ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

原本ヨハネ福音書研究から抜粋(14章)

2017-04-24 10:18:41 | 聖研
第2章 弟子への最後の教え

ここまで語るとイエスは一仕事終わった時に感じる、一種の安堵感と、これから嫌なことを言わなければならないという気持ちで、しばらく沈黙が続いた。ここから二つのシーンがある。

シーン1 イスカリオテのユダ

<テキスト13:21~27、30>
語り手:イエスはこのことを話し終わると、何か思い悩んだ様子でしたが、意を決したように重い口を開き話し始めました。

イエス:実は、あなた方のうちの一人が私を裏切り、売るでしょう。

語り手:イエスのこの言葉は弟子たちを動揺させました。誰のことだろう、とお互いに顔を見合せました。イエスの席の隣に座っていた弟子、彼は普段から「イエスが愛している者」と呼ばれていましたが、ペトロはこの弟子に、「誰のことか尋ねよ」と目で合図をしました。その弟子がイエスの耳元でささやくように尋ねました。

その弟子:先生、それは誰ですか。
イエス:私がパンをスープにひたして与える者だ。

語り手:そういうとイエスはパンを千切り、それをスープにひたし、イスカリオテのユダに与えました。するとその一片のパンと一緒にサタンが彼の中に入りました。それを見て、イエスは彼に言いました。

イエス:あなたがしようとしていることを、すぐにしなさい。

語り手:イエスのその言葉を聞いて、ユダはイエスからパン片を受け取り、すぐに出て行きました。外は真っ暗な闇夜でした。

教会的編集者の挿入:13:28~29

<以上>

(a) この場面はイスカリオテのユダの裏切りを公にした場面である。マタイ福音書では26:21、マルコ福音書では14:18、ルカ福音書では22:21に記録されている。いずれも最後の晩餐の席である。マルコとマタイではこれを聞いた時「弟子たちは心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」という。ルカもほぼ同様である。共観福音書ではこの告知の前にすでにユダは行動していることを述べている。しかし他の弟子たちはそれを知らない。こういう場面で「まさかわたしのことでは」という心配をするということは、そうではないとは言い切れない何かを心に抱いているのであろう。ヨハネ福音書では、イエスのこの発言は唐突であり、ユダについてはこの食事会が開かれる前に「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(Jh13:2)とだけ述べている。
ヨハネ福音書ではここまでにイスカリオテのユダは2回登場しているが(Jh.6:71,12:4)、いずれの場合も「裏切る者」と言われている。まさに「裏切る者」というレッテルが最初から付けられている。
ともあれ、この予告がなされた時、ヨハネ福音書では「誰か」とお互いに疑っているが、自分に対しては裏切らないと思っている。ここが共観福音書と異なる点である。

(b) ここに登場するのが、イエスの隣に座っていた「イエスが愛している者」という謎の人物である。この人物と洗礼者ヨハネの弟子でアンデレともう人地の「無名の弟子」(Jh.1:40)とが同一人物かどうか明記されていない。ペトロは彼に無言で合図し、裏切り者は誰か訊ねさせる。その時、イエスは彼の質問に周囲にわからないように示す。私は、イエスが彼にだけこのような重要なことを教えたとは思えない。事実、この後もその人物か誰かということは明らかにされないまま、事態は進み、イエスは誰にも分からないように、ユダに「あなたがしようとしていることを、すぐにしなさい」と語り、ユダはすぐにその席を離れて外出している。教会的編集者は、同席していたものは誰も彼が裏切り者だということに気が付かず、会計としての仕事をしてたという解説を挿入している。多分その通りでだったであろう。ここで重要なことは、イエス自身はユダの裏切りを知っていながら、そのことを他の弟子たちにはわからないように配慮していることである。にもかかわらず、「イエスが愛している弟子」にだけは暗示的にではあるが述べている。その理由が判らない。


(c) シーン2 弟子への最後の教え

ここからかなり長いイエスの説教が始まる。この部分は原本と教会的編集者の言葉とが錯綜しており、そのまま読むと何が何やらわからなくなる。

<テキスト13:31、36~38、14:1~31>
語り手:さて、ユダが出て行くと、それまで部屋の重苦しい空気が一変し、新しい光が差しこみ、何かが始まりそうだという空気に満たされました。

イエス:今や人の子は栄光を受け、神も人の子も崇められるときが来ました。
ペテロ:先生、あなたはどこに行かれるのですか。
イエス:私が行く所に、今はあなたはついて来ることができません。いずれにしても、何時の日か、あなたはついて来ることになるでしょうが。
ペテロ:先生、何故今すぐにあなたについて行くことができないのですか。私は自分の生命をあなたのために棒げる覚悟です。
イエス:あなたはあなたの生命を私のために棒げると言われるのですか。それはありがたいことですが、本当のことを言うと、あなたは鶏が鳴く前に私を知らないと三度も言うことになるでしょう。
あなた方はこれからどんなことが起こってもジタバタすることはありません。神を信じなさい。そして私をも信じなさい。たとえこの世でどんなことがあっても、あなた方には究極的な安息の地が与えられているのです。私の父の家にはあなた方のために永遠に憩う場所が備えられています。そうでなければ、私はあなた方のために場所を用意しに行くと言ったでしょう。私がどこに行くのかということも、その道もあなた方は知っています。

