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現代語版イミタチオ・クリスチ第3巻 聖餐に与る者の心得

2017-10-16 20:33:44 | 現代語版イミタチオ・...
現代語版イミタチオ・クリスチ第3巻 聖餐に与る者の心得

第3巻(ア・ケンピス版、いわゆる岩波版では第4編)は、ホロートの聖餐式に関する手記を収録したものである。ア・ケンピス版では「祭壇の秘蹟について」と題されているが、原写本には「聖餐拝受について」となっている。最後の18章は聖職者に対する勧めで、おそらくこれはホロート自身の筆ではなく、トマスの同僚スフォーホーヴェンの手によるものである、とされている。

聖餐式とは、一種の「秘儀(ミステリオン)」なので、どうしても普通の日本語になじまない単語がかなり使われています。例えば「御身体(みからだ)」とか「御血(御血)」、「拝受」、「燔祭」、「宥めの供え物」などで、大体は、文脈から推測できると思ういますので、そのまま使わせていただきます。なお、非常に煩雑になりますので、例によって括弧内の聖書の引用は省略いたしました。だいたいは推測されると思いますが、確かめたい場合には、由木庚「キリストにならいて~イミタチオ・クリスチ」(教文館)の該当個所を開いていただくと確かめることができます。
第3巻では修道者への言葉というより、キリスト教徒一般への言葉だと思われますので、ここでは、「キリスト」と「キリスト教徒」との対話として訳しています。
第3巻には「序言」がついています。助言の内容はキリストによる「主の食卓」への招きです。


序言 主の聖卓ヘの招き(A)

キリスト:
愛する者よ、誰でも、苦労している人、重荷を負っている人は私のところにいらっしゃい。私は君たちを元気づける。私が君たちに与えるパンは、この世の生命のために与える私自身の身体である。
取って食べなさい。これは君たちのために与える私の身体です。私を記念するため、このように行ないなさい。私の肉を食ベ、私の血を飲む者は、私におり、私もその人にいます。(3:0:1~4)

キリスト:
愛する者よ、誰でも私の食卓に着きたければ着いていいのだ。君たちはすべて招待されているのだ。今すぐに私のところにいらっしゃい。私の招きを軽んじてはいけませんよ。それは今後、私から軽んじられないためなのです。終りの日に私から「去れ」と言われないためなのだ。私のところに来さいすれば、私は心から君たちを歓迎し、君たちへの愛のゆえにすべての負債を私が引き受けます。私の住まいに来さえすれば、すべての費用は私が払い、君たちには一切負担を掛けはしません。(3:0:5~7)

キリスト:
聖職でも信徒でも、善人でも悪人でも、貧しい人も金持ちも、自由にお入りなさい。君だけでなく、君に関係するすべての人たちと一緒にいらっしゃい。懺悔したいと思っている人でも、あるいは誘惑されて困っている人でも、私のもとに来れば、すべての問題は解決され、元気になります。
私はすべての人のために私自身の身体を分け与えて元気づけ、私の血で君たちを活発にします。君たちがすべての災いと悲しみを忘れるために励まし慰めます。特に罪深い生活をして、その罪の結果に悩んでいるすべての人たちよ、私のもとにいらっしゃい。(3:0:8~11)

キリスト:
愛する者よ、罪を悔い、心を改めて、私のもとにいらっしゃい。父なる神が私を遣わされたのは世を裁くためではなく、世を救うためなのです。だから私を恐れることはありません。私は喜んで君たちの罪を赦し、君たちが受けるはずの刑罰を免除いたします。私の父はすべての権限を私に委託されたのです。
繰り返しますよ。誰でお私のところにいらっしゃい。私は君たちを義と認めます。私は私自身の身体を食物とし、私の血を飲物として君たちに差し出しています。遠慮なく、私自身を食ベ、また飲みなさい。(3:0:12~16)

キリスト:
愛する者よ、私が話すことを注意深く聞き、その言葉を受け入れなさい。
いいですか、まず最初に君たちがなすべきことは、君たちが属している民族とその文化から距離を保ちなさい。次に、親族や親戚からも離れなさい。その次に、この世とこの世にあるものをすベて忘れてしまいなさい。
その上で、君自身の罪深かった過去を捨てて、私に依存しなさい。君たちの信仰と希望と慰めと生命とをすべて私にかけなさい。そうすれば、君たちの主であり、神であり、そして夫である私が、君たちを私の花嫁として美しく飾ってあげよう。
決心するのは今です。明日まで延ばしてはいけません。明日になったら君たちは心変わりし、頑固になってしまうでしょう。
君たちの救い主の声に耳を傾けなさい。救い主は君たちを自分自身の喜びのために育て、宝物のように大切にしたいと思っているのです。もっと私に近づいてください。私は君たちの魂を豊かにし、また永遠の報いとして、私自身を君たちに与えるのです。(3:0:17~25)

第1章 敬虔な心で聖餐を拝受すベきこと

キリスト教徒:
永遠の真理であるキリストよ、あなたのみ言葉はいつでもどこでも生きています。私たちはそれをただ感謝と信仰とをもって受け入れます。それは私たちのために、私たちの救いのために語られました。私たちは喜こんでそのみ言葉を受け入れ、心に深く刻みつけます。
あなたのみ言葉は愛に満ち、私たちを励まします。時には、私たちの汚れた心を明らかにしますので、聖礼典に与ることをためらわせることもあります。あなたのみ言葉は魅力にみち、私たちは惹かれますが、み言葉が甘ければ甘いほど、逆に私たちのみすぼらしさを強く感じます。(3:1:1~6)

キリスト教徒:
主なる神、キリストよ、あなたはお命じになりました。私と親しくなりたい人は、私のところにいらっしゃい。永遠の生命と栄光を得たいと願う人は、私が与える永遠の糧を受けなさい。誰でも苦労している人、重荷を負っている人は、私のところにいらっしゃい。私は君たちに心の安らぎを与えましょう。あなたが貧しい人間である私を御身体に与らせようとお招きくださった言葉は、私の耳にいかにうるわしく、やさしく、響くことでしょう。
でも、私の主よ、私のような者がどうしてあなたに近づくことが出来るのでしょうか。ご覧ください。全宇宙もあなたを入れるには足りません。だのになおあなたは、すベての者よ、私のもとに来なさいと、言われるのですか。この大きなお恵みはいったい何を意味しているのでしょうか。このような親しく、優しいお招きは何を意味しているのでしょうか。私はこのような待遇を受ける資格はありません。だから、そんなに簡単にお招きを受ける訳にはいきません。あなたをしばしば裏切り、あなたの御心を踏みにじった私、私はあなたを私の心にお迎えすることは出来ません。あなたの周りには天使らと天使長らが囲み、聖徒たちと義人たちはあなたの御前にへりくだって跪いています。そのあなたが、すベての者よ、私のもとにいらっしゃいと言われても、私は気楽に近づくことは出来ません。(3:1:7~15)

キリスト教徒:
主なる神、キリストよ、あなたご自身が「私と親しくなりたい人は、私のところにいらっしゃい」と仰いますので、やって参りました。また、「御身体に与らせよう」とお招きくださったので、あつかましくも拝受いたします。
思えば、義人であり善人であるといわれたあのノアでさえ、自分とごく僅かの家の者を救うための箱船を作るのに100年間もかかりました。それなのに私はわずか1時間ほどの準備で、これほどのお恵みによくしてよろしんでしょうか。
あなたが信頼されたモーセは、神の戒めの板を納めるため、長持ちする木で箱を作り、純金をもってそれを覆いました。それなのに私ごとき貧しい者が、ほとんど何も準備なしで、律法を定めた方、生命の与え主であるあなたの御身体を拝受してよろしいのでしょうか。
イスラエルの王たちの中で最も賢いとされたロモンは、あなたの誉れと栄えとのために荘厳な神殿を建てるために7年の間も苦労し、最後に8日間も奉献の祭を催し、そこで和解の捧げ物として15万頭もの犠牲を捧げ、ラッパの音と大きな歓呼とをもって契約の箱をおごそかに移しました。それなのに、全ての人々の中でも、最もみじめで卑しい私が、僅か半時間足らずの勉強で、全能の神であるあなたをお迎えすることなど、恐れ多いことです。私があなたを喜ばすために何をしたというのでしょうか。(3:1:16~22)

