ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

『原本ヨハネ福音書研究』より抜粋(4:3~42)

2017-03-18 21:21:30 | 聖研
『原本ヨハネ福音書研究』より抜粋(4:3~42)

大斎節第3主日(ヨハネ4:5~26(27~38),39~42)

第6章 サマリアの婦人との会話

<テキスト4:3~26>
語り手:さて、ユダヤ地方からガリラヤ地方へ行くためにはサマリア地方を通るのが近道ですが、普通のユダヤ人はサマリア人への差別感情から回り道をします。イエスはそんなことにはこだわりません。ということで、族長ヤコブがその子ヨセフに与えたといわれている土地の近くにあるシカルというサマリアの町に来られました。ここには有名な「ヤコブの泉」という名所がありました。
ちょうど昼頃、ヤコブの泉を通りかかり、イエス一行はそこで休憩することにいたしました。 (4:3~6)
その間に弟子たちは昼食を調達するために町へ出かけ、イエス一人が残されました。イエスは喉が渇き水を飲みたいと思いましたが、あいにく水を汲み上げる道具がありませんので、誰かが来るのをあてもなく待っていました。ちょうどそのとき一人の婦人が水を汲みにやって参りました。婦人は当然のことですがサマリア人です。イエスは何のわだかまりもなく、彼女に話しかけました。

イエス: すみませんが、喉が渇いているので水が飲みたいのですが、飲ませて頂ただけませんか。
婦人:<見知らないユダヤ人の男性から突然声をかけられ、驚き、多少皮肉を込めて、ぶっきらぼうに>あんたユダヤ人だろ。ユダヤ人の男が、なんで私などサマリアの女に水を飲ませて頂きたいなんて頼むんだい。ユダヤ人はサマリア人と付き合わないんじゃなかったんですかね。
イエス:<彼女のつっけんどんな態度に、多少気を悪くして>もし、あんたが神さまを信じる人で、水を飲ませて頂ただきたい、と頼んでいる私がどういう人間なのかわかったら、そんな口の利き方をしないだろうね。むしろあんたの方から私に「水を飲ませてください」と頼み、そうしたら、私はあんたに喜んで生きた水を飲ませてやっただろうに。
婦人:だんなさん、変な言いがかりはやめておくれよ。あんたは水を汲む道具がないんで私に頼んだんだろう。いったい、こんな深い泉からどうして水を汲むって言うんだい。あんたは私たちの先祖ヤコブより偉いとでも言うんですかい。先祖伝来のこの井戸でヤコブもその家族も家畜もみんな代々この水を飲んで生活してきたんですよ。それともその「生ける水」ってのはこの泉以外のところからでも汲み出すっていう訳じゃないでしょうね。
イエス: ほほーっ。あんたもなかなか言うね。でもね、いいかい。この水は確かに由緒ある水だろうし、身体の乾きを癒してくれるだろう。でもね、この水が癒しくれる乾きっていうのは、飲んでもまた直ぐに乾くんですよ。でもね、私が飲ませてあげようっていう水は、泉から汲み上げるような水じゃなくて、その水を飲んだ人間の中からこんこんと湧き出てくる水で、一度飲めば、もう二度と乾くということがないんだよ。
婦人:<イエスの話に興味を持ち始めた様子で>ほほーっ。それは確かに便利だね。 <多少態度を改めて>先生、もう二度と水汲みをしなくてもいいように、ぜひその「生きた水」とやらを私にも分けてくださいよ。
イエス: いいよ、そのために一つだけ条件があるんだがね、いいかい。
婦人:もちろん、いいですよ。それでその条件とやらは何んだい。
イエス: わかった。じゃ、今すぐ、ここにあんたの連れ合いを連れていらっしゃい。それがただ一つの条件だ。
語り手:気丈夫な婦人もこの条件には参ってしまいました。なぜ、このユダヤ人の男はこんな、へんてこな条件を付けるのだろう。水と夫と何の関係もないじゃないか。婦人は考え込んでしまいました。はじめの間は水と夫と自分とのことを考えていましたが、やがて、こんなことを言い出すユダヤ人のこの男とは何者なのか。しげしげと男を見直しはじめました。どうも普通のユダヤ人の男ではなさそうです。ユダヤ人だけではなく、今まで付き合ってきたどんな男たちと比べても、こんな男と会ったことがありません。考えたあげく、とうとう白状しました。

婦人: 先生には参りましたよ。正直に白状します。実は私には連れてこれるような連れ合いがいないのですよ。
イエス: そうだろう。「連れてこれるような連れ合いがいない」というのは本当だろう。実は、あんたには5人の夫がいたはずだ。そして、今一緒に生活している男も本当は夫ではないのだろう。

