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聖研:マルコ福音書(01)福音の初め 01:01 

2014-12-22 15:06:57 | 聖研
聖研:マルコ福音書(01)福音の初め 01:01 

序 福音書を読む場合の常識
「福音書」という形(ジャンル)、ゆわゆる「伝記」ではない。どちらかと言えば「評伝」に近い。むしろ「評伝」のための資料提供のようなもの。従って、解釈されねければならない。というよりも、解釈されることを待っている資料というべきか。そこで福音書の「解釈」の歴史を常識的な範囲でざっくりと紹介しておく。その前に、いわゆる「共観福音書」の成立の事情について、ごく常識的な程度にまとめておく。

福音書を読んでいると、イエスについては生前からいろいろな噂があったらしい。もちろん死んだ後にも人々はイエスについていろいろな噂話に類する伝承が伝えられたであろう。それらの話は人々の口から口へと伝えられる過程で、意識的あるいは無意識的に大袈裟になったり、枝葉が付けられたり、あるいは改ざんされたりしたであろう。あるいはイエスが語ったとされる譬え話などが、本当にあったことにされたり、他の人の伝説がイエスのものとされたり、あるいは創作されたものもあるかも知れない。それらのさまざまな「諸伝承」が、イエスの死後20年ほどして、つまり紀元50年頃、マルコによってまとめられた。それがマルコ福音書である。原始教会においてはマルコ福音書の他にもイエスの言葉だけを集めたいわゆる「語録」というようなものもあったのであろう。マタイ福音書とルカ福音書とを読み比べると、明らかに彼らはマルコ福音書を最重要な資料として用いていたことは明らかであるが、彼らの手元にはマルコ福音書の他に共通の「文書資料」があったものと思われる。残念がらそれは現在では失われているが、おそらく、それはイエスの語録集のようなもので、かなりの信頼性を持っていたように思われる。それを通常Q資料と呼んでいる。「Q」とはドイツ語の「資料」という単語の頭文字である。
そういう状況が30~40年続いて、教会の指導体制も変わり、イエスについての文書がマルコ福音書といわゆるQ資料だけでは不都合であるという意識が高まってきたのであろう。その根本的な理由は、産まれてきたのであろう。不十分だという意識が高まってきた。その根本的な動機は、マルコ福音書が原始キリスト教会(エルサレム教会)の主流派に対してかなり批判的であるということであろう。そういう福音書だけでは正統的教会として困るので、正統的な権威をもった福音書の執筆が要請されていたのであろう。
マタイ福音書はエルサレム教会の主流派の立場から正統的な「正典的福音書」を目指して、教会内の知識層による共同作業として編集され、最後に一人の著者がまとめあげたものである。
それに対して、ルカ福音書は教会の大多数を形成しつつあった「非ユダヤ人信徒集団」のための福音書として、おそらくパウロの晩年の「協力者」と思われるルカが一人の著者の著述活動としてまとめたものであろうと思われる。ルカ福音書の場合はイエスの生涯と原始教会の宣教活動とをつなぐことが意識されている。つまり、イエスからパウロへの流れが意識されている。

1.福音書研究の歴史
◯<近代以前>
「不完全な伝記」として読んでいた時代。
◯<二資料説>
共観福音書の分析から、マタイとルカとは、マルコ福音書ともう一つの不明の資料(Q)とを編集したたものであるという仮説。ここでの重要な点は福音書とは「資料」が編集されたものであるという考えが明らかになったこである。福音書はそれぞれ編集されたものであるという発想。
◯<様式史研究>
福音書の諸資料は、ある特定の状況において、その状況によって要請された様式に従って書かれたものである。その特定の状況を「生活の座(Sitz im Leben)」と呼んだ。1世紀頃までの教会において、各資料は礼拝、教育、訓練、論争等々という場において形成されたものである。その作業を通して「生きたイエスにまで遡る」ことが目指された。特にその中で「宣教(ケリグマ)の場」が注目された。
◯<編集史研究>
福音書記者たちはそれらの資料を編集して福音書を書いた。言い換えると、彼れは著者というよりも編集者である。それぞれの編集者はその編集の意図に従って、諸資料を取捨選択し、配列し、福音書を仕上げた。様式史研究においてはそれぞれの資料がどういう状況の中で何を目的にして形成されたのかという点が注目された。編集史研究においては福音書を編集した編集者の意図を読み取ることが課題とされた。キリスト者の信仰(イエス理解)は編集者の編集意図の中に隠されている。その意図は先ず第1に資料に手を入れること、第2に資料と資料とを結ぶ結び目を工夫する。従って編集史研究においては主にその結び目に注目する。

