ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

自由祈祷と成文祈祷

2016-12-15 14:50:53 | 雑文
自由祈祷と成文祈祷

聖公会の礼拝では原則としていわゆる「自由祈祷」はなされない。定められた式文に従って、定められた祈祷を捧げる。代祷でも代祷項目を読み上げる、あるいは語ることはあっても、祈祷は諸祈祷から選ばれた成文祈祷である。
そのため他教派の方々との共同の礼拝や集会などで聖公会の信徒は、かなり戸惑うようである。聖公会だけで育った信徒たちは他教派の人々が自由に、堂々と祈っているのを見て驚き、憧れるらしく、どうしたら自由祈祷が出来るのかと悩むらしい。私はそういう人には先ず、礼拝での祈りの時に祈祷書を見ないで目をつぶるところから始めるといいと指導する。そのことについて、あまり指摘されないことだが、礼拝や集会での祈りの時に聖公会の信徒たちは目を開いて、祈祷書の祈りを目で追っている。つまり聖公会では目をつぶって祈るという習慣がほとんどない。(例外的なケースは食前の祈りぐらいかな)。私は「自由祈祷」と「目をつぶって祈る」ということとはかなり密接な関係があると思われる。
私自身は自由祈祷しかない教派から礼拝式文に基づき、成文祈祷に憧れて聖公会に移ったので自由祈祷の必要をほとんど感じない。
聖公会で自由祈祷に近い祈りの形は「ロザリオの祈り」だと思う。ロザリオの祈りとは珠を一つづつ指で送りながら、「主よ憐れみ給え、キリストよ憐れみ給え、主よ憐れみ給え」(キリエ エレイソン)を繰り返す祈りで、これなら徹夜の祈りでも可能になります。
このキリエ・エレイソンの祈りは素晴らしい祈りであるが、ただ日本語訳が良くない。「憐れみ給え」ではいかにも惨めったらしい。このキリエ・エレイソンをいかに翻訳すべきかは、これからの日本の教会を考える際に非常に大きな課題であろうと思う。私はこの祈りの真意は「主よ、こっち向いて」であろうと思っているが、これでは礼拝にならない。「主よ、御顔を向け給え」ではよそよそしい。この祈りはもっと濃密な関係を前提にしている。キリエ・エレイソンについては次のブログを参照してください。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/0a85cba2c32d73b242d1945f0da4f103

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