語り手:サマリア人の婦人はびっくりしてしまいました。まさに、その通りなのです。今、初めて会ったこの旅人からそんなことを言われるとは。

婦人: 先生、わたしはあなたを預言者とお見受けします。

婦人: 先生、ちょっと伺いたいことがあるんですが、いいでしょうか。私は前々からユダヤ人の偉い人に会ったら教えてもらいたいと思っていたんですが、なかなか偉い人に会えなかったんでね。
私どもサマリア人は遠い先祖の時代から代々、このゲリジム山で礼拝を守ってきましたが、あなたがたユダヤ人はエルサレムでの礼拝こそ本物で、それ以外の礼拝は偽物だと言っていますよね。それは一体どういうことなのでしょうね。

イエス:ご婦人、中々良い質問ですね。私はその議論そのものが無益なものだと思っているんです。そのうちに、あなたたちも、私たちも、ゲリジム山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時代が必ず来ますよ。私の言うことを信じなさい。実はもう既にその時が始まっているのですよ。大切なのことは、どこで礼拝するかということではなくて、礼拝する人間が霊と真をもって礼拝することなんですよ。父が求めておられるのは、こういう礼拝なのです。神は霊なのです。だから神を礼拝する者も、霊と真をもって礼拝しなければなりません。
婦人: 私はキリストが来られることは知っています。その方が来られたら、すべてのことが明らかになるでしょう。
イエス:それが私です。あなたが今話している私です。

教会的編集者の挿入: 4:11
<以上>

(a) 出会い
サマリアの婦人との会話が、泉の側で「水」に関することで始まったことは面白い。ニコデモとの会話では「風=霊」が取り上げられた。そしてサマリアの婦人との会話では「水=生命」が取り上げられる。いずれもヨハネ福音書では重要なテーマである。
場所はユダヤ地方からガリラヤ地方に向かう途中にあるサマリア地方の名所「ヤコブの泉」、時は昼間の正午ころ、ニコデモとの対話が夜であったのに対して、こちらは昼、この対照も興味深い。著者はそのことについて特別な関心を示さないが、読者としては「夜の神秘性」と「昼の明証性」との対比が面白いと思う。ニコデモとの会話ではいかにもインテリらしい重苦しさがあった。それに対して、サマリアの婦人との会話はとにかく明るい。ほとんど冗談に近い雰囲気で会話が弾む。