キリスト教徒:
主なる神よ、私のする善事はいかに小さく、あなたの尊い聖礼典に与るために私が費す時間はいかに短いことでしよう。私が心の底から反省したことはまれで、この世のいろいろな雑念を取り払うことなどほとんど出来ていません。
これから私は私の心の中を吟味します。聖なるあなたのみ前ではどんな汚れた思いも私の心にあっては申し訳ないし、この世への一寸した思いがあってもならないと思います。なぜなら私がお迎えするのは、天使ではなく天使の主であるあなただからです。
主なる神よ、聖なる遣物を納めた契約の箱がいかに荘厳であったとしても、それはあなたの御身体とは比較になりませんし、過去に行われた動物による生け贄が将来の模型であったとしても、あなたの御身体において行われる本当の犠牲とには無限の隔たりがります。それなのに、何故、私たちは、昔の族長たちや預言者たち、さらには王たちや諸侯たちも、されには一般民衆と同じような大きな敬虔さと情熱をもてないのでしょうか。彼らは心の底から、あなたが神であることを誉め称えました。それなのに、なぜ私たちは聖餐に与るのにこれほど安易なのでしょうか。(3:1:23~28)

キリスト教徒:
主なる神よ、ダビデ王は神の箱の前で子どものように無邪気に心を尽くして踊り、全てのイスラエル人たちに、全身全霊を持って神を讃美し、神に仕えることの模範を示しました。そうだとしたら、私たちすべてのキリスト者も、キリストの御身体の前で、もっと喜びを情熱的に表すべきでしょう。世界には聖徒たちの遺物を尋ねて各地を巡礼し、聖徒たちの遺骨を納めた聖堂に高額な金銀を捧げる人たちがいます。
主よ、ご覧ください。私たちの貧しい祭壇を。しかし見た目にいかに貧しくても、この祭壇には、神である人、聖なる主、人間と天使たちとの創造者が、お臨みなっておられます。私たちは主を正しく拝受するごとに永遠の救いの果実にあずかり得るのは、ここにおいてなのです。この尊い聖礼典に私たちをひきつけるのは、軽薄さでも好奇心でも感傷でもなく、生ける信仰と確かな希望と真実な愛とです。(3:1:29~33)

キリスト教徒:
世界の創造者である私の神よ、あなたがこれまでに私たちに示された御業の数々、それらを思い返すとき、その不思議さに驚きます。中でもこの聖餐式においてもあなたご自身を私たちに与えようとされていること、その惠に感動いたします。それは私たちの想像をはるかに超え、もはやその神秘を悟ることは誰も出来ないことでしょう。
ただ、あなたを信じる私たちは、その惠みに圧倒され、心が燃えます。なぜなら自分たちの生活をより豊かにしようとたえず努めている者たちは、聖餐に与ることによって、そこから大きな霊感と力とを受けることが出来るからです。(3:1:34~36)

キリスト教徒:
主なる神よ、サクラメントには通常の価値観では計ることが出来ない大きな恵みが秘められています。その秘密はイエスを信じる者たちにだけ示され、信じていない人やキリストと関係ない人たちには隠されています。サクラメントによって霊的な恵みが与えられ、失った力が戻り、罪のために歪められた美しさは回復されます。サクラメントに含まれている神の恵みは実に大きく、その霊感は魂だけでなく、弱い肉体にすら大きな影響力をもっています。
そのような大きな恵みを受けているのに、何の感動もなく、冷たく、無関心な人々がいるということは、実に嘆かわしいことです。
キリストこそが、私たちの清さの根拠であり、私たちの生きる意欲であり、永遠の生命を保証するものです。全世界の支配者であるキリストの御身体に対して、多くの人たちが知らないということは嘆かわしいことでしょう。(3:1:37~42)

キリスト教徒:
主なる神よ、聖餐式に秘めらこの莫大な賜物を十分に理解もせずに、毎日それを受けることによってかえって、マンネリ化して、その有り難さが減っていく人間の愚かさと頑固さには呆れてしまいます。
もし聖餐式が世界のただ一個所だけで、ただ一人の司祭によって執行されているとしたら、世界中の人々がどんなに犠牲を払っても、そこに集まり、その聖餐にあずかろうと努力することでしょう。
主なる神よ、実際には多くの司祭たちがいろいろな場所でキリストを捧げ、厳かな聖餐式が執行され、神の恵みと愛とを示しています。あなたは哀れな私たちを御身体と御血とをもって養いたもうことを深く感謝いたします。
誰でも苦労している者、重荷を負う者は、私のもとにいらっしゃい、私はあなた方を養いかつ健やかにしてあげようとの、御口から出る御言葉をもって、私たちをお招きくださることを感謝します。(3:1:43~46)

第2章 神の大きな恵みと愛

キリスト教徒:
主なる神よ、み恵みをもってお助けてください。私は貧しく、意志薄弱で罪深い者です。だから聖卓に近づき、あなたの御身体と御血とを受ける資格がないことをよく承知しています。

キリスト:
愛する者よ、君の言うことはその通りだろう。しかし、よく考えてご覧。君が無価値な人間だという自覚は私の恵みによるのだろう。そして、価値ある者になりたいという願いも実は私によるのじゃなかったかな。ともかく、自分自身が貧しい者であることなど気にしないで、私を信じて私の元に来なさい。(3:2:1~5)

キリスト:
愛する者よ、私は全知全能である。天にあるもの地にあるものは全て私のものだ。天と地とは私のもので満たされている。私の家には、必要な物は何でもある。もし、君が私を君の家に迎えたいと思っても、何も準備する必要はない。必要な物は全て私が準備する。君はただ私だけを迎えてくれたらそれで十分なのだ。
それなのに、君は何をそんなにあれこれと気をつかっているのだ。そんなことをしても私は少しも満足しない。それなのに君は私以外のいろいろな物にこだわりすぎている。(3:2:6~9)

キリスト:
愛する者よ、私は私自身を喜んで君に与えます。それでも君は私だけでは不足なのか。私の他に、何が君を満足させるのですか。私はこの世の全ての財宝の源であり、神なんですよ。それでも、君はまだ何か不足があるんですか。それはあまりにも欲張りすぎると思いますよ。
君が飢え渇けば、私はいつでも君の糧になり、君の生きるエネルギーになるために、私は天から降ってきたパンなのです。だから自由に私のもとにいらっしゃい。私は君の生きる力になります。
私はユダヤ人の先祖たちが荒野で食ベたが、結局死んでしまったような天からのパンではなく、私自身の身体であるパンをもって、あなたを満足させてあげます。私のパン、すなわち私の身体を食ベる者は、誰でも永遠に生きるのです。君の救いのために私の脇腹から流れ出た血の杯にまさって、あなたの渇きを癒やすものは他にはありません。(3:2:10~15)

キリスト:
愛する者よ、私の脇腹から流れ出た聖なる血と水とは不思議な力をもち、それを飲む者の中で泉となり、この世の物への執着を断ち切り、永遠の生命への望みを呼び起こします。だから自由に私のもとにいらっしゃい。そして君のために準備した私のパンを食べ、ワイン飲みなさい。もし君が君自身の罪と汚れとのために近づくことを恐れているなら、勇気を出しなさい。私がこの世に降ったのはさまよう罪深い人々を捜し求め、彼らを招き、彼らを自分の肩にかけて私の父の家に連れかえり、また彼らのために代価を払い、彼らを私の血にひたし、洗いきよめ、罪の一点をもとどめないようにするためなのです。
私のほかに、罪の赦しを得させる力をもつ者は他にはいません。だから、勇気と確信とをもって私のもとにいらっしゃい。私は君の罪の赦しを父なる神に請い、私の傷から出る血潮によって君自身を清いものにします。(3:2:16~22)

