ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

現代語版イミタチオ・クリスチ第1巻上(第1章〜第17章)

2016-11-29 08:50:39 | 現代語版イミタチオ・...
現代語版イミタチオ・クリスチ第1巻上(第1章〜第17章)

第1章から第9章までは、著者ホロートが修道院に入る前までの日記である。
第10章から第17章までは、修道院に入って見習い修道期間に書いた日記である。

第1巻 霊的生活の秘訣

第1章 キリストに倣う

(1) 「わたしに従う者は暗闇の中を歩かない」(ヨハネ8:12)と、キリストは言われる。明るい人生を歩みたいと思うならば、キリストに倣えばよい。1:1:1~2
註:これが「イミタチオ・クリスチ」の出発点。
(2) キリストに倣うこと、これがすべての教理を学ぶよりも大切である。ここに美しい人生の秘密が隠されている。1:1:3~4
(3) 聖書を読みながら、聖書に従わない人が多い。その人たちはキリストの心を持っていない。1:1:5
(4) 聖書を学び、それを味わえば、この世の空しいものから離れ、全生涯をキリストの生き方に合わせようと願うはずだ。1:2:6
(5) 三位一体についてどれ程詳しく学んでも、三位一体の神に従わないならば、何の益にもならない。1:1:7
(6) 高邁な言葉、難しい哲理が、人を清くする訳ではない。ただ誠実な生き方だけが、神と人から愛される人格を作る。1:1:8
(7) 懺悔の言葉を知っていても、懺悔しなければ何にもならない。1:1:9
(8) たとえ聖書の言葉をよく知り、神学的知識が豊富でも、神に仕え、全身全霊をもって神を愛する心がなかったら、「空の空、空の空、いっさいは空である」(コヘレト1:2)。1:1:10~11
(9) 人間の知識に頼らず、神の御心を行うことこそが、最上の知恵である。1:1:12
(10) むなしい滅びゆく宝を追い求め、それに信頼するのは、愚の骨頂である。1:1:13
(11) この世の栄誉を慕い、それに慰めを求め望みを置くのは全く空しいことである。1:1:14
(12) 肉体的快楽を追い求め、それを得た瞬間は満足しても、そんなものはすぐに消えてしまう。肉体は滅びるものだからである。1:1:15
(13) 聖なる生活を求めず、肉欲に支配されている人生を送りながら、その長寿を願うことは空しい。1:1:16
(14) 憐れな人とは、この世に執着して、神の裁きを忘れる人だ。賢者は言った、「目で見たいとものには限りがなく、耳には満足ということが無い」(コヘレト1:9)。1:1:17~18
(15) この世の滅びるものから、見えない永遠のものに方向転換せよ。この世への執着はあなたの良心を弱め、神の恵みへの願望を失わせる。1:1:19~20

第2章 自分自身への評価

(1) 人間は知識を求める。しかし神への畏れない知識は無意味である。森羅万象の知識を誇る学者よりも、神を畏れる無学な人の方が、神の前では優れている。1:2:1~2
(2) 自分自身を知れば知るほど、人間は謙遜になり、他人の称賛などうれしくない。1:2:3
(3) たとへ私がこの世の知恵に通じていても、愛がなければ、真の審判者である神の前では何の得にもならない。1:2:4
(4) 過度の知織欲は人格を破壊する。そこには自分で克服できない壁があり、偽りを生む危険がある。1:2:5
(5) 学者はとかく尊敬されたり、賢いと言われたがるものだ。1:2:6
(6) 世の中にはそれを知ったからといっても、魂の救いには何の役にもならないものが多い。1:2:7
(7) 自分自身の心に喜びを与えるもの以外のことで苦労することは愚かである。1:2:8
(8) 何でもよく知っているということは、心の満足にならない。しかし潔白な生活は心を慰め、神から信頼される。1:2:9
(9) 多くのことを知れば知るほど、その生活を清くしなと、いっそうきびしい審きを受ける。 だから多少の知識を得たからと言って、思い上がってはならない。1:2:10~11
(10) 多くのことを知っているとしても、知らないことに比べるならば、ものの数ではない。1:2:12
(11) 世の中には自分よりはるかに賢い人がいるのに、なぜ自分自身を他人より上だと思うのか。1:2:13
(12) 他人から有益なことを学ぼうとするなら、何にも知らない馬鹿だと思われなさい。1:2:14
(13) 自分自身を知り、それを低く見積もり、謙遜になれること、また、他人を高く評価すること、これが最高の知恵である。1:2:15
(14) 他人は罪を犯したり、あるいは失敗したりしているのを見ても、それだからといってその人より自分をましな人間だと思ってはならない。人間は将来のことを知らないからである。1:2:16
(15) 人間はすべて脆い存在ではあるが、自分自身が最も脆い人間だと思うべきである。1:2:17