(b) 二つの差別
ここには二つの差別が出てくる。一つはユダヤ人のサマリア人への(民族?)差別、もう一つは男性の女性に対する性差別。イエスはその二つとも「何のこだわりもなく」彼女に話しかけている。彼女はそのことについて、驚き、皮肉る。この皮肉は、いわば弱者の強者に対する反撃である。9節の言葉は著者の解説であるが、私はあえて、彼女のセリフの中に組み込んだ。この方が会話に迫力が出てくると思ったからである。ここで本当ならサマリア人とは何か、何故ユダヤ人はサマリア人を差別しているのかという歴史的経過を述べるべきであろうが、ここでは省略する。差別の理由などというものは基本的にはつまらないことだからである。人間はどんなにつまらないことからでも、差別の材料にする。むしろ、そのことの方を批判的に述べるべきであろう。それは別の機会にする。
(c) サマリアの婦人 vs. イエス
ここからイエスと婦人との本格的な対話が始まる。ここでのイエスは実に人間的である。ニコデモに対するイエスには「構え」が感じられたが、ここでのイエスは完全に婦人と同じ位置に立っている。というよりも、おそらくイエスが座っており婦人が立っていたと思われるので、イエスは婦人を見上げる形になっていたのではないかと想像する。「下からの目線」であったからこそ、逆に「私がどういう人間なのかわかったら、そんな口の利き方をしないだろうね」(Jh.4:10)などという「偉そうな発言」が出来たのであろう。ここでの対話を読むときに、この「目線」の問題を無視してはならない。そうでないと、偉そうな宗教家のお説教になってしまう。教会ではそんな説教ばかりではないか。ここでのイエスは婦人に対して水を汲むものがないという弱い立場と、全く同じように、婦人は「私(イエス)の水」を飲めないという弱い立場とが対比され、その上で、あんたは私に「あんたの水」を飲ませてくれないような言い方をするが、私はあんたに喜んで飲ませるという。ここがこの対話の面白いところである。婦人だって黙ってはいない。何しろ対等な「言葉のレスリング」なのだから、婦人の方も知っているいろいろな情報を持ち出して「私(婦人)の水」の有り難さを強調する。イエスは婦人の話を聞いて「ほほーっ。あんたもなかなか言うね」と感心してみせる。もっとも、この言葉は私の加筆ではあるが。ここでのイエスのセリフがイエスの反論である。このセリフを聞いて、婦人の方も負けじと「ほほーっ。それは確かに便利だね」と答える。注意深く読むと、これはもう反論ではない。「その水を分けてください」(Jh.4:15)という願いになっている。次のイエスのセリフと婦人のセリフは私の加筆。「ここにあんたの連れ合いを連れていらっしゃい」(Jh.4:16)。
ここでイエス特有の「異能」が働く。(参照:巻1でイエスが初めてペトロと出会った時の場面、およびナタナエルとの出会いの場面)これは通常、イエスの異能とは言われてはいないが、私はこれは重要なイエスのカリスマ性だと思う。イエスは婦人の正体を見破っていた。これで婦人はイエスがただ者ではないと思う。著者が 「ニコデモとの対話」と「サマリアの婦人との対話」とをセットにして二つ並べたた理由はここにある。共通のテーマは「宗教」である。ここで婦人が唐突に提出した話題はサマリア人とユダヤ人とが対立している根本的問題は何か。過去の歴史問題ではなく現在の問題である。しかもそれは礼拝に関する疑問。まさか片田舎のサマリアの婦人からこのような種類の問題が提出されるとは驚きである。「私どもサマリア人は遠い先祖の時代から代々、このゲリジム山で礼拝を守ってきましたが、あなたがたユダヤ人はエルサレムでの礼拝こそ本物で、それ以外の礼拝は偽物だと言っていますよね。それは一体どういうことなのでしょうね」(Jh.4:20)。疑問は単純明快で説明は不要であろう。過去の歴史的事情はいろいろ解説されるが、現実はそうなっている。同じ神ヤハウェを礼拝しているはずなのに、別々のところで礼拝し、それぞれが自分のところが正統性があると主張している。何か、おかしくないか、とサマリアの婦人はユダヤ人の偉い先生と思われる人物に問いかけている。婦人はいつかはこの疑問に答えてくれる人の登場を待っていた。この単純で明解な疑問にイエスも単純明快に答える。答えざるを得ないであろう。その問いに「婦人よ、わたしを信じなさい」とイエスは答えた。ギリシャ語原文ではこれがイエスの答えの冒頭である。しかし、これでは答えにならない。何も説明なしに「私を信じなさい」といわれても、何を信じろというのか。おそらくイエスは彼女に向かってイエス自身の礼拝観を単純明快に語ったであろう。「ご婦人、中々良い質問ですね。私はその議論そのものが無益なものだと思っているんです。そのうちに、あなたたちも、私たちも、ゲリジム山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時代が必ず来ますよ」(Jh.4:21)。この答えは驚異的である。こんな答えを聞いたこともない。その上で、イエスは婦人にいう。「私を信じなさい。実はもう既にその時が始まっているのですよ。大切なのことは、どこで礼拝するかということではなくて、礼拝する人間が霊と真をもって礼拝することなんですよ。父が求めておられるのは、こういう礼拝なのです。神は霊なのです。だから神を礼拝する者も、霊と真をもって礼拝しなければなりません」(Jh.4:21,23~24)。22節はあまりにも露骨なユダヤ主義的な教会的編集者の挿入句であろう。
非常に分かりやすいではないか。これこそがイエスの答えであった。そして、この答えはイエスとニコデモとの中途半端に終わった対話の結論でもある。神殿の本質は建物としての神殿にあるのではなく、そこで「霊と真をもって礼拝すること」(Jn.4:24)にある。これは言葉としては簡単であるが、その内容とすることは非常に難しい。「神が霊である」とはどういうことか。あるいは「霊である神」とはどういう意味か。「霊と真を持って礼拝する」とは何か。ヨハネ福音書全体はこの言葉の解説であるさえと言える。
ここで注目すべきことは、「風」と「霊」とを区別しない著者が「神は霊である」と言った場合、「神は風である」と言いうるのだろうかという問題がある。