キリスト:
愛する者よ、君が真実をもって告白しているように、君は弱い病める者でしょう。だから大急ぎで私のもとにいらっしゃい。君は私以外のどこへ行っても、君の弱さを強める良薬を見いだすことはできないだろうし、癒やされることはありません。天からくだってきたパン以外に、君を強めるものはありません。
もし君が裸で、良いところなど一つもなくても、私の前に出ることをためらったり、恥ずかしいと思ったりする必要な全くありません。大切なことはただ一つ、へりくだることです。謙遜こそが全ての徳であり、しかもそれは全て私から出てきたものなのです。
私は、裸の君を憐れみ、永遠の救いの衣を着せ、私の血潮をもって君を飾るであろう。もし君の目が不自由で罪の暗闇の中をさまよっているとしたら、声を出しなさい。私は君に手を差し伸べ、永遠の光の中に導き出します。私こそがすベての人を照らすまことの光なのです。君が心を開けば、私は喜んで君の内に宿り、君と一緒に過ごします。だから安心して君の心を開きなさい。(3:2:23~28)

第3章 神の愛と恵みは聖礼典の中で示される

キリスト教徒:
主なる神よ、弱い私の救い主、 飢え渇く私の生命の泉、 貧しい私の王、下僕である私の主人、被造物である私の造り主、孤独な私が愛する慰め主に、ただ、あなたの恵みと大きな憐れみに依り頼み、御許に参りました。
あなたのこの大きな恵みは、いったいどこから出て来るのでしょうか。私が何者なので、あなたはご自身を私にお与えになるのでしょうか。どうして罪人である私があなたのみ前に進み出ることができ、またあなたが罪人である私の所にお降りになられるのでしょうか。あなたはあなたの下僕を知り、また私があなたから与えられたもののほか何の善をも持たないことをご承知です。ですから、私は自分の無価値をあえて告白いたします。(3:3:1~5)

キリスト教徒:
主なる神よ、私はあなたの恵みの中で生き、あなたの憐れみを心から讃美し、あなたの大きな愛を感謝いたします。あなたは私の生き方によらず、御心のままに私をお取り扱いになります。だからこそ、あなたの恵みがいっそう深く私に刻みつけられ、あなたの謙遜が身にしみます。これがあなたのみ旨であり、あなたが私にこのように生きよとお命じになった通りに、あなたの顧みの中であなたの御心を実現するように生きています。どうか私の不器用さがあなたの妨げになりませんように。
やさしいイエスさま、あなたの御身体の拝受するに際して、私はどうしたら良いのでしょうか。私は私自身の驚き、感謝を表す讃美が不十分だと感じています。誰ひとりあなたの偉大な尊厳さとお恵みとを適切に表現することはできません。(3:3:6~9)

キリスト教徒:
主なる神よ、主の御身体にお近づきするこの拝受の時の感情は、どうあるベきでしようか。私は正しくふさわしく主を崇める方法が分かりません。ただ、うやうやしく拝受するだけです。あなたのみ前に全くヘりくだり、限りない恵みを誉め称えるほか、さらにまさった有益な方法が考え得られるでしょうか。
主なる神よ、私はあなたを頌え、永久にあなたを崇めます。私は私自身をさげすみ、自分の空しさのどん底からあなたに服従いたします。(3:3:10~13)

キリスト教徒:
主なる神よ、ご覧ください、あなたは至聖なる主、私は汚れた罪人、それなのにあなたは、あなたを仰ぎ見ることもできない私の所まで降りてきてくださいました。
ご覧ください、 あなたは私と一緒に居たいというだけで、宴会に招いてくださいました。あなたご自身が天よりのパン、天使たちの糧なのに、その御身体で、私を養おうとしておられます。あなたこそが世に生命を与える天からの生きたパンです。
ご覧ください、この愛は誰から流れでて、かくも大きな尊厳を私たちに与えるのでしょうか。これらの賜物と祝福とに対して、どんなに大きな感謝をあなたに捧げささげたらよいのでしょうか。(3:3:14~17)

キリスト教徒:
主なる神よ、このサクラメントを定められた時のあなたのご配慮は、私たちにとってどんなに益多く、幸多いものであったことでしょう。あなたがご自身を御馳走として提供されるパーティは、どんなにうるわしく楽しいものでしょう。
主なる神よ、あなたのみ業の不思議さ、あなたの真理の確かさを心から感謝しています。あなたの御言葉で万物は創られ、あなたの御命令によって全てのものは動いています。
主なる神よ、人間の理解をこえ、信仰にのみ現される妙なる秘義、私の主、私の神であって、真の神、真の人であられるあなたがパンとワインという外形の中に完全に現臨し、あなたの恵み深い御身体を尽きることのない食物としてお与えになるとは。(3:3:18~21)

キリスト教徒:
万物の主なる神よ、あなたは、あなたご自身を提供されたサクラメントを通して、私たちの間に住まおうとされました。私は私の心と身体とを汚れなく保ち、私自身の永遠の救いのために、潔白清純な良心をもって、あなたをできるだけ多く拝受したいと願っています。
喜べ、私の魂よ。このような尊い賜物と他に他では得られない慰めとを、この涙の谷に残された神に感謝しましょう。
キリストが人類の救いのためにお受けになった苦難と愛を、御身体を拝受するたびに思い、私自身の贖いの業を新たにし、キリストの全功績にあずかる者とされたことを喜ぶからです。キリストの愛は、決して減らず、彼のあわれみの宝庫は、決して尽きることがありません。(3:3:22~25)

キリスト教徒:
主なる神よ、キリストの御身体を拝受するため、また永遠の救いの大きな秘義に与るために、細心の注意をもって心を新たにして、私自身を備えました。
キリストの御身体を拝受したり、ミサの手伝いをしたりする時は、いつもその日を、キリストが全能の父のもとから降って来られた日、聖なる乙女マリアの胎内で人となられた日、また彼が十字架にかけられ人類の救いのために苦難を受けて死なれた日と思い、偉大な、新鮮な、慰めにみちた日とみなしています。(3:3:26~27)

第4章 聖餐に与るのは多いほどいい

キリスト教徒:
主なる神よ、あなたが人類の救いのためにご準備くださった喜びの宴会に与るために私はみもとにまいりました。私の救い、希望、力、誇りがすべてここにあります。あなたの下僕に聖餐に与る喜びを十分に味合わせてください。
私の魂は、あなたの御顔を仰ぎ見ます。私の心は、あなたの恵みに与りたいと願っています。私はザアカイのようにあなたを私の家にお迎えし、あなたの祝福を受け、アブラハムの子らの中に数えられるにふさわしい者になりたいのです。(3:4:1~4)

キリスト教徒:
主なる神よ、私の魂は御身体に与り、あなたと一体になることを願っています。あなたの御身体だけで十分です。あなたのほかに私を慰めるものは何一つありません。だから、何時でも、どこでも、何回でも聖餐式に与ることを願っています。この天からの糧が取り上げられたら、私の人生は終わりまで達成できないでしょう。
あわれみ深いイエスよ、あなたはかつて人々にみ教えを宜ベ、もろもろの病人を癒やされたとき、言われたではありませんか。私は彼らを飢えたまま家ヘ帰らせたくない、恐らく途中で弱り切ってしまうであろうと。今、私をその時のようにご配慮ください。(3:4:5~10)