第3章 真理の教え

(1) 間違いやすい言葉や、曖昧なイメージによらず、事実そのものから真理を学べる人は幸いである。1:3:1
(2) 私たちの思い付きや直観は、しばしば私たちを騙す。私たちは事柄の全体を見ることができないからである。1:3:2
(3) いわゆる神秘的真理といわれる事がらについて、いろいろ論じても無意味である。それを知らないからといって、裁かれることはない。1:3:3
(4) 本当に重要なことをゆるがせにして、珍奇で危ない事がらに心を向けるのは、馬鹿げている。1:3:4
(5) 永遠のみ言葉が内から語りかける人は、馬鹿げた議論に惑わされない。このみ言葉において、初めて人は正しい判断が出来る。このみ言葉に万物は帰一し、この言葉において万物を見る人は、心穏やかになれる。ああ、永遠の真理である神よ、無限の愛の中に私を居らせてください。1:3:5~8
(6) 多すぎる情報は私たちを疲れさせる。私の知りたいことがすべて、主の中にある。1:3:9
(7) すべての学者よ黙れ。すべての被造物よ、静まれ。私は主のみ言葉だけを聞きたいのだ。1:3:10
(8) 人間は神に近づき、心が純粋になればなるほど、神の厳粛な真理をいとも簡単に悟る。1:3:11
(9) 自己を捨てて、すべてのことを神の栄光を求めている人は、多くのことに関わっても心を乱すことはない。1:3:12
(10) 最終的に人間を煩わすのは、自分自身への未練と自分の心の情愛ある。1:3:13
(11) 信仰深い人は、いずれ棄てなければならないものを心の中で整理している。棄てるべきものと護るべきものとを判別するのは、自分の好みではなく、冷静な理性的判断に従う。1:3:14~15
(12) 自分自身との闘いは、この世における通常の闘いより厳しい。その闘いは、昨日より今日、今日より明日の私が霊性において進歩し、より強い者になること目指すものである。1:3:16~17
(13) 現実における完全は必ず多少の不完全を含む。同様に、私たちの観想による知識には多少の不明の部分がある。1:3:18
(14) 控えめの自己認識の方が、深遠な学問的研究よりも、より確実な神への道である。1:3:19
(15) 学問には学問としての存在価値はあるが、それよりも純心は良心と聖なる生活はそれ以上に尊重されるべきである。しかし多くの場合、聖なる生活よりも学問的努力が評価されるが、それによって得られる成果は少ない。1:3:20~21
(16) 研究生活に情熱を燃やすよりも、生活を整えることに熱心であれば、修道院内にこれ程の不真面目さも生じないであろうし、世間から糾弾される罪やスキャンダルは起こらないであろう。1:3:22
(17) 最後の審判においては、私たちは何を読んだか、何を考えたか、何をしたか、いかに巧く語ったかではなく、いかによく生きたか、が問われるであろう。1:3:23
(18) 私たちが教えを受けた学者や教師たち、彼らは多くの称賛を受け、尊敬されていたが、今では別の人たちがその座に座っている。あの人々は今どこにいるのだろう。彼らは、その生存中は何者かであるように見えたが、今では彼らの噂にすら上らない。この世の栄誉とはそんなものである。1:3:24~26
(19) 学者といえども、生きることと学問とが一致してこそ、学ぶ価値がある。1:3:27
(20) 神に仕えるという姿勢がなく、ただ学問的研究に没頭したために、この世の空しい学問において滅びたのである。彼らは謙遜さを学ぶよりも、栄誉を求めたため、彼自身の思索において空しくされたのだ。1:3:28~29
(21) 神ヘの愛において偉大な人こそ、真に偉大である。1:3:30
(22) 自分を小さく評価し、無上の栄誉をも無価値とみなす人こそ、真に偉大である。1:3:31
(23) 聖パウロは言う。「キリスト・イエスために凡ての物を損せしが、これを塵芥のごとく思う」(フィリピ3:8)。このような人こそ、真に偉大である。1:3:32
(24) 神の御旨を行い、自分の意志を捨てる人こそが、真の学者である。 1:3:33