(d) 著者は「霊」をどのように理解しているのか
そこで、少なくともこの著者がこの箇所以前の部分で「霊」についてどういうことを言っているのか、検討しておきたい。
最初に「霊」が出てくるのは洗礼者ヨハネが、イエスのことを証言する場面である。
「私に水で洗礼を授けるようにとお命じになられた方が、私にこう言われたのです。その人の上に霊(プニューマ)が下って来て、そこに留まるのを見たら、その人が聖霊で(エン プニューマティ ハギオイ)洗礼を施す人だ、と。そして私ははっきりと見たのです。この人の上に、天から霊が鳩のように下って来るのを見たのです」(Jh.1:32~33)。
ヨハネ福音書の著者は、序詞「ロゴスの賛歌」において、洗礼者ヨハネは「光」の証言者として神の元から派遣されたという。そしてJn.1:32でヨハネの証言が語られる。そしてヨハネ福音書で「ヨハネの証言」が記されているのはこの箇所だけである。洗礼者ヨハネはこのためにのみ存在している。洗礼者ヨハネは神から予め聞かされていたことをイエスにおいて実際に見たと証言する。それがイエスの上に「霊」が下り、留まるという出来事を見た。この経験のゆえに、イエスが施す洗礼は「聖霊の洗礼」だという。ヨハネは自分の経験を「霊」の経験とは言わない。自分が行っている洗礼は水によるという。この「霊」を「風」に置き換えることは出来ない。ここでの「霊」とは神からの働きかけである。
次に「霊」が出てくる場面は、ニコデモへのイエスの発言である。
「じゃ、言い直しましょう。はっきり言って、誰でも霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉体から生まれたものはどこまでも肉体です。同じように、霊から生まれたものは霊なんです。人間は新たらしく生まれなければならないと言った私の言葉にそれほど驚くこともないでしょう。むしろ当たり前のことです。霊はごく自然にどこにでも吹いています。あなたも私も霊の吹く音を聞いています。しかし、それがどこから来て、どこへ行くかを知ることはできません。霊から生まれた者とはそういうものなんです」(Jh.3:5~8)。
「新しく生まれる」ということの言い換えとして「霊から生まれる」という言葉が用いられている。つまり、ここに「生まれたままの人間」と「霊によって生まれた新しい人間」とが対比されている。ここでの霊とは人間が経験する霊である。これがおそらくイエスが授ける洗礼は「聖霊による」というのと同じ事柄を指しているのであろう。ここでは「霊」と「風」とが同じ単語を共有していることによって説明されている。つまり吹いている風をすべての人が経験できるように、霊もすべての人間が経験できることである。
そして次に出てくる場面は「神は霊である」(Jh.4:24)に直結する「(真に)礼拝する人間が霊と真をもって(父を)礼拝する(時が来る)」(Jh.4:23)というイエスの言葉である。ここでの「霊と真をもって」という言葉は礼拝するにかかる副詞句で礼拝の仕方を意味している。もっとも、「仕方」といっても、その内容は「霊と真をもって」であるから、外面的形式的なものを意味しない。要するに礼拝する側の内面の事柄である。これを受けて「神は霊である」という言葉が導き出される。結論を述べると、この場合の「神は霊である」というのは、神の本性(本質)というよりは、礼拝する人間側からの神の姿を意味する。もう一歩進めるならば、神は「形なき形」であることを意味している。従って礼拝する者も「形なき形」で礼拝する。「ゲリジム山でもない、エルサレムでもない所」で礼拝するということは、神殿と神殿で行われる宗教儀式のすべての否定に通じる。
そこで、「霊」と並んで用いられている「真(アレーテース)」とは何かということにも触れておこう。この「真」の基本的概念は「真理」であるが、人間の行為としての「真理もって」というのも、言葉として落ち着きが悪い。その場合は「真実に」とか「誠意を持って」ということであろう。その意味では「霊と真を持って礼拝する」というのは、形にとらわれず、「誠をもって」礼拝するという意味である。このことは当時の社会においては画期的な教えであり、サマリアの婦人もこの点でイエスを信じたのであろう。


第7章 イエスと弟子たち

<テキスト4:27~34>
語り手:ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来ました。イエスが見るからにいかがわしそうなサマリアの婦人と話をしておられるのを見て驚きました。しかし、「どうしたんですか」とか、「この人と何の話しておられるのですか」などと尋ねる者はいませんでした。
弟子たち:先生、大変遅くなりました。お食事の準備が整いました。どうぞ。
イエス: 私は今お腹がすいていません。

語り手:と素っ気ない返事。イエスは誰かを待っている様子です。さっきの婦人のことが気になるのか。弟子たちは、そんなイエスの様子を不思議そうに眺めていました。イエスはやっと弟子たちの顔を見て、言いました。

イエス:ごめん、ごめん。私にはあなた方の知らない食べ物があるのです。
弟子たち: あ、そうですか。誰かが食べ物を持って来たのですね。

語り手: と、今度は弟子たちの方が素っ気ない返事です。どうも弟子たちは何か誤解しているようなので、イエスは説明をしました。

イエス:私の食べ物というのは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることなのです。今、その仕事の仕上げまでもう一歩なのである。
<以上>

サマリアの婦人とイエスとの対話が最高に盛り上がったとき、弟子たちが帰って来た。私は、この場面で不思議に思うことがある。弟子たちは何故、全員で同じ行動を取っているのであろうか。昼食のための買い物ならば、数人で出かければ済むだろうし、常識的に考えてイエスを一人にするというのはいかにも不自然である。まして、ここはユダヤ人と敵対関係にあるサマリアの村ではないか。しかし、そのことには誰も、著者も触れていないので、私の個人的な気の回し方なのかも知れない。ともかく彼らは皆で出かけ皆で戻って来た。ところが出かけたときとはかなり雰囲気が違う。帰って来た弟子たちは、その雰囲気に対応できない。イエスだけがズッーと先に行ってしまった感じであり、弟子たちの態度も何かよそよそしい。その雰囲気を感じて婦人も、気を利かしてか、いそいそと町の方に帰ってしまった。水がめを残していったことを思うと、またすぐに戻るつもりなのかも知れない。
ここでのイエスと弟子たちとの関係は何かギクシャクしている。弟子たちはイエスにろくに口も聞かず昼食の準備をしている。準備が整いイエスに声をかける。イエスは「私は今お腹がすいていません」という。普段の明るいイエスとは様子が違う。イエスの態度も何か落ち着きがない。弟子たちも弟子たち、自分たちで勝手にイエスが「食べたくない」という理由を考える。何かお互いにおかしい。とうとうイエスの方から声をかけた。また、その言葉が秘密っぽい。「私にはあなた方の知らない食べ物があるのです」(Jh.4:32)。
これに対する弟子たちの方の反応も素っ気ない。「誰かが食べ物を持って来たのですね」。「誰かが」なんて言わないで、「さっきの女性」がとでも言うべきところであろう。どうも話が噛み合わない。考えて見ると、弟子たちが帰って来たとき、イエスがサマリアの婦人と話をしているのを見ていたのだから、普通なら「彼女は誰ですか」とか、「彼女と何の話をしておられたのですか」と聞くだろうに、何を誤解したのか、それを聞かないところから、尾を引きずっている。問うべき一つの言葉を飛ばすと、こういうギクシャクした関係になってしまう。それでイエスは詳細に説明する。
「私の食べ物というのは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることなのです」(Jh.4:34)。これまた、こういう場面で言うような内容ではないレベルの重要な発言である。神の御心を行うことと、食べることと何の関係があるというのか。そんな大袈裟なことを今、ここで言わなくてもいいではないか。と、私も思う。弟子たちもどう反応して良いのかわからなかったであろう。しかし、これがヨハネ福音書の叙述の仕方一つの特徴である。