語り手:それを聞いたトマスは、イエスの言葉を中断して、質問しました。

トマス:先生、あなたがどこに行かれるのか、私たちは知りません。それなのに、どうしてそこに行く道を知ることができるでしょう。イエス:私が道であり、真理であり、生命なんです。誰も私を通らずに、父のもとに至ることはできません。あなた方が私を知っているのであれば、私の父をも知ることなるのです。そして今からは、あなた方は私の父を知るでしょうし、それが父を見るということなのです。
フィリポ:先生、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。
イエス:こんなに長い間、あなた方は私と一 緒にいるのに、私のことがまだ分からないのかな。フィリポ、いいかい、私を見た人は父を見たのです。それなのに、どうしてあなたは父を見せてほしい、などと言うのですかね。私が父におり、父が私におられる、ということが、あなたは信じられないのですか。私があなた方に話す言葉は私が私の思いで話しているのではありません。父が、私の中におられる父が、働きかけ、私に語らせておられるのです。私が父の中に、また父が私の中に、ということについては、私を信じてください。私が信じられないなら、私の働き、私の生き方を信じればいいでしょう。
これらのことについては、今はまだ十分に理解出来ないかも知れませんが、父が私の名において遣わして下さるであろう助け手、すなわち聖霊のことですが、あなた方にすベてのことを悟らせ、また私があなた方に言ったすベてのことをあなた方に思い起こさせて下さるでしょう。だからあなた方は何も心配することはありません。
私はあなた方に平安を残していきます。それは私の平安です。私は、世とは違う仕方で、私の平安をあなた方に与えます。だからあなた方はどんなことが起こっても怯えないで、落ち着いていなさい。
今、そのことをあなた方に言っておくのは、それが実際に起こってきたときに、あなた方が信じ続けることが出来るためなのです。もうこれ以上、あなた方に話しておかねばならないことはありません。兵士たちが近づいています。しかし彼らは私とは何の関係もないのです。しかし世界が、私が父を愛し、父が私に命じたままに私が行動していたことを知るためなのです。さぁ、立ち上がりなさい。出かけましょう。

教会的編集者の挿入:13:32~35、14:3、12~25、28

<以上>

(a) 冒頭でイエスは
「今や人の子は栄光を受け、神も人の子も崇められるときが来ました」と宣言する。この宣言を聞いてペトロはイエスがどこかに行くというように聞いたらしい。これまでにイエスはユダヤ人に対しても弟子たちに対して、誰もついてこれないところに出かけるという話をしている(Jh.7:34、8:21)。だからイエスの話を聞いて、いよいよその時が来たと思ったらしい。そこでペトロが弟子たちを代表して率直に「先生、あなたはどこに行かれるのですか」。「私が行く所に、今はあなたはついて来ることができません」と答えた上で、一言付け加える。「いずれにしても、何時の日か、あなたはついて来ることになるでしょうが」。弟子たちはイエスが行ける所なら、どこでも行けると思っている。それでペトロは自分たちの覚悟を語る。「先生、何故今すぐにあなたについて行くことができないのですか。私は自分の生命をあなたのために棒げる覚悟です」。これは弟子たち全員の率直な気持ちであったであろう。この言葉を聞いて、イエスの話は予定外の方向にそれてしまう。ペトロの裏切りを予告する。人間の覚悟とはそんなものである。しかしイエスの覚悟は違う。