第4章 慎み深いこと

(1) 人から聞いたことを簡単に信じてはいけない。そのことがどういう風に展開するのか事態の推移をよく見て、神の前で熟慮すべきである。1:4:1
(2) 人間は弱い存在なので、良いことよりも悪いことの方が早く伝わる。1:4:2
(3) 経験豊かなしっかり人間は、聞いた話を軽々しく信じない。なぜなら、彼らは人間の弱点を弁えていて、良いことよりも悪いことの方が偏って語るということを知っているからである。1:4:3
(4) 落ち着いて行動し、自分自身の考えを語る場合にもがむしゃらに主張しないことが賢明である。1:4:4
(5) 人の語ることを軽々しく信自ないことも重要であるが、 人から聞いたことを不用意に語らないことも大雪である。1:4:5
(6) 経験豊かで、良心的な人から忠告を受けた場合、自分自身の意見よりも、目上の人の意見を聞くことが賢明である。1:4:6
(7) 誠実な人は神から知恵を授けられ、多くの事柄に経験豊かな人間のように行動する。1:4:7
(8) 謙遜な人は、神に従うので、すベてのことに賢くなり、いつでも平静でおられる。1:4:8


第5章 聖書を読むべきこと

(1) 聖書を読むとき、美文を期待してはならない。真理を求めるべきである。1:5:1
(2) 聖書を読むとき、著者と同じ精神で読むべきである。1:5:2
(3) 聖書を読むとき、論議の対象として読むのではなく、魂の糧として読むべきである。1:5:3
(4) 聖書を深淵玄妙な書として読むと同時に、敬虔単純な書としても読むべきである。1:5:4
(5) 著者たちの学識の深さ、浅さを超えて、純粋な真理への愛の書と読むべきである。1:5:5
(6) 聖書の著者たちは過去の人であるが、書かれた書は現代へのメッセージである。1:5:6
(7) 聖書の各巻は神の配慮により、全体としてバランス良く選ばれている。1:5:7
(8) 聖書を読むとき、単純に読み過ごすべきところを、私たちの好奇心に従って無闇に詮索すると、聖書が全体として語ろうとしていることが混乱する。1:5:8
(9) 聖書から何かを学ぼうとするなら、謙遜単純に素直に読むのがいい。不要な学者の名前によって妨げられてはならない。1:5:9
(10) 聖書が語る言葉に耳を傾け、黙想せよ。つまらないと思われるところも、理由なしに語られてはいない。1:5:10

第6章 過度の情愛を避けよ

(1) 人は何かを過度に求めると、たちまち不安になる。1:6:1
(2) 傲慢で貪欲な人は、平安を得ないが、貧しく謙虚な人は、常に平安のうちにある。1:6:2
(3) 先ず自分自身を克服せよ。そうすれば簡単に誘惑に負けないし、チョットしたことで落ち込むこともない。1:6:3
(4) 自分自身を克服できな人は、肉欲の奴隷になりやすく、そこから脱出することができない。そういう人はそれを奪われたら、もだえ苦しむ。あるいはその欲望が満たされると、良心の呵責に悩まされ、情欲に負けた自分自身を惨めに思う。1:6:4~6
(5) 心の安らぎは情欲に逆らうことによって飲み得られる。だとすると、真の平安は外的なものによって向けられて得られるのではなく、自分自身の心の問題である。1:6:7~8