(b) イエスと弟子たちとの関係
考えてみると、著者はここまでイエスと弟子たちとの関係にほとんど触れていない。最初の出会いと彼らが弟子たちになった経緯もほんのお義理程度にしか語られていない。しかも、それは5人だけである。6章の終わり近くでやっと弟子が12人であったことに触れているが、その時でさえ、「弟子たちの多くが離れ去る」という会話の中で、イエスは12人にあなた方も「離れていきたいか」と述べている場面である。ここまで12人という数字は出て来ないということは12人は多くの弟子たちの中で残った人たちであることを物語っている。その中にはユダもいる。ただ、ここでイエスはわざとらしく「あなた方12人は、わたしが選んだ」(Jh.6:66~71)という。事実は「選んだ」ではなくて、彼らが「残った」のである。
イエスと弟子たちとの触れ合いに触れているのはカナの婚礼の場面が最初であり、ここで始めて「弟子」という言葉が使われ、奇跡が起こった後「弟子たちはイエスを信じた」(Jh.2:11)と述べられている。その後、神殿の粛清の場面では弟子たちは完全な傍観者である(Jh.2:17)。ただ、その時イエスが復活したとき、その出来事のことを「思い出した」という(Jh.2:22)。ニコデモとイエスの対話の場面では弟子たちは全く姿を見せない。イエスが洗礼を授けていたという「誤報」の場面では弟子も一緒にいたらしい。それで、後に、洗礼を授けていたのは「イエスではなく弟子たちであった」(Jh.4:2)などと濡れ衣を着せられている。イエスと弟子たちとが一緒にいて、イエスは洗礼を授けていなかったが弟子たちだけが洗礼を授けていたなどということはありえない。つまり弟子たちが弟子たちとしての存在を明らかにしている場面は、このサマリアでの出来事においてである。その意味で、ここでのイエスと弟子たちとの「ギクシャクした関係」は読者としても軽く読み過ごすわけにはいかない。そうしてこの場面を読むとき、イエスのこの「一言」は重要な一言である。