キリスト教徒:
主なる神よ、あなたは忠実な者を慰めるためこの聖礼典の中に御自身を残してくださいました。あなたは魂の甘美な食物であられますから、あなたを正しく食ベる者は永遠の栄光に参与し、その後継者となれます。
主なる神よ、まことに私のようにたびたび罪に陥り冷淡になりやすく善行を怠りがちな者は、それ以上に頻繁に祈り熱心に御身体を拝受して自分を洗い、きよめ、元気づけることが必要です。聖餐からあまり長く遠ざかれば、恐らくよい決意を失ってしまうでしょう。人の思いは幼い時から悪に傾きがちですので、この神の薬が助けに来てくれなければ、人はたちまちもっと大きな病に陥るでしよう。ですから聖餐は人を悪から守ると共に、善に向かって励ますのです。(3:4:11~15)

キリスト教徒:
主なる神よ、もし私が規則的にキリストの御身体を拝受していながら、今でも怠りがちで冷淡であるとするならば、このサクラメントに与っていなければ,どんなことになっていたことでしょう。ですから、なんらかの理由でキリストの御身体を毎日拝受することができないとしたら、この聖礼典にあずかるため、私は最善をつくして、努力を重ねることでしょう。もし、あなたの御身体から離れることになったら、私はこれまでにあなたに御身体に与ったことを回想し、思いだけでもあなたを愛する心でサクラメントに与ります。(3:4:16~18)

キリスト教徒:
主なる神よ、私たちに対するあなたの憐れみ大きさに驚かされます。全てのもの造り主、全ての命あるものの命の源である主、その主が貧しい私たちに臨み、あなたの神聖さで私たち魂を満たして下さるとは、私たちの貧しい言葉では言い表すことができません。私たちはただあなたを拝受し、それによって私の魂は喜びを満たされます。何というお恵みでしょうか。
恵み深いあなたを親愛な客として私の家に迎えるなどと言う光栄、幸せ、言葉では言い表せません。愛する恋人を迎え抱擁するような気持ちです。あなたこそが全てのものに勝って私の愛するお方であり、私の魂はあなたをお慕いもしています。
私が愛する神よ、天と地とそのすベての輝きとをあなたのみ前に黙さしめてください。それらのうちにある讃美と誉れとに値いするものは、すベてあなたの豊かな恵みから出ているからです。それらはあなたのみ名のうるわしさには達し得ず、あなたの知恵には限りがないのです。(3:4:19~22)

第5章 正しく聖餐を拝受する者は多くの祝福を授けられること

キリスト教徒:
主なる神よ、私が正しく、敬虔な心であなたのサクラメントに与ることが出来るように、あなたの下僕を顧みてください。あなたへの愛を私の心に燃え立たせ、身についた怠け心からわたしを救い出してください。あなたのいつくしみは、人びとの目には入らない水源のように、このサクラメントにもあなたの豊かなみ惠が隠されています。どうか、それを私の魂が味わい得るように、救いの恵みをもって私に臨んでください。(3:5:1~3)

キリスト教徒:
主なる神よ、私の目を開いて、この偉大な秘義を悟らせ、私を力づけて不動の信仰をもって信じることを得させてください。これはあなたのみ業であり神わざであって、人の力の及ぶところではないからです。これは神の制定されたものであって、人の工夫したものではありません。天使たちの精妙な知性をも越えているので、誰ひとり自分の力によつて会得し了解することはできません。(3:5:4~6)

キリスト教徒:
主なる神よ、私のような塵と灰とにすぎない無価値な罪人が、どうしてあなたの深い秘義を測り知ることができましょう。私はただ素直な心とゆるがない信仰とをもって、ご命令に従い、信頼と敬虔さとに満たされつつみもとにまいります。そしてあなたが恵み深いサクラメントの中に、神であり同時に人として真に現臨しておられることを堅く信じます。私があなたを拝受し、愛によってあなたと一つになることは、あなたの御心です。あなたの最も尊むべきサクラメントは霊と肉との救いであり、このサクラメントにおいて私の罪は赦され、私たちの情欲は制御され、誘惑に打ち勝ち、恵みはさらに豊かに注ぎ込まれ、信仰は確実にされ、希望は強められ、愛はいっそう燃え上るからです。
主なる神よ、あなたは私だけではなく多くの人びとにも、このサクラメントを通してお恵みをお与えになります。(3:5:7~12)

キリスト教徒:
主なる神よ、あなたが愛される人々が多くの試練と患難とのただ中にある時、彼らに特別な慰めを注ぎ、失望落胆の思いから彼らを引き上げて、あなたのお導きを望ませてくださいます。あなたは新たな恵みをもって彼らの内心を照らし、癒やされますので、最初は気が沈んで聖餐を拝受する願いを失っていた者も、この天来の食ベ物と飲み物とによって元気になり満足し、それまでとは全く違ったもになる、という経験をいたします。
これはあなたがその愛される人々への特別なご配慮で、彼らが自身としては誠に弱い者でありながら、あなたからどんなに多くの恵みを受け得るかを、真に知り忍耐強く経験するためです。(3:5:13~15)

キリスト教徒:
主なる神よ、私たちはもともと冷たく味気なく無頓着ですが、あなたによって熱意と誠実と篤信とをもつ者にされました。恵みといつくしみとの泉がそこにあるのに、その泉に近づき、そこから慈愛の心を汲み取らない者がありましようか。また燃えさかる火のそばに立って、そこでいくらかの熱を受けない者がありましょうか。
主なる神よ、あなたはたえず満ちあふれる泉であり、常に燃えやまぬ火です。ですから、その泉から豊かに水を汲み取ってく、渇きを全く癒やされることはできないとしても、せめて細いストローで一滴の水に与ることが出来ますように。
またケルビムやセラピムのように、天上の熱火に全く燃やされないにしても、せめて生命を授けるサクラメントにヘりくだってつらなることにより、神の火のわずかな熱でも受けようと心を備え、修徳に努めたいのです。(3:5:16~21)

キリスト教徒:
恵み深いイエス、至聖なる救い主よ、私に欠けているものをあなたの憐れみによって補ってください。あなたはすベての人を招いて、仰せになったではありませんか。私のもとに来るがよい、あなたがた、すベて額に汗しつつ苦しい重い労役に服している者らよと。私は心の痛みにさいなまれ、罪の重荷に押えられ、誘惑にまどわされ、多くの邪悪な肉欲に悩まされ虐げられています。あなたの他に、私を助け、救い、いやす者はいません。ですから私はあなたに自分と自分のすべての所有とをお委ねし、あなたが私を守って永遠の生命にお導きくださるよう祈ります。
どうか私の食ベ物および飲み物として御身体とおん血とをお備えくださったあなたのみ名が頌えられ、崇められますように。聖餐式に与ることによって私のうちに修徳の願いをいよいよ増し加えてください。(3:5:22~26)

第6章 聖餐式に与るための準備

キリスト教徒:
主なる神よ、あなたの圧倒的な尊厳さの前で、私自身の貧弱さを思い恐れおののいています。この尊いサクラメントは私にとりまして生きる力で、どうしても欠かすわけにはいきません。しかし、私のような者が与っていいものか、どうか迷っています。もし、間違って御聖体を受けてしまったら、大きな罪を犯すことになります。私はどうしたらよいのでしょうか。私に正しい道を教え、御聖体に与る正しい方法をお教えください。(3:6:1~4)

第7章 良心の吟味と改善の決意とについて

キリスト:
愛する者よ、まず何より大切なことは、あくまでも謙遜な心と、敬虔な態度と、純粋な信仰とをもって聖餐式に与ることである。そのためには貴方自身の心を隅から隅まで探り、真心から悔い改め、謙遜に告白し、すべてのしがらみから自由にならなければなりません。その上で素直に過去の罪を自覚し悲しむべきです。(3:7:1~3)