第7章 空しい希望と自慢話

(1) 人間または被造物に信頼をおく人は馬鹿だ。1:7:1
(2) あなたの造り主である神だけを信頼しなさい。神のため隣人に仕えることを恥ずかしいことと思ってはならない。1:7:2
(3) あなた自身を頼りにしないで、神を頼りにしなさい。1:7:3
(4) あなた自身の最善を尽くせ。そうすれば神はあなたの善意を助けられる。1:7:4
(5) あなた自身の学識を頼りにしてはならない。神は謙遜な者を引き上げ、傲慢な者を引き落とす。1:7:5
(6) 富んでいることを誇るな。また、地位の高い友人のことを自慢するな。ただ全てのものを与え、特にご自身をも与えようとされた神のみを誇りとしなさい。1:7:6
(7) あなた自身の肉体の強さや美しさを自慢するな。そんなものはチョットした病気や怪我でなくなってしまう。1:7:7
(8) あなたの才能や能力を誇りとしてはならない。それらは神から与えられたものであり、それらを誇りにしたら、与え主は悲しく思う。1:7:8
(9) あなた自身を他の人より勝れていると思ってはいけない。そんなことをしたら、あなたは神によって他の人よりも劣った人間とみなされる。神の御前では謙遜な者が高く評価されるのだ。1:7:9
(10) あなた自身の善行を誇りとしてはならない。神の判断は人間の半だと違うからである。多くの場合、人間が「良いな」と思うことが、神には「嫌なこと」かも知れない。1:7:10
(11) もし、あなたに何か良いものがあるとしたら、他の人にはもっと多くの良いものあると思ったほうがいい。そうすれば謙遜であり続けることができる。1:7:11
(12) 他の人があなた自身よりも優れていると思っても、あなたには少しも害にならないが、誰かをあなたより劣っていると考えることは、あなたには大きな害になる。1:7:12
(13) ずっと平安で居られるのは、謙遜な人へのご褒美である。しかし高慢な人の心には、妬みや怒りが絶えない。1:7:13

第8章 人間を信じるな

(1) 相手構わず、誰にでもあなたの本心を打ち明けてはならない。誰かの助言が欲しいときには、神を畏れる、賢明な人に相談しなさい。1:8:1
(2) 若者や見知らぬ人とは距離を保て。1:8:2
(3) 金持ちと言われている人の機嫌をとるな。また、社会的地位の高い人と親しくなるな。1:8:3
(4) 謙遜な人、信仰の深い人、礼儀正しい人と親しみ、心から交わりなさい。1:8:4
(5) 異性との交際にはあまり深入りしないように。1:8:5
(6) 神や天使たちとの親しくなり、人間との交わりには距離を保て。1:8:6
(7) すべての人を愛せよ、ただし親しくなりすぎてはならない。1:8:7
(8) 私たちは顔と顔とを合わせれば、親しくなれると思い込んでいるが、本当はそのことによって人びとは私の中にある悪い性格を見つけ出して、機嫌が悪くなるのだ。

第9章 従順・服従

(1) 権威者を敬い、無駄な自己主張をせずに、素直に生きることは、偉大なことである。1:9:1
(2) 人の上に立つよりも人の下にいる方が、気楽である。1:9:2
(3) 世の中には喜んで従うのではなく、イヤイヤ従っている人が多い。そういう人たちは、何時も不満だらけで、ブツブツ呟いている。心の自由を得るためには、全身全霊をもって、喜んで神に仕えなければならない。1:9:3
(4) 一度、自分の思うままに、好きなところに行き、生きてみなさい。どこに行っても、そこは安住の地にはならず、結局、あなたに定められている通りに素直に従って生きるほかはない。1:9:4
(5) 誰でも自分の居場所を変えたらもっと良いことがあるのではないか想像しているが、人間はその重いに騙されるのだ。1:9:5~6
(6) 誰でも自分の好き勝手に生き、気の合った人と親しくなりたいと思っている。しかし、キリストがあなたの中に居られたら、本当の安らぎを得るためには、あなたの思いを捨てなければならない。すべてのことについて完全な知識を持っている人間なんかいやしないのだ。だから、あなたの思いに拘わらず、他人の意見も聞かなければならない。そこに良い意見があれば儲けものだろう。1:9:7~10
(7) 相談というものはされるよりも、する方が安全である。相談される者も相談する者も、両方共に良い意見がある場合もある。だから、他人の意見を聞くべき時に、あえて聞かないということは、高慢と強情の印である。1:9:11~12