(c) イエスの使命
この言葉はイエスが弟子たちに真っ正面から語った最初の言葉である。単なる、飯を食いたくないということの言い訳ではない重い言葉である。しかし弟子たちは果たしてそのような重い言葉として受け止めたであろうか。「私は私の使命に関わる重要な仕事をしているので、食事をする気になれないです」ということであろう。これはあくまでも私の主観的な推測である。イエスには一つの予感があった。今まで会話していたサマリアの婦人の立ち去り方を見ていると、きっとすぐに戻ってくるであろう。おそらく、その時には大勢のサマリア人たちを連れてくるかも知れない。そのことがはっきりするまでは、食事はお預けだ。「私にとってそのことは食事するよりもはるかに重要なことなんです」。まぁ、こういうことであったと思う。
ここでイエスが「食べ物」のことと自らの「使命」とを並べていることは興味深い。これら二つのことはどういう関係があるのだろうか。ちょっと言葉を換えて「食うこと」と「使命を果たすこと」としたら、かなり問題点がハッキリしてくる。ここでは二つのことが取り上げられなければならないであろう。
一つはイエスの弟子たちの生き方の問題である。もちろん、ここではイエスが御自分の弟子たちのことを語っているというよりも、ヨハネの時代の教会の伝道者たちのことであろう。伝道者といえども人間であるから食わないと生きられない。結婚していれば、家族の生活ということも視野に入れなければならない。その意味では「心構え」の問題だといってもいいであろう。伝道者にとって「食うこと」と「伝道する」こととを並べたら、どっちが重要だと考えるか。答えはハッキリしている。著者は「食うこと」に熱心で「伝道する」ことを疎かにしている伝道者たち、生活のために司祭職に留まっている聖職者たちを念頭にしてこのエピソードを語っているのではないだろうか。
もう一つは、イエス自身のこと。ここでイエスは始めて自分自身のことを語る。ここまでは神話的に、あるいは神学的にイエスのことは語られるが、イエス自身がイエス自身の言葉で自分自身のことを語ったのはここが初めてである。イエスは自分のことをどう思っていたのか。「私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げること」が私の「食べ物」であるという。この場合の「食べ物」とは生きる土台、生きていることを実現させているエネルギーということで、これなくしては生きている意味がなくなる。だからイエスは十字架の上で死ぬ間際に言った言葉は「成し遂げた」(Jh.19:30)であった。ヨハネ福音書で「御心を行う」という言葉が使われているのはここが始めてである。次にこの言葉が出てくるのは5:30で、ここではイエスによる「裁き」が正しいのは、自分の意志ではなく「私を遣わされた方の意志を求めている」からだという。
イエスの自意識の核心に「遣わされた」ということがある。ヨハネ福音書において「遣わされた者」という意識は特別に重要である。この意識の中心的な意味は、そこの場所に生きながらそこに属していないという意識である。そこで生まれ、そこに属している者は、ただそこに存在しているだけであるが、そこに遣わされた者はその存在自体に意味と目的とがある。しかもそれは自分自身の内的要求に基づくというよりも遣わした者の意図と目的である。イエスにはこの意識が非常に強かった。(牧師の派遣制度を思う)
このことについてもっとも圧巻なのは、イエスに対して「あなたは、いったい、どなたですか」(Jh.8:25)というストレートな質問に対するイエス自身の答えである。ここは非常に重要なので、少し長いが原本ヨハネ福音書をコメントしながら引用する。
「あんたは一体、何者なんだ」(Jh.8:25a)というユダヤ人たちに対してイエスは答える。「そんなこと、どうしてあなた方に言わなければならないんですか。むしろ私の方からあなた方について言いたいこと、考えて貰わなきゃならないことがたくさんあります。しかし、それをいちいち取り上げるつもりはありません。私は、ただ、私をお遣わしになった方の真実、私はその方から聞いたことを世に向かって話すだけです」。
かなり雰囲気は厳しい。イエスの態度は、そんなこと以前から何回も言っているではないか、という姿勢である。それよりもイエスの側からユダヤ人たちの方に言いたいことが山ほどあるが、それは言わないという。その上でイエスは言う。
「あなた方は人の子が上げられたときに初めて、『私はある(エゴー エイミ)』という意味が分かるでしょう。そのときになって、私が、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるでしょう。私をお遣わしになった方は、私と共にいてくださいます。私をひとりにしてはおられません。私は、いつもこの方の御心に適うことを行うからです」(Jh.8:28~29)。ここでの「人の子が上げられたとき」という言葉は、イエスの十字架による死と昇天の二つの意味が重ねられている。要するにイエスの答えは、私が死んだ後、私が何だったかわかるであろう。私の一生にはいつも私を派遣した方が付いていて、決して私が一人であったときはないし、私は何時も「この方の御心に適うこと」を行なっているからである。
なお、イエスの教えに驚いたユダヤ人たちが「イエスはこんな学問をどこで学んだんだろう。こんな教えを今までに聞いたことがないぞ」(Jh.7:15)という疑問に、イエスは次のように答えている。
「私の教えは学んで得たものではありません。私を遣わされたお方からのものです。もしもその方の意志を実践したい者がいれば、この教えが神からのものか、私自身が学んだものかすぐにわかる筈です。自分自身の考えを語る者は自分自身を自慢したがりますが、自分を遣わして下さった方の栄誉を求める者は、真実で、彼の中には偽りはありません」(Jh.7:16~18)。
要するに神の意志を行おうとする者はイエスが神の意志を行っているということがわかるというのである。
このことに関連しては教会的編集者も同じ理解を示している(Jh.6:38~40)。この部分は原本ヨハネ福音書にはないので、田川建三訳で引用する。
「私が天から下ってきたのは、自分の意志を実行するためではなく、私を遣わした方の意志を実行するためだからである。私を遣わした方の意志とは、これである。すなわち、その方が私に与えたものはすべて、私がそれを失うことなく、そのものを終わりの日に復活させるであろう。私の父の意志とは、これである。すなわち御子を見て御子を信じる者は皆永遠の生命を持つ。そしてその者を私は終わりの日に復活させるであろう」。
かなり終末意識など雰囲気は違うが同じ思想に基づいていることはわかる。イエスは神の御心を生きるために、この世に遣わされ、徹底的に神の御心に従って生きた。つまりイエスとは神の御心が肉体化した存在であった。その神の御心とは、御自分の御子をこの世にお与えになるほどに、この世を愛しておられる(Jh.3:16)、というあの言葉に凝縮されている。


第8章 教会の宣教

<テキスト4:35~38>
語り手:と、イエスは説明いたしましたが、かえってこの説明が弟子たちを困惑させたようです。それでイエスはさらに言葉を継いで次のように話しました。