キリスト:
愛する者よ、君が嘆くべきことは次のことである。
(1)君が今でもまだ世俗的で即物的なことだ。
(2)君は君自身の悪い性質を軽く見ていることだ。
(3)君の心の中に悪い思いや情欲に満たされていることだ。
(4)君が感情に不注意なことだ。
(5)君がしばしば妄想にとらわれることだ。
(6)君は新奇なことや美しいものに惹かれることだ。
(7)君は人がいやがる仕事を厭うことだ。
(8)君は語る言葉に無頓着なことだ。
(9)君は沈黙を守れないことだ。
(10)君は君自身の思いに固執し、何が何でも通そうとすることだ。
(11)君の行動が行き当たりばったりなことだ。
(12)君は君のなすべきことをさぼることだ。
(13)君は気が多すぎることだ。
(14)君には心の奥に沈潜することがほとんどできないことだ。
(15)君は短気で、常に不満たらたらなことだ。
(16)君は隣人に対して怒りすぎることだ。
(17)君は事態が上手く運んでいるときには調子に乗りすぎることだ。
(18)君は事柄がうまくいかないと落ち込み、心の中で傲慢になることだ。
(19)君は決心はするが、それに行動が伴わないことだ。(3:7:5~22)

キリスト:
愛する者よ、君は君自身の改善すべき点や過ちに気が付いたら、まず君自身の弱さを自覚し、それを告白しなさい。その時に君自身の内側から、生き方を改めようという強い意志が出てくる。次に、その上で君自身の意志を全く放棄し、君自身を私の名の栄光のために、祭壇に捧げ、君の全身全霊を真心をもってすべてを私わたしに委ねなさい。そうすれば、君は、私の身体によってなされるサクラメントにおいて恵みを受けるであろう。なぜなら聖餐式において私の身体と君自身を捧げる以上の捧げものはないからである。(3:7:23~26)

第8章 聖餐式における奉献

キリスト:
愛する者よ、私が両手をひろげ、裸になって、神への宥めの供え物として、君たちの罪の身代わりとなったのだ。だから、君たちも君たち自身を、君たちの才能や思いと共に供え物として捧げなさい。これが聖餐式における奉献なのだ。君たちがすべてを私の手に委ねているなら、それ以上のものを君たちに要求は出来ない。たとえ君たちが、その他のどうでもいいようなものを私に捧げても、私はそれは無視する。私は君たちには君たち自身以外の何ものも求めたりはしない。(3:8:1~3)

キリスト:
愛する者よ、君たちが私に関係のないものをどれほど持っていようと、君たちは満足しないであろう。それと同様に、私は君たち自身を捧げない限り満足しない。
よく考えてみなさい。私が君たちのものになり、君たち自身が私のものになる。そのために、私は私の肉と血とを食ベ物として君たちに与えた。それにもかかわらず、君たちが君たち自身を、私のものとして捧げないならば、君たちの奉献は完全ではないし、君たちと私との一体化も完成されない。あなたが神の恵みと心の自由とを得たいと思うならば、あなたのあらゆる行為に先立ってあなた自身を進んで神のみ手に委ねなければならない。内心を照らされた人が少ないのはこのためであって、それは自分を全く放棄することを知らないからだ。私がかつて告げたあの宣言は、今なお決定的である。人はその所有する一切のものを捨てないかぎり、私の弟子となることはできない。(3:8:4~9)

第9章 聖餐式における代祷

キリスト教徒:
主なる神よ、天と地にあるすべてのものは、あなたのものです。私は自分自身を永遠の供え物としてあなたに捧げ、いつまでもあなたのものでありたいと願っています。
主なる神よ、私は自分が初めて罪を犯した日から今日までのあいだに、あなたと聖なる天使たちとの前で、自分の心と舌と行ないとによって犯したすベての罪と過失とをあなたの宥めの祭壇にお供えいたします。そして、あなたがそれらをあなたの火によって焼き尽し、私自身の罪のために失った恵みを私に回復させ、また憐れみをもって私を受けいれ、平和の口づけをお与えくださるよう、心の底からお願いいたします。(3:9:1~4)

キリスト教徒:
主なる神よ、私は今、御前に跪いています。どうか、私の祈りに耳を傾けてください。ご覧ください。私はあなたの憐れみに私のすべてをお委ねいたします。どうか、私を私の邪悪さによってではなく、あなたのみ恵みによって、お取り扱いください。
あなたのみ恵みによってなし得た私の善行を、どんなに小さく不完全なものでも、すべてみ前にお捧げいたします。どうか、あなたがそれらを清めて、あなたのために役立たせください。
怠慢で無益な下僕である私を導き、幸いな最期を全うさせてくださいますように。(3:9:5~8)

キリスト教徒:
主なる神よ、私は主にある兄姉の真実な願いを、私の両親、家族、すベての友人など、いまなお肉体にあって生きている人たちも、スでの主の元に召されている人たちも、あなたのため、また私や他の人々のために善をなした人々の求めを、み前にお捧げいたします。
どうか彼らがすベての苦難から解き放たれ、喜びをもってあなたを讃美し、あふれるばかりあなたに感謝するにいたりますように。(3:9:9)
主なる神よ、私はまた多少でも私を傷つけ、痛め、辱かしめ、なんらかの損害や悲しみを与えた人々のために、特に祈りと贖いの供物とをお捧げいたします。
さらに私がいつも言葉や行ないによって、知りまたは知らずに痛め、傷つけ、悩まし、つまずかせたすベての人々のためにもお祈ります。どうか私たちの相互の罪と過失とをことごとくお赦しください。
愛する主なる神よ、あらゆる疑い、苦み、怒り、争い、その他、私たちの中にあって神の愛を傷つけ兄弟愛を多少でも損なう一切のものを、私たちの心から取り去ってください。(3:9:9~11)

第10章 聖餐拝受は軽々しく省略してはならない

キリスト:
愛する者よ、君は君の情欲や罪から解放されたのだから悪魔の誘惑に対してもっと強くならなりなさい。そのためには、神の恵みと憐れみとを求めなければなりません。なぜなら、悪魔はこのサクラメントを受けることによって与えられる恵みとその効力とを熟知しているので、真面目なキリスト者が聖餐にあずかることを全力を挙げて妨害しようと虎視眈々と狙っているのです。とくに、聖餐式の準備中の人をたぶらかせて、邪念を抱かせたりします。例えば、ヨブ記にあるように、苦悩の中にあるヨブを慰めるふりをして、神の御心やみ言葉を疑わせたりいたします。つまりいろいろな手段を用いて聖餐式を無意味な儀式だと思わせるのです。だから悪魔の策略に騙されないように、悪魔に一撃を加えるべきです。(3:10:1~5)

キリスト:
愛する者よ、ときには自分自身の修練について過度に配慮し、自分はそれに相応しくないと考え、聖餐を辞退する人もいる。それは告白をする時あまり神経質になり過ぎているからだ。けれども賢こい指導者の忠言に従って、すベての心配とためらいとを捨てなさい。その君自身の考えが、神の恵みを妨げ、魂の修徳を破壊するのだ。多少の心配や煩悶があるからといって、この尊い聖礼典にあずかることをやめてはならない。むしろ何か気になることがあったら、さっそく司祭の前で告白し、あなたを煩わした人と和解しなさい。(3:10:6~8)

キリスト:
愛する者よ、君が誰かに過度の迷惑を掛けているならば、ヘりくだって赦しを求めなさい。神は喜んであなたをお赦しくださるであろう。ぐずぐずして懺悔を引き延ばして、聖餐式に与ることを遅らしても何の益もない。出来るだけ早く懺悔し、君自身の生活から悪いものを吐き出し、清々しい気持ちで聖餐式に与りなさい。なんだかんだ理由を付けて聖餐式を怠ったら、ますます、気まずくなって聖餐式に与りにくくなる。(3:10:9~12)