第10章 お喋りの弊害について
(1) できるだけ人びとが大勢集まってお喋りしている場所に近づかないようにしなさい。そこで話されていることが、たとえ本当だとしても、そんなことを知っても何も益にならない。無駄な噂話は、私たちの心を汚し、つまらんことに囚われてしまう。後で、黙っていた方が良かったとか、あの場にいなかった方がよかったと思うことになるだろう。1:10:1~3
(2) 人間はなぜ無駄なお喋りや雑談が好きなんだろう。いったん、雑談を始めると元の沈黙に戻ることがとても難しくなるのに。私たちが雑談が好きなのは、話の内容というより隣人と一緒にいることによって安らぎを求め、お互いの好きなこと、嫌いなことを話したいのである。1:10:4~6
(3) 安らぎを求めた雑談は無駄な時間となる。外からの安らぎは内からの安らぎの妨げとなる。だから私たちはお互いに、それぞれの時間を無駄にしないようにしようではないか。1:10:7~9
(4) 人びとと話し合う場合には、お互いの人格を高め合うような話をしなさい。1:10:10
(5) 怠け癖や、向上心の欠如が、私たちの口の軽さの原因である。1:10:11
(6) 信仰についての会話や神に対して誠実な人との交わりは、霊的政庁に有益である。1:10:12

第11章 心の安らぎと霊的成長について

(1) あなたとあまり関わりのない人の言葉や行動に深入りしなければ、あなたの心はゆっくりと安らぐことができる。1:11:1
(2) あなた自身の生活の煩わしさから逃げて、他人の仕事に興味を懐いても、それ心の安らぎは得られない。1:11:2
(3) 心の単純な人(the single-hearted)は幸いである。なぜならその人は心の安らぎを豊かにが与えられる。1:11:3
(4) なぜ、多くの聖人たちは完全でありえたのか、なぜ、神について深く思う(comtenmplative)ことができたのだろうか。それは彼らがこの世への野心を完全に断ち切って、ただひたすらに神への思いに集中することができたからだ。1:11:4~5
(5) わたしたち凡人は、目先のことに精一杯で、自分の欲望に囚われ、一つの欠点すらも克服できずに、神の恵みのうちに日々に成長するという意欲さえ失い、生ぬるい世俗的な現状に埋没している。1:11:6~7
(6) 我欲とこの世への執着を完全に断ち切りさえすれば、救いの道を悟り、神への思いが育つだろう。それを妨げているものは、私たちの願望であり情念であり、聖人たちの模範に従おうとする意欲に欠けていることである。だから、チョットした困難に遭遇すると、たちまち投げだし、この世が与えてくれる慰めへと飛んでいく。1:11:8~10
(7) 信仰の勇者として立ち上がれ。どのような誘惑も斥けて、堅く立てば、必ず天からの助けが来る。主は常に主を信じて闘っている者のために、待ち構えておられる。そして私たちが勝利する道を準備しておられる。1:11:11~12
(8) もし私たちが宗教的行事や目に見える儀式や形式にこだっているならば、私たちの情熱はすぐに涸渇してしまうであろう。この世への執着を断ち切り、心の安らぎを得るために、あなたの命の根元に斧を打ち込みなさい。1:11:13~14
(9) 年に一つずつ、悪の根を断ち切れば、あなたは確実に浄くなれる。ところが、あなたはその逆を行っているではないか。信仰の初めの頃より、今の方が良くなっているとは決して言えない。毎年、一歩ずつ前進してなければならないのに、むしろ退化しているではないのか。1:11:15~17
(10) 信仰の始めにもう少し厳しくしていたら、時と共に楽になっていたであろう。 1:11:18
(11) 習慣を改めることは難しい。それよりもっと難しいことは自分の意志に反することをすることである。しかし、習慣や自分の意志を自由に出来ないで、もっと大きな困難を打ち破ることが出来るのか。先ずは自分の癖を正常に戻し、悪習慣を捨てよ。そうしなければ、だんだん状況はひどくなってくる。あなたの生き方が変われば、あなた自身の心の奥底に安らぎが与えられ、友人たちは喜び、から見直される。そうなるとますます霊的進歩に熱心になる。1:11:19~22