2.著者マルコとはどういう人物か。
一応、使徒言行録にヨハネ・マルコという人物が登場している(12:12,25、13:5,13、15:36、その他にもフィレモン24)。このヨハネ・マルコと福音書のマルコとが同一人物であるかどうかはについては何の保証もない。あるいはマルコ14:51の「1人の若者」というのもマルコかどうか確かめようがない。むしろ、著者については誰であったのかというよりも、書かれた著作を通してその人物がどういう人物であるのかを考えることのほうが重要であろう。
マルコ福音書を読んでその著者の特徴を拾い上げると以下の通りであろう。
第1の特徴は、エルサレムの12使徒に対する鋭い批判。その代表的なテキストは9:14~37で、先ず前半の29節まででは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネという3人の代表的弟子たちをを除く9人の弟子たちの無能ぶり、不信仰ぶりが露骨に描がれている。
続いて30~32ではイエスのことを全く理解していない弟子たちの姿が露骨に描かれている。ここはイエスによる第2回目の受難予告であり、何故イエスがエルサレムに行くのかということを示している重要な文脈であるが、にも関わらず弟子たちそれを「まだ」理解できていない。これは著者による編集句と見られている。
33~37はその無理解の極みとして「誰が一番偉いのか」というような議論をしている。これは明らかにエルサレム教会内での勢力争いを反映している。これも著者による編集句であろうと思われる。
最後に復活の場面での描写は強烈な皮肉である。「ガリラヤで会おう」(16:7)という復活後のイエスのメッセージは12弟子たちには伝えられなかった。マタイはガリラヤでのイエスと12弟子との出会いを克明に描く。ルカは完全に無私。ヨハネは21章の付録においてイエスと弟子たちとの出会いを描いている。
第2の特徴 1:21~28 「権威ある新しい教え」(1:22、27)
これはマルコに特徴的な表現である。
第3の特徴 イエスの家族に対する批判(3:20~22、31~35)
ここではイエスの身内の者を律法学者たちと同じ立場においている。
イエスは、私の家族とは・・・・。
第4の特徴 ガリラヤ的視点、エルサレム教会への批判
これはかなり専門的なので説明を省く。(参照:田川建三『原始キリスト教史の一断面━━福音書文学の成立』)

著作年代 不明、一つのヒント、かなりイエスの親族への批判が強いところから、イエスの弟ヤコブがエルサレム教会の代表者となっていた頃、つまり紀元50年代に書かれたのではなかろうか、とも言われている。