イエス:ところが、あなた方は収穫の時期までまだ4ヶ月もある、などと悠長なことを言って、なすべきことをサボっているではないか。自分たちの目を開いて周りをよく見てご覧なさい。既に畑は色づき、作物は収穫されるのを今か今かと待っているではないか。
刈り入れる役割を担っているあなたたちは、種を蒔き、育てた人々の労働の成果である報酬を受け取り、永遠の生命へと至ることができるが、本当はその報酬は刈り入れた人たちと蒔いた人たちとが分け合って共に喜ぶべきものであろう。ところが、どうだろうか。現実を見ていると、本当のところ、蒔く人たちと刈り入れる人たちとが別人のようになっているではないか。はっきり言おう。私があなた方を遣わしたのは、あなた方が自分で労苦したわけではないものを刈り入れさせるためだ。労苦したのは他の人たちなのに、あなた方だけが彼らの働きの成果を手に入れている。
<以上>

この部分は文脈とは無関係な事柄が語れているように思う。ここでイエスは何を語ろうとしているのか。先ず出来るだけ先入観を取り除いて語られている文章だけに注目したい。それで出来るだけ原文に近い翻訳、田川訳をテキストとする。岩波訳もほぼこれと同じである。

あなた方はまだ4ヶ月もあって、それから収穫が来る、などと言っているではないか。見よ、あなた方に言う、自分の目を上げて、諸地域を見るがよい。収穫のためにすでに輝いている。
刈り入れ人は報酬を受けとる。そして永遠の生命へ至る果実を集める。蒔く者が刈り入れる者と同様に喜ぶためなのだ。すなわちこの点で、蒔く者と刈り入れる者が別人だ、というこの言葉は真実なのである。私があなた方を遣わしたのは、あなた方が自分で労苦したわけではないものを刈り入れさせるためである。他の者たちが労苦したのだ。そしてあなた方は彼らの労苦(の成果)の中に入り込んだ。(Jh.4:35~38)

この部分は35節と36節以下とは全然別なことを述べている。35節では収穫の時期までには4ヶ月もあるという弟子たちに対してイエスは、「じゃあ、実際に畑を見てご覧なさい。もう畑の方は収穫してくれと『輝いている』ではないか」と言う。もちろん、ここでの畑とは実際の畑というよりも教会が宣教すべき地域であろう。ここでは宣教活動に力を入れようとしないイエスの直弟子たちに対するイエスの激しい怒りが感じられる。36節以下の部分は「刈り入れ」のことが主題となっているので、35節との関係に引きずられて分かりにくくなっているが、ここは一応別な話題に移っているとみる。先ず36節で刈り入れについての一般論、もちろんここでも農作業としての刈り入れというよりも、宣教活動としての刈り入れについて語られているのではあるが、収穫物(報酬)を刈り入れるということは、蒔いた者も共に喜ぶべきことだという。ところがここでとつぜん変な文章が入ってくる。「この点で、蒔く者と刈り入れる者が別人だ」という。本来ならば別人である筈がない。考えられることは、蒔く者と刈り入れる者とが別人だということは、当時一般的になりつつあったと思われる、農場経営者と季節労働者との関係であろう。そうすると、蒔いた者が必ずしも刈り入れる者とはならない。もっと厳しい現実は種を蒔く労働者も刈り入れする労働者も、季節労働者で彼らは日当を貰えばそれで終わり。本当の「刈り入れる者」とは農場経営者で、そこでの収穫はほとんど全部彼のものになるという社会構造が見られる。こういう状況について、「蒔く者と刈り入れる者が別人だ」という言葉が巷で叫ばれていたのであろう。それで著者は、その言葉は「真実なのだ」といっているのである。
この文章の中で最も理解に苦しむのが38節の言葉である。ここでの「私」はイエス自身であることは明白である。イエスが「あなた方」、つまり使徒たちを遣わしたのだ、という。しかも「あなた方が自分で労苦したわけではないものを刈り入れさせるためである」という。いかにも「らしくない」文章である。当然、この文章を理解するためには、「誰が苦労した」のかという疑問がある。誰か「他の者たち」が苦労したものを使徒たちが「刈り入れた」。ここでいう「他の者たち」とは誰か。この文章についてはほとんどありとあらゆる、考えられる試案が提出されている。その中に見るべきものはほとんど見られない。
その内で、唯一、O・クルマンの解釈が最も説得力があるように思う(この部分は田川建三の解釈を参照にしている)。38節の言葉の背景には使徒言行録8章の初期教会におけるサマリア人伝道があるという。だから著者はイエスによるサマリア人伝道の文脈にこの出来事を置いたのであろうと想像される。そして、これと同じようなことが各地で行われたものであろう。
サマリア人伝道はパウロの回心以前、かなり初期の出来事である。使徒言行録8:3によると、回心前のパウロ(当時はサウロの呼ばれていた)によるキリスト教の弾圧、とくにいわゆる「ヘレニスト」と呼ばれていた非ユダヤ人キリスト者をターゲットにした弾圧があり、最初に血祭りにされたのがステファノ(キリスト教史における最初の殉教者)で、これを切っ掛けに、「エルサレム教会に対して大迫害」(Act.8:1)が起こった。その時、「使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリアとの地方に散らされた」。何故、このとき使徒たちは迫害から免れたのか分からない。そこでサマリア地方に逃れたヘレニストの信徒たちは迫害されている中、大胆にサマリア人たちに福音を伝えたという。その中心人物が執事フィリポで、彼らの宣教活動によって多くのサマリア人たちがキリスト教に回心し、洗礼を受けたという。この出来事がヨハネ福音書4章のサマリア人伝道の実際であったものと思われる。そのことを聞いたエルサレムの使徒集団はペトロとヨハネとをサマリアに送った。彼らはサマリアにおいて、洗礼だけでは本物のキリスト者ではないと教え、本物のキリスト者になるためには「イエスから派遣された者」、つまり使徒たちの按手によって聖霊を受けなければならないと語り、多くの者が聖霊を受けたという(Act.8:15~17)。その直後、エルサレム教会の使徒団はフィリポをサマリアから人も通らないような僻地に転勤させている。
38節の最後の言葉、「そしてあなた方は彼らの労苦(の成果)の中に入り込んだ」という言葉は面白い。この文章を新共同訳も口語訳も同じように「他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」と訳している。しかし原文はもっと強烈である。「彼らの労苦(の成果)の中に入り込んだ」。何か狡さを感じる表現である。本来自分たちのものでない成果をあたかも自分たちの成果であるかのように手に入れている。それではあまりにも露骨なので、翻訳では「あずかっている」などと表現している。彼らがこういうことをする根拠はただ一つ「イエスから遣わされた」という点だけである。ここでわざわざ「イエスによる派遣」に言及しているのは強烈な皮肉である。このように見てくると、この38節はかなり強烈な使徒批判の言葉であることが分かる。