第11章 心の安らぎと霊的成長について
(1) あなたとあまり関わりのない人の言葉や行動に深入りしなければ、あなたの心はゆっくりと安らぐことができる。1:11:1
(2) あなた自身の生活の煩わしさから逃げて、他人の仕事に興味を懐いても、それ心の安らぎは得られない。1:11:2
(3) 心の単純な人(the single-hearted)は幸いである。なぜならその人は心の安らぎを豊かにが与えられる。1:11:3
(4) なぜ、多くの聖人たちは完全でありえたのか、なぜ、神について深く思う(comtenmplative)ことができたのだろうか。それは彼らがこの世への野心を完全に断ち切って、ただひたすらに神への思いに集中することができたからだ。1:11:4~5
(5) わたしたち凡人は、目先のことに精一杯で、自分の欲望に囚われ、一つの欠点すらも克服できずに、神の恵みのうちに日々に成長するという意欲さえ失い、生ぬるい世俗的な現状に埋没している。1:11:6~7
(6) 我欲とこの世への執着を完全に断ち切りさえすれば、救いの道を悟り、神への思いが育つだろう。それを妨げているものは、私たちの願望であり情念であり、聖人たちの模範に従おうとする意欲に欠けていることである。だから、チョットした困難に遭遇すると、たちまち投げだし、この世が与えてくれる慰めへと飛んでいく。1:11:8~10
(7) 信仰の勇者として立ち上がれ。どのような誘惑も斥けて、堅く立てば、必ず天からの助けが来る。主は常に主を信じて闘っている者のために、待ち構えておられる。そして私たちが勝利する道を準備しておられる。1:11:11~12
(8) もし私たちが宗教的行事や目に見える儀式や形式にこだっているならば、私たちの情熱はすぐに涸渇してしまうであろう。この世への執着を断ち切り、心の安らぎを得るために、あなたの命の根元に斧を打ち込みなさい。1:11:13~14
(9) 年に一つずつ、悪の根を断ち切れば、あなたは確実に浄くなれる。ところが、あなたはその逆を行っているではないか。信仰の初めの頃より、今の方が良くなっているとは決して言えない。毎年、一歩ずつ前進してなければならないのに、むしろ退化しているではないのか。1:11:15~17
(10) 信仰の始めにもう少し厳しくしていたら、時と共に楽になっていたであろう。 1:11:18
(11) 習慣を改めることは難しい。それよりもっと難しいことは自分の意志に反することをすることである。しかし、習慣や自分の意志を自由に出来ないで、もっと大きな困難を打ち破ることが出来るのか。先ずは自分の癖を正常に戻し、悪習慣を捨てよ。そうしなければ、だんだん状況はひどくなってくる。あなたの生き方が変われば、あなた自身の心の奥底に安らぎが与えられ、友人たちは喜び、から見直される。そうなるとますます霊的進歩に熱心になる。1:11:19~22

第12章 患難について

(1) たまには苦しい目に会うことは良いことだ。人はそのことを通して、私はこの世では仮住まいの旅人にすぎず、ここは安住の地ではないことを自覚させる。1:12:1
(2) 時にはいろいろな矛盾に耐え正しいことも誤解されることも悪いことではない。そのことによって、傲慢になることを防ぎ、虚栄から身を守ることが出来る。1:12:2~3
(3) この世では、あなたの善意が踏みにじられ、信用されず、悪口を言われる。まさにその時こそ、あなたは内なる証人として神の助けを求める。1:12:4
(4) 苦しみの中で、人間は人間の手による慰めを求めるのではなく、神の慰め、神に全面的な信頼をおかねばならない。神を畏れている人が、悪意によって苦しめられ、試みられ、迫害されているときこそ、彼は最も神を必要とし、神がなければ何も出来ないと思う。彼の心は破れ、うめき、さけび、この不安から救われ、キリストともにあることを願う。1:12:5~6
(5) これらすべてのことを通して、この世では決して完全な安全、完全な安らぎはあり得ないことを学ばされる。1:12:7

