ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

三木清『時局と学生』、『時局と大学』

2015-10-24 17:30:45 | 三木清関係
「時局と学生」(1937年9月20日、東京帝国大学新聞)

<この文章が東京帝国大学新聞に掲載された年の前年2、月26日に青年将校たちによって226事件が起こった。その時、その当時の大学生たちは何を考えていたのであろうか。今日と比べると、「時局」についての緊迫度はかなり違う。また、「知識人」ということについても今日の学生とはかなり異なった自覚があったように思う。それらの「時代の差」は確かにあるが、今がまともなのか、あの時代が異常だったのか。議論すべきことは多多あるが、三木清が当時の大学生に語りかけている基本的理解は現代でも通じるであろう。文屋>

<以下、本文>
何だか落ちつかなくて勉強が手に着かないという、——これが恐らく多くの学生の偽りのない気持であろうと思う。そしてそれはもっともな気持である。
このような気持ちでいるよりも、どちらかに何とか決めて貰いたい、速く決ってしまった方がどれだけ楽か知れない、と考える者も多かろうと思う。しかしここまで来ると、すでにそのうちに危険が含まれている。不安は人間を焦繰せしめ、そして焦繰は人間を衝動的ならしめる。そのとき人間はいかなる非合理的なものにも容易に身を委せ得るのである。このようにしてかつて多くの独裁者は人民を先づ不安と恐怖とに陥れることによって彼等を自己の意のままに動かそうとしたのである。

不安は人間を衝動的ならしめるという心理学的命題は、今日、知識人をもって任ずる学生諸君が深く理解しておかねばならないことである。この命題が打倒する現在こそ、諸君はいよいよ諸君の知性を研ぎ澄ますことが必要になっているのである。不安は知的探究の拍車とならねばならず、その場合において意味をもっている。

時局のことなど気にしないで学業に専心することが大切だと教える者があるかも知れない。この言葉は恐らく諸君にとって慰めとはなり得ないであろう。それは戦場とは関係のない老人の言葉だ。諸君はもちろん決して研究を抛棄すベきでない。現に戦乱の巷に踏み留まって研究を継続しつつある上海自然科学研究所の新城博士等の活動に我々は感激を感じる。銃を執る日が来るまで我々は研究を止めてはならない。我々は不安のために衝動的になることなく、我々の精神の平静をいよいよ確保して我々の研究を進めなければならない。すべての知識人が確保されたその精神によって結び付くことがこの際最も肝要である。戦争は文化にとって決して好都合なものではない。しかし文化の荒廃の中において最後まで防ぎ続けられる一粒の純なる種子からいつかは大きな幹を生じ、花を開くこととなるのであって、各人がこの一粒の種子となる覚悟が必要であろう。

しかし時局に対して眼を蔽うことは不可能である。今度という今度は、もはや誰一人も逃れ難く歴史の車輪の動きの中に引き入れられざるを得ない状態に立ち至っている。あらゆる気休めは自己欺瞞である。しかしその運動の中に入ることによって唯、衝動的に動くことは最も響戒すベきことである。 事態が近ければ近いほど我々はそれを冷静に認識することに努力しなければならない。

通信機関は極度に発達した。しかるにまさにその今日においてほど事実が知り難くなっていることもないのである。我々はこの事を先づつねに心に入れておかねばならない。現象に追随していく実証論が今日ほど危険になっていることも稀である。今日の実証は明日の実証によって破られるであろう。このとき我々の頼り得るものは理論である。理論の力に対する信頼が今も変わらず知識人の誇りでなければならない。

戦争は政治の延長であり、政治の一つの形式である。このことは戦争が長引くにつれて、あるいは戦争が一旦終結した後においてますます明瞭になるであろう。個々の戦闘に心を奪われて全体の戦争のことを忘れることはもとより、戦争という特別の現象にのみ注意して政治の全体の動向を見逃すようなとがあってはならない。今日の政治は戦争に従属しなければならないと我々の政治家はいう。しかし事実はまさに逆であって戦争は政治に従属しているのである。従って我々は何よりも現代の政治について正しい認識を獲得しなければならず、それによってこそ戦争の意味も把握し得るのである。諸君の先づ身に着けねばならない武器は知性である。それが武器としては小さいものであるにしても、諸君の有する最小のものを拠棄しないことが大切である。

三木清『時局と大学』(1937年10月18日、東京帝国大学新聞)