(b) ここからがイエスの説教の本題。
「あなた方はこれからどんなことが起こってもジタバタすることはありません。神を信じなさい。そして私をも信じなさい。たとえこの世でどんなことがあっても、あなた方には究極的な安息の地が与えられているのです」。あなたがたの「究極的な安息の地」とは即ち「父の家」である。ここにあなたがたの居場所がある。このことは裏返すと、この地は何らかの使命を果たすために生きている場所、つまり派遣先であるということを含蓄している。
イエスは「私がどこに行くのかということも、その道もあなた方は知っています」という。知っているはず、しかし知らない。このギャップは何処から生まれるのだろうか。理解力の問題ではなく「先入観」の問題。先入観を持って人の話を聞くと、その人が本当に言いたかったことが分からなくなる。この部分について、かなり長いが松村克己の解説を紹介しておく。
<以下引用>
「わたしの父の家にはすまいがたくさんある」。父の家にはイエスだけが住める場所しかないのではない。地上に天国をもたらすということは逆に言えば天国に多くのすまい持つということである。イエスはこのために来て、このために世を去らねばならない。「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ」(Jh.16:7)。もしそうでなければ「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」とは言わなかったであろう。だから「行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」。「わたしがおる所」とは、父なる神と子なる神との交わりであり、イエスは人々をここへと招き、弟子たちにこのことを保証する。イエスとの交わりが弟子たちにとっては神との交わり、永遠を意味する。そしてこのことが人生の目標に他ならない。「また来て」とは復活ともとれるし再臨ともとれる。そしてそれは何れも本当であり何れをも意味する。復活以前においては再臨と復活とは一つのことである。復活が訪れて再臨はさらに待たれるものとなり、一つのものは二つに分かれた。わたしたちはこの二つの時の間を生きている。そして彼を信じる者、その弟子は信仰において彼と共にいるので「わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」とイエスは言う。
このことをイエスは弟子たちに自覚させようとしたが、彼と共に在りながら、弟子たちは彼が言う信仰が何かということを悟ることができない。先生はそう言われるがわたしたちは先生の行き先を知らない、どうしてその道を知ることができるのか、とトマスは抗議した。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない 」。道・真理・生命の3つは形式的には並列されているが、中心思想は「道」で、真理と生命とは道をに対する畳みかけであることは間違いない。だからモハットはこれを「わたしは真にして生ける道である」と訳している。道はいうまでもなく父への道であり、この道を行くことによって真理と生命とが経験される(Heb.10:20)。真理とはそこで神がその真の姿において示されて出会われるということであり、生命とはそこで神が魂に生き生きと働くということである。イエスは一度彼らのもとを離れ、自由な恵みの霊として再び来ることによってこの本質を一層明瞭に発揮する。そのことを分からせるために、今、彼を信じる弟子たちの信仰がはっきりと自覚されていなければならない。信仰は静止しているものではなく、「信仰より信仰へ」(Rom.1:17)という姿でのみ生きる。そのことを彼は次の言葉によって弟子たちに確かめる。「もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」(Jh.14:7)。「神を見る」とは彼方の世で与えられる約束であって(1Jh.3:2)誰も未だこれを見たものはいない。この身のまま神を見るものは死なねばならないと言い伝えられて来た。「心の清い人々は神を見る」(Mt.5:8)。これは最大の祝福であるがこの世では不可能なことと考えられていた。にもかかわらず、イエスは「 わたしを見た者は、父を見たのだ」と言う。もちろん、この「見る」は外面的感覚的な「見る」ではない。イエスを霊的洞察によって見る、その人格の秘密を把えることが神を見るということである。そのためには「心の清さ」が必要である。「幼な児の心」「生まれたばかりの乳飲み子」(1Pet.2:2)の澄んだ眼が必要である。それは新たに、霊によって生まれた者の眼である。詩人は「あなたの光りによって光を見る」(Ps.36:9)と歌ったが、光である神を見るこの眼は神から賜わる信仰である。「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしに来ることはできない」(Jh.6:44)。この眼、この信仰の眼に神はキリストにおいて自らを馴染ませてくださる。従ってこの「見る」は単なる観想や傍観ではなく、精神的、倫理的要素を含んでいる。ヨハネ福音書においては「見る」「信じる」「知る」はほとんど同一の含蓄をもって相互に交換できる言葉である。「わたしたちに父を示して下さい」と願うフィリポの言葉は、余計な問いとしてイエスを悲しませたに相違ない。「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ」と、イエスはフィリポに迫りつつ「わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか」 と問い返す。このことが理解できればフィリポは既に父を見ているのである。(中略)イエスはさらに言葉を継いで言う。わたしが語る言葉、わたしが行う行為は、「自分から」のものではなく「父がわたしの内におられて」なされているのである。「わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい」。もしこの言葉がを信じられないなら、「わざそのものによって信じなさい」、とイエスはじゅんじゅんと訴える。イエスの心は次第に高揚して新しい真理を語り始める。
<以上引用>

(e) 以上で弟子たちに対するイエスの教えは次の言葉で終わる。
「今、そのことをあなた方に言っておくのは、それが実際に起こってきたときに、あなた方が信じ続けることが出来るためなのです」。この言葉はJh.14:1の言葉と響き合っている。「あなた方はこれからどんなことが起こってもジタバタすることはありません。神を信じなさい。そして私をも信じなさい」。「もうこれ以上、あなた方に話しておかねばならないことはありません。兵士たちが近づいています。しかし彼らは私とは何の関係もないのです。しかし世界が、私が父を愛し、父が私に命じたままに私が行動していたことを知るためなのです。さぁ、立ち上がりなさい。出かけましょう」(Jh.14:30~31)。
この言葉は、Jh.18:1に続く。

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