第13章 誘惑を斥ける

(1) この世に生きている限り、苦難と誘惑がある。だからヨブも言っている。「それ人の世にあるは、戦闘にあるがごとし」(ヨブ7:1)。だから人間はそれぞれ苦難と誘惑に備えて、悪魔に隙を与えないように、怠らずに祈り、監視しなければならない。悪魔は誘惑する人間を夜も昼も眠ることなく探し求めている。1:13:1~3
(2) 誘惑されないほど完全な人間はいない。1:13:4
(3) 誘惑されることは、面倒なことではあるが、時には良いこともある。人間は誘惑されることによって弱さを自覚し、謙遜になり、浄められる。1:13:5
(4) すべての聖人たちも試みと誘惑を経験し、それによって精進したのである。あた同時に誘惑に勝てなかった人たちは神から離れていったのである。1:13:6~7
(5) この世には、誘惑も試練もないような神聖な教団(position so sacred)もなければ、神秘的な場所(place  so secret)もない。ましてパワーポイントなど存在しない。1:13:8
(6) 人間は生きている限り試練から完全に自由でありえない。なぜなら人間は肉欲(concupiscence)によって生まれたのであり、誘惑の根源は私たち自身の中にある。1:13:9
(7) 一つの誘惑を乗り越えたら、またすぐさらに大きな誘惑が襲ってくる。こうして人間は常に誘惑と戦わねばならない。創造当時の完全なる幸いから脱落してしまった結果である。1:13:10
(8) 多くの人は誘惑を避けようとして逃げ回るが、逃げれば逃げるほど誘惑する力は増幅する。だから逃げることは有効では無い。誘惑に対しては立ち向かい、勝たなければならない。私たちは忍耐と謙遜によって、誘惑よりも強くならねばならない。1:13:11~12
(9) 誘惑を表面的に追い払うだけでは無駄で、またすぐにもっと強くなって戻ってくる。だから誘惑に勝つためには誘惑の根を断たねばならない。そのためには人間の強制力によっては出来ない。ただ神の助けによって忍耐強く、我慢強く、時間をかけて克服するしかない。1:13:13~14
(10) 誘惑に対しては友人たちの助言も必要である。相談された人は乱暴に対処してはならない。むしろ、自分自身の問題として、慰め励ますように配慮すべきである。1:13:15
(11) 悪い道への誘いは、神を信頼せず、気ままに生きる(instability)ところから始まる。舵を失った船が、波のまにまに、あちらこちらに漂うように、人生の目標を見失い、どうなってもいいといい加減な生き方をしている人は、どんな誘いにも気軽に乗ってしまう。1:13:16~17
(12) 火が金を吹き分けるように、誘惑は人間を吹き分ける。私たちは自分にどれだけの力があるかを知らない。しかし誘惑は私たちがどれ程の人間であるかを明らかにする。1:13:18~19
(13) 誘惑の始まりを警戒しなければならない。ある詩人が言っている。「病気は罹り初めが重要だ。始めに軽く見ていると、病気が本格化したときには、いくら薬を飲んでも効果がなくなる」オヴェディウス『恋の薬について』91)。誘惑の始まりはほんの一寸の思い付きかも知れないが、それが心の中に入ってくると想像力によってどんどん膨らみ、遂には楽しそうだという思いと悪いことだという思いとが交錯する。誘惑にだから誘惑には初めが肝心で、そこで抵抗しなければ少しずつ、少しずつ侵入してくる。もうそうなると手遅れで、悪の勢力はますます強くなり、人間は弱くなる。1:13:20~23
(14) 誘惑に勝つ秘訣は祈りである。だから私たちはますます熱心に誘惑に勝ち、人生を全うできるように祈らねばならない。1:13:24
(15) あなたの進歩の跡は、誘惑と苦難に立ち向かう姿勢によって計られる。まさにそこにこそ、あなたの価値が現れる。1:13:25
(16) 誘惑も苦難もないところで、いくら信仰に熱心でも、少しも褒められたものではないが、そこであなたの忍耐が評価される。1:13:26
(17) 大きな誘惑には打ち勝っても、日常的な小さい誘惑には負ける人もいる。その時には小さな誘惑に弱い自分自身を自覚し、謙遜を学びなさい。1:13:27

第14章 人を裁くな

(1) 自分には厳しく、人には優しくせよ。人を裁くのは難しく、時には誤解したり、過ちを犯しやすい。しかし自分自身についてはありのままに裁くことが出来るはずだ。1:14:1~2
(2) 先入観を持って人を裁きやすい。なぜなら、人間は個人的な好き嫌いがあるからだ。1:14:3
(3) 神第1の生活をしていたら、多少の迷いがあっても、混乱はしない。1:14:4
(4) 人間は無意識のうちに自分本位の都合に合わせて判断をし、それに気が付かないことが多い。1:14:5
(5) 人間は自分に都合の良いようにことが進むと、安心して居られるものだ。しかし、思い通りにならないと、不安になり、落ち込むものだ。1:14:6~7
(6) 考え方の違いや感じ方の差によって、親しい友人や同信の友との間にも、亀裂が入る。1:14:8
(7) 古い習慣や考え方を捨てることは簡単ではない。1:14:9
(8)  私がキリストに倣うことよりも、私自身の知性や才能を頼りにしたら、霊の人にはなれない。私たちが全身全霊をもってキリストに倣おうとするならば、神は私たちに知性や才能を捨てることを要求なさる。1:14:10