キリスト:
愛する者よ、冷淡でだらしない人々は告解と聖餐とを先延ばしする。それは結局自分自身を厳しく省察することが嫌なのだ。何とまぁ情けなことだろう。この大きな恵みのサクラメントに与ることをそんなに軽々しく怠るとは、愛に乏しく、弱い信仰の持ち主である。逆に、機会さえあれば、また人の目につかなければ、毎日でも熱心に聖餐式に与る気持ちがある人の生活は、清い良心を保っている人であり、いかに幸いであり神に喜ばれることであろうか。(3:10:13~15)

キリスト:
愛する者よ、私が君たちに聖潔とは何かを教えたのであり、君たちを潔めた主である。だからこそ、私は君たちが聖潔であることを求める。まさに、そここそが私の居場所である。
私のために整えられた食卓を準備しなさい。私と修道者たちとはその食卓に着き、共に過越の小羊を食する。もし君の食卓に私を招きたいならば、古いパン種を取り除いて、君の心を潔めなさい。いつさいの世俗的なこととその華やかさと罪の塊とを徹底的に整理しなさい。庭の木の枝にとまっている小鳥のように、部屋の中でひとり座って君自身の心の中にある汚れたものを数えてご覧なさい。
誰かを愛そうとする人は、その人のために、最も美しく、落ち着く場所を準備するものです。その準備の中に君の愛の程度が明らかにされます。愛する者のためなら、長い時間をかけて、心を配り準備したとしても、それで十分だとは決して思わないものなのだ。(3:11:1~8)

キリスト:
愛する者よ、君が私の食卓につくことが許されるのは、ただ私の寛大さと慈しみとによるのです。あたかも富める人の宴会に招かれた貧しい人が、富める人の寛大さに対して謙遜に感謝するほか何のお返しも出来ないのと同じことです。だから君は君が出来るだけのことを誠実に行えばそれで十分なのです。世間の常識とか習慣に倣って無理をすることは必要ないのです。ただ、誠実に、心の限りを尽くして、主の御身体を拝受したらいいのです。(3:11:9~10)

キリスト:
愛する者よ、君を招いたのは私であり、それを行なえと命じたのも私だ。だから私が君の足りないところを補う。安心して私のもとに来なさい。私が君に信仰に進む恵みを授けるから、君はただ神に讃美と感謝とを捧げなさい。君がそれに相応しいからでなく、私が君を憐れんだのである。もし君がそれを受けることが出来ないなら、祈りと嘆きとをもって私の戸をたたき、私を呼び求め、そして救いの恵みのわずか一滴でも受けるに足る者とされるまで求め続けるがよい。君は私を必要としているが、私は君を必要とはしない。君が私を聖別するのではなく、君は私によって聖別され、私と一つになるために来たのであろう。
新しい恵みを受け、君の生活が改善され新たに燃やされるために来たのであろう。それなら、この恵みの機会を無駄にしないように、細かい配慮をして君が愛する主を迎えるがよい。(3:11:11~17)

キリスト:
愛する者よ、聖餐式に与るための準備と共に、聖餐式を受けた後の敬虔さも大切である。聖餐式の前に君自身を細かく反省するだけではなく、受けた後の態度も慎重でなければならない。聖餐式後の慎重さが次の聖餐式のための大切な準備となるのだ。聖餐式後に、この世の快楽にふけっていたら、聖餐式に与る資格さえ取り上げられるかも知れない。無駄なおしゃべりを慎み、私室にこもって、あなたの心を神に打ち明けるがよい。君は、全世界もなお容れることのできない神を所有しているのだから。
君の全自我を私に捧げるべきである。そうするならば、君は今後、君自身で生きるのではなく、私において生き、すべての思い煩いから解放される。(3:11:18~24)

第12章 聖礼典においてキリストと一体になること

キリスト教徒:
主なる神よ、私は誰からも、何物からも妨げられることなく、あなたとだけ語り合い、あなただけに私の心のすべての思いを吐き出し、ただあなたとの交わりを楽しみたいのです。あたかも恋人同士が共に時間を過ごすように、また親しい友人と言葉を交わすように、あなたと完全に一つになることを願っています。それこそが私にとって聖餐式に与る喜びです。
私が祈り求めているのは、あなたと完全に一つとなり、この世のすべてのしがらみから解放されて、聖餐式に与り、ますます天上のものを味わうことです。何時になったこのような状態になれるのでしょう。
私の願いは、あなたは私のうちに、私はあなたのうちに、そのようにしていつまでも共にいることです。あなたは私が心から愛するお方、世界の中でただ一人の愛の対象です。私が生きてい限り、愛する相手、心を休ませることが出来るお方です。もし私があなたから離れたら、そこにはただ悲しみと苦しさだけしかありません。(3:12:1~6)

キリスト教徒:
主なる神よ、まことにあなたは、隠れています神、あなたの御心は悪人には授けられず、あなたの御心は謙る素直な者にのみ明らかにされます。あなたの御心は優しく、あなたの恵みを示すため、天から降り、最も甘美なパンをもって私たちを元気づけてくださいます。この世において私たちの神であるあなた以外に、あなたの僕たちに近づいてくださる神は居ません。
あなたは私たちを日々慰め、私の心を天にまで高めるため、ご自身を食べ物および楽しみとしてお与えになるからです。このような神は天上天下どこを探したって存在しません。 神ご自身がその栄えある御身体をもってその僕たちを養ってくださるなんて、何と私たちは光栄なことでしょう。(3:12:7~10)

キリスト教徒:
主なる神よ、言葉につくしがたい恵み、人にだけ授けられる無限の愛、私たち人間はそれに応え得るものが何もありません。私たちには何によってお応えするべきでしょうか。私たちが出来ることは、ただ御心に適うことに全身全霊を捧げ、あなたの一つ心になることだけです。私の魂が全く神と一つになるとき、私の内にあるすべてのものは喜びおどることでしよう。(3:12:11~14)

愛の対話
キリスト:君が私と共におるならば、私も君と共にいる。そして、私は答えるでしょう。
キリスト教徒:私は喜んであなたの元にとどまります。ですから、主よ、私と共にとどまってください。私の心が愛によってあなたと一つになることを私の唯一の願いです。(3:12:15~16)

キリスト教徒:
主なる神よ、敬虔なキリスト教徒がこのサクラメントに与ると、不思議な愛に満たされ、心はこの世の何物にも向かうことは、当然のことです。
花婿が花嫁と共に休息するため彼女の部屋に入ったならば、彼は彼女の心がほかに散ったり、彼女が別の考えにふけったりしたら気分を害します。彼女が心を込めて彼と共にいることを喜び、他の雑念から離れ、心を合わせて語り合い、その幸せを満喫することを望みます。
人間の中で最も柔和であったモーセは、主のみ前において、口と口とをもって主と語り合いました。私たちキリスト教徒もキリストの花嫁として、あなたの愛を感じ、互に心と心で語り合います。愛は見るよりもむしろ感じることによって養われるからです。(3:12:17~19)

キリスト教徒:
主なる神よ、モーセはあなたのみ顔を直視できませんでした。しかし私たち花嫁は花婿であるあなたとある程度まで顔を合わせて見つめ合い、心と心とを通わせ、あなたに拠り頼み、あなたのうちに全く没入します。そして私たちは愛から愛へ、栄光から栄光へ、人間的から神的へ、地上のものから天上のものヘ、恵みから栄光へと、神の御霊に導かれるままに進んで行きます。
マグダラのマリヤは、自分の罪が赦されたとき、あなたのみ足に口づけし、涙をもってみ足をひたしました。愛された弟子ヨハネは、あなたのみ胸によりかかりましたが、私たちはあなたのみ顔を目のあたり拝したのですから、もっと大きな恵みだと言えるでしょう。(3:12:20~22)