<今、三木清が日本の大学を見たとき、どういう発言をするであろうか。今でも、大学の本質は「真理の探究である」と言うであろうか。先ほど、学生に対する三木の文章を掲載した。この文章は、その翌月に掲載されたものである。大学関係者はぜひ、一読して欲しい。文屋>

<以下引用>
学制改革は我が国において既に多年の懸案である。それは早晩実施されるであろうし、また実現されねばならないであろう、政府の企画しつつあるこの学制改革の中に大学が含まれていることは勿論である。このような制度改革の問題を別にしても、近時文化統制あるいは思想統制は次第に強化されつつあり、この統制から大学もまた決して除外されていないのである。学制改革は現内閣においても重要政策の一つとして掲げられてをり、それは支那事変の勃発のため、未だ具体的に着手されていないにしても、思想統制の方は時局の圧力によってますます強化の一路を辿っている。

このような事情のもとに大学はみづから自己の意志を決定することを要求されている。大学は自己の運命を断じて外部の力に委ねるベきでなく、かえってこれに対して自己の存在を強く主張しなければならない。その意味において東京帝国大学が他に先んじて大学制度審査委員会の設置を企てその準備委員会が活動を開始したということは、まことに多とすベきである。

制度の問題はもとより単にそれだけのことであり得ない。大学の制度の改革は必ず大学の本質もしくは精神の問題に触れてくる。例えば現在進みつつある思想統制が更に一段と強化されるような場合、それは当然大学の制度の改変を必要とするに至るであろう。大学における制度の問題とその精神の問題とは相関連している。重要なのはむしろ後者であるといはねばならないであろう。なぜなら大学の制度の改革の問題は、特に今日にあっては、外部から思想統制の圧力が次第に加わって来る情勢のもとにおいて、大学が自己の本質もしくは使命を妨げられることなく実現し得る為に、いかにその制度を整うベきかということでなければならない故である。

大学の使命は、田中耕太郎教授も言われているごとく、真理の探求にある。そこに大学の存在の意義は存するのであって自己の本質を否定し去るべきでない限り、大学はこの使命を忠実に遂行しなければならない。大学の目的を単に技術的訓練に局限しようというが如きは大学の特殊性を抹殺するものである。大学論の根本に関して議論の分れるところは主として大学と国家との関係についての問題であるが、真理の探求という使命は国家の目的と何等矛盾するものでない。なぜなら真理の探求は国家の発展にとってつねに必要であり、また有益であるからである。科学的探求は時として政府の希望するような結果に達しないことがあるかも知れない。その場合には、その結果が真に客観的である限り、時の政府の希望するところが主観的なものであることを示すわけであるから、政府はかえってこのような客観的真理に従って自己の主観的意図を反省し、是正すべきであって、このようにしてこそ国家の正しい、善い発展は期し得られるのである。真理が不要に帰するということはあり得ない。

大学の使命が真理の探求にあるとすれば、大学はこの使命の遂行に欠くベからざる条件を確保しなければならない。この条件というのは研究の自由である。国家も、真理の探求が国家の発展にとって必要であり、また有盆である以上、大学に対して研究の自由を認めなければならない筈である。

今日の非常時局において真理の探求が不要になったのでも無意味になったのでもない。否、むしろ一時の興奮に駆られ易い今日のような情勢においてこそ、冷静な科学的探求が国家の正しい、善い発展のためにいよいよ強く要求されているのである。大学は自己の使命に忠実である為に、不当な思想統制を排して研究の自由を確保することが大切である。研究の自由は単に個々の教授や学生の為に要求されるのではなく、大学という一つの団体、一つの社会のためにその使命に鑑みて、要求されるのである。

帝国大学の教授は、田中教授もいわれるように、他の一般の官吏とはその性質と任務とを異にするとすれば、大学自身が官僚化すベきでないことは勿論である。しかるに時世の波に押されて近来大学自身が官僚化していくというようなことがないであろうか。大学制度の改革はどこまでも大学の本質の自覚の上に立って行わるべきであって、それが逆に、現在大学の陥り易い傾向であるところの大学の官僚化をかえって助長するような結果にならないように特に注意しなければならない。時局は大学の使命のますます重きことを感ぜしめる。東京帝国大学における大学制度審査委員会が自己の見識の高さを示すことがこの際期待されるのである。<以上>


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