうらやましい。何故だか判らない。多分、われらの先祖、アブラハムもかなり墓にはこだわりを持っていたように思われるので、その影響かも知れない。
今さら改めて言うまでもなく、墓の中に先祖が入っているわけでもないし、私自身が死んでも、私自身が墓に入るわけではない。誰に対しても、墓は決して「永遠の家」ではあり得ない。それなのに、何故か墓にこだわりをもつ。それは何故だろうか。
私は思う。問題は、「遺骨」にあるのではないか。「墓」が先か、「遺骨」が先か。そんなことを疑問に思うのは、事実上「土葬」がほとんど不可能な状況の中での愚問に過ぎないだろう。
遺言にする程のことでもないように思うが、常々、家内と話し合うことがある。お互いに、死んだら「お葬式」はしてもらいましょう。これには、私自身が困った経験があるからである。私の恩師の夫人が亡くなったとき、「お葬式は無用」という遺言のために、随分苦労をした。遺されたものは、そうはいかないのである。葬送式の後は、斎場で遺体を焼いてもらう。これも、理由はそれが一番簡単な処理方法であるから。ここまでは、特別な注文はない。ただ、二人の意見が一致した注文は、「遺骨を拾いそれを遺すことはやめてもらいたい」ということである。遺骨があるために、それを置くための場所(納骨堂か墓)が必要になるのである。
遺骨とはいったい何なのか、本当に遺骨は必要なのか、もう一度、神学的に考え直す
必要があるように思う。聖書的に言うなら、私は死んだら「土」に戻るのであって、そのことが神の創造の秩序なのである。遺骨はいつまでも骨のままであるのではない。これは改めて聖書に教えてもらうこともないほど明白な自然現象である。
むしろ聖書の述べていることで重要なことは、死とは「肉体からの解放」である、ということであろう。(ロマ八・一六~二五、コリ前五・一~五)「肉体からの解放」ということの中には、「先祖たちからの解放」ということも含まれる。裏返して言えば、「肉によるきずな」を超克して、「永遠の生命」による「交わり」に迎え入れられることである。これが「復活」である。つまり、物質からの解放という現象(つまり死ということ)の霊的側面である。ところが、遺骨を保存し、遺骨を大切にすることによって、私自身の「復活」が「遺族たち」によって忘れられてしまうことを私は恐れる。
(まぁ、恐れることもないか、遺族がどう思おうと私自身は復活してしまっているのであり、そこに遺されている物体は私とは全く関係のないものだから。)

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