キリスト教徒:
主なる神よ、あなたが聖餐式においてご自身をお与えくださるなんて、あなたの花嫁としてこれ以上の喜びはありません。私は神の胸の中に飛び込み、愛の本源までさかのぼり、あなたと一つになって休み憩うのです。
花嫁の愛は強くかつ生き生きとしていて、なんらの障害をも顧みず、どんな限界をも知りません。花嫁は愛する者以外のことは何も考えず、すべてのすべてに勝ってあなたの愛以外の何物も求めません。
私は何という幸せ者なのでしょう。栄光の王、天使たちの主、天父のひとり子が、謙遜にも天から地にお降りになり、この貧しい卑しい私を花嫁として受け入れてくださり、心を一つにするということは。(3:12:23~25)

キリスト教徒:
主なる神よ、尊いサクラメントに与って、その直後につまらぬことや無益な雑談にふける人、何という不届きな行為であろう。もし一人の危篤な病人が名高い医師の来診と治療とを熱心にお願いし、その医者がわざわざ自宅まで来診してくれたのに、その医者を信頼せず、無用な質問によって医者を困らせたとしたら、その医者がどれほど腹を立てることだろう。よく考えて見ると、私たちはあなたに対して同じような失礼なことをしているのかも知れない。(3:12:26~28)

第13章 信仰深い人々のつよい願い

キリスト教徒:
主なる神よ、あなたが私たちのために準備しておられる恵みはいかに大きいことでしょうか。信仰のあつい多く人びとがその聖餐式に与ることに熱心であることを思うとき、私は何と生ぬい信仰しか持っていないかを思いしらされます。
私の心は冷え切っており、からからに渇き、あなたへの情熱は燃えていません。時には信仰厚い人びとが涙を流している姿を見て、私の冷静さを嘆きます。あの人たちは心を開き、口を大きく開けて、あなたから流れ出る命の水を喘ぎ求めています。彼等のあなたへの情熱は驚くほどです。それに比べて私の信仰はいかに貧しいものにすぎません。(3:13:1~7)

キリスト教徒:
主なる神よ、信仰深い人々は、パンが裂かれるとき彼らの主を真実に感じ、彼らと共に歩まれるイエスによって、心の内が燃えるのを覚える。かくも熱烈な願望と敬虔、かくも燃え立つ愛から、私はしばしばあまりにかけ離れすぎています。聖餐式に与るとき、たまにでもいいですから、あなたの愛を受けとめる人間にしてください。そして私の信仰が強められ、あなたの恵みに対する希望が増し、いったん天来の甘美な糧によって養われた私の愛が盛んに燃え立ち、再び消えることがないようにしてください。
私のこの切実な願いにお応えください。み旨にかなう日が来たならば、燃える御霊をもって恵み深く私を訪れてくださるでしょう。私は特に敬虔なあなたの友らのように熱烈な願望に燃えることはできませんけれども、お恵みによってそのような燃えさかる願望の与えられることを切望し、あなたを熱烈に愛するすベての人々と共に生きること、彼らの聖なる集団に加えられるよう祈ります。(3:13:8~12)

第14章 私たちが祈り求めるべきこと

キリスト教徒:
主なる神よ、私は今謹んであなたのお身体を拝受しようとしていますが、あなたは私の弱点と私が我慢している弱点とを知り、私がいかに多くの罪に悩み、たびたび誘惑を受け、煩悶に陥り、絶望に沈み、罪に汚されるかをご承知です。
私は助けと慰めとを求めて、みもとにまいりました。どうか私をお救いください。
万事を知り、私の内部をすベてわきまえ、そして私をただひとり完全に慰め助けたもう主に、呼び求めます。 あなたは他のどんな被造物にもまさって、私が善に欠け、徳に貧しいことをご承知です。
ご覧ください。今、私は貧しい裸のまま、恵みとあわれみとを求めてみ前に立っています。哀れな私をあなたの現臨の輝きによって照らし、貧しく愚かなあなたの下僕を養い、私の冷かな心をあなたの愛の火によって燃やしてください。
私の内にあるすベての世的なものを苦味に変え、あらゆる煩わしい堪えがたいものを忍耐に転じ、いっさいの造られたものをさげすみ忘れさせてください。私の心を天上のあなたに向かわせ、私が地上をさまようことのないようにしてください。(3:14:1~8)

キリスト教徒:
主なる神よ、あなただけが今から永遠に私の唯一の楽しみとなってください。あなたが私の真の食ベ物と飲み物、私の愛と喜び、私の甘美と幸福のすベてです。どうかあなた私の側に居らして、私を燃え立たせ、焼き尽し、ご自身に同化してください。そして内的一致の恵みと白熱する愛の溶解とによってあなたと一つの霊としてください。私を飢え渇いたままでおきざりにせず、あなたが聖徒たちにお示しになったように、私にも現れてください。(3:14:9~11)

第15章 御聖体と聖書

キリスト教徒:
主なる神よ、あなたの会食に列してあなたと食を共にするキリスト教徒たちはどんなに喜んでいることでしょう。 彼らの前には彼らが愛しているただ一人の者、 彼らの心のあらゆる願いにまさって願わしいあなたのほか、何もないのですから。ただ、心を一つにしてあなたの前に跪き、あなたを見つめ、あなたを愛すこと以外の何もすることができない。あの信仰深かったマグダラのマリヤのように、み足を自分の涙にひたし得るならば、それ以上の喜びはないでしょう。たしかにあなたと聖なる天使たちとの前では、私の全心が愛に燃え、喜びに涙するはずです。なぜならサクラメントの中に、ほかの形に隠れていますとはいえ、あなたが真に現臨しておられるのを私は拝するからです。それというのも、あなたの本来の神聖なみ姿を拝することは、私に堪えられないのです。そこであなたは、サクラメントの中にご自身を隠して来ることによって、私の弱さを助けようとされたのです。私は主が真に現臨されるのを覚え、天使たちが天上において拝している主を拝しています。(3:15:1~8)

キリスト教徒:
主なる神よ、私は今なお信仰によって主を拝していますが、天使たちは真のみ姿をヴェールなしに拝しているのです。永遠の光の日が明けそめて、もろもろの形の影が消え去るまで、私は真の信仰の光に満足し、今のときはその中を歩まなければなりません。
けれども全き者が来られる時、このサクラメントは不要になるでしょう。天上の栄光の中にある恵まれた人々は、もはやサクラメントという信仰無しに、神のみ前で神の栄光を仰ぎつつ限りなく喜びます。そして信仰による栄光から、神ご自身の栄光ヘと進み、初めからいまし永遠にいます肉体となった神の言葉を味わいます。(3:15:9~12)

キリスト教徒:
主なる神よ、私はあなたとの直接的な交わりを思うとき、サクラメントという手続きでさえ面倒に感じます。私は神をその栄光の中で目の前で拝さない限り、この世でのすべての宗教的な手続きさえ無意味に思えてきます。
私が黙想し、所有し、永遠にあやかろうとするとき、あなたひとりのほかに、何者も私を慰め得ず、どんな被造物も私に安息を与えることはできません。しかしながらこのことは、私がこの死ぬベき生にとどまるかぎり、不可能なことです。ですから、さらに大きな忍耐をかちえるために努力し、神のみ旨に自分のあらゆる願いを委ねることが必要です。(3:15:13~15)

キリスト教徒:
主なる神よ、私がこうしてあなたを拝しているこのときにも、天国においては既に天国に召された聖徒たちは、あなたと共に住み、楽しくしていることでしょう。しかし、彼等だって、この世に生きていたあいだ、あなたの栄えある来臨を信仰と大きな忍耐とをもって待ち望んでいたのです。彼らが信じていたことを私も信じ、彼らが望んだことを私も望み、彼らが到達した所ヘ私もお恵みによって到達したいのです。その時まで私は自分の慰めおよび人生の鏡として聖書を持ち、そのうえ特別なサクラメントを通して、あなたの至聖なる御身体に触れているのです。(3:15:16~18)