第15章 愛の業

(1) どんな目的のためであっても、たとえ人を愛するためであっても、悪いことをしてはならない。でも、困っている人を助けるためなら、良いことを止めたり、先に延ばしても構わない。なぜなら、それは良いことを放棄するのではなく、もっと良いことに変更したことになるのだ。1:15:1~2
(2) あなたが慈善事業がどれ程大規模だとしても、神はその動機を計っておられる。愛の大きさが、事業の大きさなのだ。1:15:3~4
(3) 利潤を求める人よりも、どれだけ人びとに仕えたかが、事業の大きさなのだ。1:15:5
(4) 見かけは愛の事業に見えても、実体はこの世的な欲望からなされる慈善事業もある。その動機が利己心や見返りや儲けである場合が多い。1:15:6~7
(5) 本当の慈善事業は、自分自身にとって損得を考えず、ただ神の栄光が現れるためになされるものだ。だから誰かを妬んだり、自己中心的な喜びを求めることをしない。ただ彼にとっての最高に幸せは神の祝福だけである。あらゆる良いものは泉からわき出るように神から流れいで、すベての聖徒は最終の目的地に憩うように神の中に喜んで安んじるのだ。1:15:8
(6) あなたが真の愛の花びらを一つでも持っておれば、この世のあらゆるものの空しさを悟るであろう。1:15:9

第16章 愛による忍耐

(1) 自力で改善できない欠点は神にお任せして、我慢、我慢。その結果、忍耐力が鍛えられる。忍耐力なければ、あなたの良い点を十分に発揮できない。1:16:1~2
(2) 耐えられないような試練に遭ったときには、忍耐力を強めて頂くように神に祈れ。1:16:3
(3) 何回か忠告しても聞き入れない隣人とは、友人にならなくてもいい。ただ、悪から善を引き出せる神にすべてを委ねよ。1:16:4
(4) 友人の短所や弱点には、大様に構えて我慢しよう。おそらくあなたの友人たちもあなたの短所や弱点を我慢しているに違いないのだ。自分自身をコントロールできないのに、友人をあなたの型に嵌めることはできない。1:16:5~6
(5) 人に完璧さを求めているくせに、自分の欠点を改めない人がいる。そして、人が厳しく叱られているのを見て喜ぶくせに、自分が叱られるのは嫌だという人もいる。1:16:7~8
(6) 勝手気ままな人は許せないのに、自分のこととなったら、人から口出しをされると気分を害する。人間というものは自分自身への尺度と、他人への尺度とが違う。(ダブル・スタンダード)1:16:9~10
(7) 神がすべての人間を完全な者として創造しておられたら、人間は他人の苦しみをになう余地はなくなるであろう。しかし、神は人間がお互に重荷を負い合うを分かち合う喜びを学ぶために、すべてのことを計画されたのである。重荷のない人はいない。すべてのことで満足している人もいない。だから私たちはお互いに苦労を分担し、そのことを通して共に喜びも分かち合うのだ。1:16:11~12

第17章 修道生活について

(1) 快適な集団生活をするためには、まず自分自身の意志を抑えることを学ばなければならない。とくに、修道院や修道会という特殊な集団の中で生活するためには、相当の覚悟が必要である。しかし、そこで気持ちよく生き、生涯を終えることが出来る人は幸いである。1:17:1~3
(2) 良い修道士になるためには、キリストのために馬鹿者とののしられることを覚悟せよ。1:17:4
(3) 服装やヘアスタイルも、言葉遣いや内面的な成長が伴わなければ、無意味である。1:17:5
(4) 修道院の生活において、神の前で自己を問い、魂の救いを求めないで、何か他のものを求めているとしたら、悲劇以外の何ものでもない。また、そこで、すべての人の下僕となり、すべての人に仕えようと努力しなければ、そこに長く留まることはできないであろう。あなたが修道院に入ったのは、仕えるためであって、仕えられるためではなかったはずだ。1:17:6~8
(5) あなたはここで苦行し労働するために招かれたのであって、怠惰と雑談するためではない。鉄が炉の中で吹き分けられるように、修道院生活はあなたを錬磨する。1:17:9~10
(6) 全身全霊で神を愛し、謙遜を学ぶ気がない者は修道院を去れ。1:17:11

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