ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

ぶんやんち(4) 大議論

2008-07-24 08:39:29 | ぶんやんち
その頃、親爺はお袋のことを「岡本先生」と呼び、お袋は親爺のことを「文屋兄(ぶんやきょうだい)」と呼んでいたに違いない。何しろ、岡本伝道師の方は教団監督から任命されてきたのであるから、張り切って伝道に励んだに違いない。ところが、文屋兄の方は、仕事を探す以外に何の仕事もないから閑である。仕事もないし、行くところもない。それこそ「枕するところもない」ような生活なので、チョットした荷物は教会に預け、しょっちゅう教会で何か仕事を見つけては手伝っていたようである。
教会といっても、まだ開拓して間がないし、そもそも日本人もあまり多くはなく、信徒らしい信徒もほとんどいない状況で、伝道用のトラクトを配るぐらいしかすることはなかったあろう。信徒もいなければ、当然献金も少ない。当時、日本ホーリネス教団では全教会自給制度をしいており、献金がなければ牧師の給料もないというのが原則で、当然教役者の生活を支えるだけの献金はなく、どうして生活していたのか不思議なほどであった。そういう、状況において、教会内で大問題が発生した。岡本伝道師が、産婆の看板をあげて、生活の足しにするというのである。当時、そしてそれは現在でも、日本ホーリネス教団では教役者が教会以外で収入を得るということについてはかなり抵抗があった。とは言っても教団の偉い人たちは聖書学院で教えて給料をもらったり、著書を出版したりで、結構副収入はあったらしいが、それは「主のご用」ということで批判の対象にはされていない。それはそうとして、地方の貧乏教役者たちの生活は最低以下のレベルであった。でも、よくしたもので、そうなると信徒の方が気を遣い、何かと経済的援助をするという「一種の慣習」もあったらしいが、何しろ新京ホーリネス教会は外地であり、信徒もほとんどいないとなると、どうしようもない。それで、岡本伝道師は産婆の資格を活用して、教役者の生活を支えようということを考えたのである。当然、牧師は大反対である。献身者はたとえその資格があったとしても、その資格そのものを神に献げたのであるから、それを当てにして生活するということをすべきではないという正統論を主張する。しかし、岡本伝道師は、産婆の資格も神に献げたのであるから、必要があれば神はそれを用いられる。何も、それによって大儲けしようとか、私的な財産を作るためにするのではない。献身とは自分自身が持っているすべての才能や資格を神のために用いるということである、と考えたらしい。要するに、「献身」ということをめぐる議論が牧師を中心に数人の教会員の間で展開された。結局、こういう場面では激しく喋る方が不利なので、喋れば喋るほど反対の意見も大きくなる。そして、両方の主張が出そろい、両者が疲れた頃、その一連の議論を終始黙って聞いていた男が重い口を開く。そして、最後に「岡本伝道師の意見がいい」と一言、発言し、それで議論は決着してしまった、らしい。これは、全部お袋がわたしたちに語ったことで、だから「お父さんは、無口だけど、言うときは言う」と、最大限の尊敬をしていた。(このあたりの状況報告に「らしい」とか「にちがいない」という発言が多いのをお許しください。何しろ、断片的に聞いていたことをつなぎ合わせて、半分はわたしの経験も交えての記録である。)
ともかく、そうのような事情で、教会の建物の隅っこに「さんば」の看板が出された。岡本伝道師は、伝道師として活動するときは黒いスーツで身を固め、助産婦の仕事をするときは白い看護婦服を着て、教会の周りを走り回った。文屋青年はそのような岡本伝道師の活躍ぶりを脇からただジッと眺めていた。

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