第9章 サマリアの町の人々

<テキスト4:27~30、39~42>
語り手:ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来ました。イエスが見るからにいかがわしそうなサマリアの婦人と話をしておられるのを見て驚きました。しかし、「どうしたんですか」とか、「この人と何の話しておられるのですか」などと尋ねる者はいませんでした。彼女の方が、変な目で見る弟子たちを無視して、水がめをそこに残したまま町の方に走り出しました。町では昼頃に女性が一人で走っている姿を見て、何事かあったのかと思って集まり、人だかりができました。彼女は人々に話しました。(27~30)<第8章と重複>

婦人:みなさん、私と一緒に見に来てください。私のプライベートな生活までみんな言い当てた人がいるんです。もしかしたら、この方がキリストかもしれません。

語り手: 彼女があまりにも真剣に話すので、町の人たちも彼女に連れられてヤコブの泉に向かいました。

語り手:話が少し脱線してしまいましたが、本題に戻ります。婦人の言葉を聞いた人々がイエスのもとにやって来ました。そしてイエスに会い、話を聞いて、イエスが婦人が話してくれた通りだったので、彼らもイエスを信じました。そして彼らは彼女に言いました。

サマリア人たち:私たちが彼を信じたのはあなたの話の結果ではありません。私たち自身がじかに彼の話を聞き、この人こそまことに世の救い主であると分かったからです。知ったからです。(そしてイエスの方を向いて)つきまして、もっと話をお聞きしたいので、この町にしばらく滞在してくれませんか」。 

語り手:イエスはその申し出を喜んで受け入れ、2日間滞在しました。
<以上>

おそらく彼女のプライベートな生活については村の人たちの間でも評判だったのだろう。このことについて彼女の方から村の人たちに言うわけもないであろう。しかし、ここで彼女はイエスは私のプライベートな生活まで言い当てたということに驚いている。彼女が村の人たちにそれを告げ、「私と一緒に見に来てください」ということは彼女が秘密にしていたことが明らかになってもよい(カミングアウト)という覚悟の表れである。人々もその態度を見て、彼女の言うことの真実性を信じたのであろう。そして彼らは彼女と一緒にイエスのもとに走った。ここで彼らはイエスに何を問い、イエスは彼らに何を話したのか、ここでは何も語られていない。ただ、イエスが彼女が「話してくれた通りだった」ので、信じたという。おそらく、礼拝に関するイエスの教えがその内容であったと推察する。しかし、それよりも何よりも、イエスがサマリア人に対する偏見を少しも持っていなかったということが重要だったかも知れない。ここで非常に重要なことを彼らは告白する。「私たちがイエスを信じたのは彼女の話の結果ではありません。私たち自身がじかにイエスの話を聞き、この人こそまことに世の救い主であるとわかったからです」という。著者はわざわざこれを彼らに告白させている。おそらくこの出来事の背後には、初代教会におけるサマリア伝道の成果(Act.8:4~25)があると思われる。時代的にはエルサレム教会における大迫害の直後であるので、紀元33年頃であろう。

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