第16章 聖餐にあずかることへの情熱

キリスト教徒:
愛する主よ、この世において聖なる生活をおくり、あなたに喜ばれていた聖徒たちもサクラメントにおいてあなたを拝受することを熱望したように、私も最も深い敬虔さと熱い愛もってあなたを拝受したいと切望しています。あなたは私にとって永遠の愛であり、いっさいの善であり、無限の幸福です。かつて聖徒たちがいだきまた味わった最大の願いと最深の敬虔とをもって、私はあなたを拝受したいのです。私はあなたを愛すると言えるようなものではありませんが、それでもなお全身全霊をもって、私の愛をあなたにお捧げいたします。ただあなたの前で跪き、恭しく、私のすべてを供え物としてお捧げいたします。何ひとつ自分のために残しておこうとは思いません。喜んで自由に私自身と私のいっさいとをあなたの所有として自由にお使いください。(3:16:1~5)

キリスト教徒:
主なる神よ、あなたの聖なる母、栄光ある乙女マリヤが、それを告知した天使に「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と恭しく答えて、あなたを拝受することを希望しましたように、私も今そのような気持ちであなたの前に跪きます。
またあなたの幸いな先駆者、聖徒中の最大の者バプテスマのヨハネが、あなたがまだ母の胎内に宿っていた時、聖霊に示されてあなたが居られるとを喜びましたように、さらにまた成人されたときには、人々の中を歩かれるイエスのみ姿を見て、謙って「花婿の友人は立って彼の声を聞き、大いに喜ぶ」と言いましたように、私も清い心であなたの前に立ち、私自身を心の底からあなたを誉め称えます。
ですから、私は、全身全霊をもって喜び、聖なる忘我と天よりの光と幻とともに私の燃える愛とをあなたにお捧げいたします。私がこれらを私自身と私のあらゆる友人と私が祈ることを頼まれたすベての人々とのために、捧げ、あなたが天地の全てのものによって崇められるためです。(3:16:6~8)

キリスト教徒:
主なる神よ、あなたをいつまでも感謝し、讃美したいというこの私の願いを受けいれてください。天と地のすべてのものがあなたを誉め称えるのは当然です。毎日毎時、私はあらゆる天上の霊とすベての信徒たちと共に祈り、感謝し、讃美を捧げます。どうかすベての国民と世代と、あらゆる言葉と心とが、大きな喜びと熱烈な愛とをもってあなたのうるわしい聖なるみ名をほめたたえますように。
どうかすべての人々が、正しく、敬虔に、全幅の信頼をもって、この厳粛なサクラメントに与ることができますように。そしてすべての人々があなたの恵みとあわれみとを受けることができますように、とくに哀れな罪人である私がそこに加えられますように。そして終わりの日には喜びに溢れてあなたの御許に帰ることができますように。(3:16:9~13)

※ この第3部はホロートが死の直前、第2巻の最後の部に関連して書いたもので、彼は自分の死が切迫していることを明らかに予期している。次の2章はおそらく「共同生活の兄弟会」に属するヤン・ヴァン・スフォーンホーヴェンの筆に成るもので、特に聖職者のため附加されたものであろうという。

第17章 聖職者の地位は尊厳であること

キリスト:
愛する私の下僕よ、あなたが、たとえ天使の純真さとバプテスマの聖ヨハネの聖浄さとを兼ね備えていたとしても、恵み豊かなサクラメントを拝受しまたは執行するには足りないであろう。人がこの尊いサクラメントを聖別し執行すること、天使の糧を食ベ物として拝受することは、あなた自身の功徳によるのではない。天使にも許されないことを、私たちの主から授けられた聖職者の任務は、まことに崇高であり、その尊厳は偉大である。(3:17:1~3)

キリスト:
愛する私の下僕よ、聖なる教会において正当に任命された聖職者のみ、ミサを執行し、キリストの御身体を聖別する権能を持っている。聖職者は神の下僕であって、神の命令と任命とによって神のみ言葉を用いるのだ。そこでは神ご自身が主要な見えない活動者であり、そのみ旨にすベての者は服し、その命令にあらゆるものは従うのだ。だから、この非常に厳かなサクラメントに関するかぎり、あなたは自分の感覚や何かの見えるしるしよりも全能者である神のみ言葉を信ずベきである。そしてまたあなたは恐れとうやうやしさとをもって聖卓に近づくベきである。(3:17:4~8)

キリスト:
愛する私の下僕よ、司教の接手によってあなたに委託された任務がどんなものであるかを思うがよい。見よ、あなたは聖職者とされ、神の命令と任命とによってこの尊いサクラメントを行なうため聖別されたのだ。この供え物を適当な時に忠実敬虔に神にささげ、あなたの行為をとがめなきものとするよう注意しなさい。あなたは自分の重荷を軽減されたのではなく、むしろ今やいっそう厳格な規律のきずなによってしばられ、さらに完全な聖なる生活に進むことを強いられているのだ。(3:17:9~11)

キリスト:
愛する私の下僕よ、あなたたちは、徳を飾りとし、よい生活の模範を人々に示すベきである。聖職者の生活は普通人のようにあるベきでなく、天上のみ使や地上の完徳者の生活のようでなければならない。聖職者は聖衣をまとっている時は、キリストの地位を占めているのであるから、自分およびすベての人のためヘりくだって神に祈るベきである。
聖職者が聖衣の前と後ろとに聖なる十字架のしるしを帯びているのは、常にキリストの苦難を思い起こすためだ。聖職者が式服の前に帯びている十字架は、キリストのみ足跡を忠実にみまもり、それに従おうとして熱心に努めるためだ。聖職者の後にしるされている十字架は、他人があなたに加えるあらゆる反抗と害悪とを神のみ名によってあわれみ深く堪え忍ぶためだ。(3:17:12~17)

キリスト:
愛する私の下僕よ、聖職が着る衣の前に帯びている十字架は、聖職者自身の罪を悲しむため、後のは他人の罪を同情をもって嘆くためである。したがって聖職者は神と人との仲保者であることを覚え、神の恵みとあわれみとを得るため、祈ることと聖なる供え物をささげることとを怠ってはならない。
聖職者はミサを執行するとき、神をあがめ、天使を喜ばせ、聖なる教会の徳を建て、生者を助け、死者にあわれみを施し、自分をすベての善事にあずかる者とするのである。(3:17:18~19)

第18章 聖職者の任務は神聖であること

聖職者自身の自覚:
聖職者の任務は、いかに偉大であり尊ぶベきものであろう。彼は聖なる言葉をもって全能の主を讃美し、その唇をもって主を祝福し、その手をもって主を奉持し、その口をもって主を拝受し、定められたとき忠実な人々に主を授けることを委ねられているのだ。
絶対に聖なる主が、繰り返し聖職者の手に委ねられ、その口で語られるのであるから、聖職者がいかに純真であり、その身体がいかに聖潔であり、その心はいかに無垢であるベきかは明白であろう。
キリストの御身体をたびたび拝受する聖職者の口からは、神聖な建徳的な尊敬すベき事がらのほか何ももれるベきではない。キリストの御身体を常に拝見する彼の目は清明純潔でなければならない。天地の創造者をたえず奉持する聖職者の手は清く、常に天に向けられていなければならない。(3:18:1~5)

聖職者自身の自覚:
聖職者に語られた特別な御言葉があります。「あなたがたの神、主なる私は聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」。(3:18:6)

聖職者自身の祈り
全能の主よ、み恵みをもって私たちを助け、聖職の地位を受けた私たちが、全身全霊を捧げて、聖なる良心をもって、過ちを犯すことなく、敬虔にあなたに仕えることができますように。そしてもし私たちが不本意に間違いを犯しているとしたら、せめて私の過ちを反省し、正しい道を歩み、これからは謙遜な心で、奉仕に当たることができますようにお導きください。(3:18:7~8)

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