3.本書の主題 これがイエス・キリストの福音だ。(1:1)
「福音」という言葉。
福音(ギリシャ語エウアンゲリオン)という言葉は「エウ(良い)」という言葉と「アンゲリオン(伝えること)」という言葉との組合せである。「アンゲリオン」という単語は「天使(エンジェル)」の語源になった言葉で、ルカ福音書でマリアにイエス誕生の告知をした「天使」はこの「アンゲロス(angelos)」という言葉が使われている。マタイでヨセフに現れたの「アンゲロス」である。このアンゲロスの語根が「アンゲル(angel)」で「知らせる」という意味の動詞である。この「アンゲル」という動詞の抽象名詞は「アンゲリア(知らせること)」であって、「アンゲリオン」にはならない。「アンゲリオン」となると「知らせ」というよりは知らせてくれた人へのチョットしたお礼というような意味になる。つまり、チップとか、日本語で言うと「お駄賃」である。つまり、この「エウアンゲリオン」という単語は通常のギリシャ語の用法からは外れている。したがってギリシャ語に強い人たちにとっては「変な言い方」ということになる。
この「エウアンゲリオン」という言葉をキリスト教における基本的な信仰内容を示す言葉として用い始めたのはパウロである。パウロはこの単語を、書簡の中で48回も用いている。興味深いことは真正のパウロ書簡以外の書簡ではほとんど用いられていない。パウロ派とみなされていたルカでさえ、使徒言行録の中で躊躇しながら用いているほどである。
幸か不幸か、マルコはギリシャ語が弱かったので、この言葉を書作の中で用いることに抵抗感はなかったようである。しかしパウロ先生が「福音、福音」という言葉を語るのを聞いていて、マルコ自身が考える「福音」とパウロが語る福音とはちっと違うなという違和感を持っていたものと思われる。つまり、パウロ先生の福音とは「十字架の福音」であり、「復活の福音」である。それはそれとして重要ではあるが、パウロ先生からは「イエス」、「生きたイエス」が見えてこないし、「イエスの言葉」が聞こえてこない。パウロ先生の「イエス」は「キュリオス(主)」であり、「神の子」である。ちょっとキザな言い方をすると、パウロ先生のイエスは「語られるイエス」であるが、マルコが知っているイエスは人々と談笑し、酒を飲み、歌い、怒るイエスである。つまり「語るイエス」である。そういうイエスを知らない人がいくら大声でイエスを語ったとしても、そのイエスは頭の中だけのイエスではないか。「十字架の上のイエス」(ガラテヤ3:1)の姿が福音なら、十字架にかかるまでのイエスが福音そのものではないか、とマルコは考えたのではないだろうか。いや、そうに違いない。それなら、わたしは十字架に至るまでのイエスの姿を「福音」として描いだそう、というのがマルコ福音書の執筆動機であろう。
福音という新造語はもともと「何かを伝える」という他動詞的語幹から派生したものであるので、ただ「福音」という言葉だけで単独で用いられた時「何を伝えているのか」が明確でなく、言葉としての安定性がない、とギリシャ語に強いマタイなどは考えたらしく、マタイは福音という言葉を用いる場合にはほとんど必ず「御国の福音」というようにその内容を示す言葉を付けている(4:23、9:35、24:14、26:13)。そのためにマルコが「イエス・キリストの福音」という場合、イエス自身が福音の内容であった。それをマタイが「御国の福音」という場合、イエスは神の国の福音の伝達者になってしまう。ルカの場合は名詞として「福音」は一度も用いられず、「福音を告げ知らせる」という動詞として用いている。つまり良いお知らせをいたしますということで、その内容が「福音」ということになる。

4.「神の子」
第1節でもう一つ問題になるのは「神の子」という言葉である。多くの権威ある写本には「神の子」という言葉はない。単に「イエス・キリストの福音」である。マルコ福音書においては1:1を含めて「神の子」という言葉は4回しか出てこない。面白いことに、他の2回は悪霊の発言である(3:11、5:7)。もちろんマルコもイエスが「神の子」であることを信じている。だからと言って、「神の子」という言葉を多く繰り返せば、いいというわけではない。むしろ「神の子」という言葉、どういう場所で、どう語るのかが重要である。マルコは福音書において徹底的に人間であるイエスを語る。そして、そのイエスは人間として十字架にかかり処刑された。そしてその十字架の直後、処刑を実行したローマの百人隊長が「本当にこの人は神の子だった」(15:39)と語る。いや、マルコは「語らせる」。何という結論、何という結末。これがイエスという人間の総括である。しかもそれを「信仰者の言葉」ではないというところが凄い。だから冒頭の「神の子」という言葉は後代の信仰深い人の挿入句であると思われる。



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