ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

原本ヨハネ福音書巻5と巻6

2015-06-30 08:43:47 | 聖研
原本ヨハネ福音書 巻5

1.生まれつきの盲人を癒す

シーン1 癒しの奇跡<9:1~12>

語り手:さて、イエスと弟子たちとが町を歩いていたとき、一人の目の見えない男を見かけました。イエスは誰にでも気軽に声をかけられる癖があります。この時も、その男に、どうして目が見えなくなったのですかというようなことを話しかけておられました。その男は生まれたときから目が見えなかったと言います。そこで弟子たちは、その男に聞こえないように気を使いながらイエスに質問いたしました。

弟子たち:先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰かの罪の結果なのでしょうか。それは本人のせいですか。それとも、両親のせいですか。
イエス:それは本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもありません。生まれながらの障害をそういう風に過去の何かの因縁のように考えるのは根本的に間違っています。そうではなくて、むしろこれからこの障害を通して神が何をなさるのかということを考えなければなりません。過去の原因を探索するのではなく、将来に向けて希望を持って受け止めることが大切なことです。神は必ずこの人の障害を通して、神が生きておられることを証明なさるでしょう。
(ここからはイエスの独り言)私は私を遣わされ方の仕事を生きている間に仕上げなければならない。そのうち私はここを去るときが来る。私は世にいる限りは、世の光として生きる。だが、私が居なくなったら、この仕事を誰が引き嗣いでくれるのだろうか。

語り手:イエスは、こう話ながら地面からひと握りの土を手に取り、それを唾でこねて、その男の目にお塗りになり、言われました。

イエス:シロアムの池に行って泥を洗い落としてごらん。

語り手:目の見えない男はイエスに言われたとおり、手探りで池に行き、目を洗い落としました。すると、不思議なことに目が開き、光を感じるようになりました。彼にとって初めて見る景色です。それで喜び勇んでイエスの元に帰ってきました。彼のことをよく知っている近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々は、互いにいろいろ噂話をしていました。

人々A:彼は本当に、あそこに座って物乞いをしていた人なの。
人々B:いや違う。似ているけど、別人だろう。
元盲人:私はあそこで座って物乞いをしていた盲人です。間違いありません。
人々C:それじゃ、どんな風にして、あんたの目が見えるようになったんですか。
元盲人:私もよく分かりません。ただ私の知らない人が、何かを私の目に塗り、シロアムに行って洗いなさいと言われましたので、私はその通りにしただけです。そうしたら見えるようになりました。ただそれだけです。
人々D:じゃ、その人は今どこにいるのですか。
元盲人:知りません。

シーン2 事件、その事実確認 <9:13~34>

語り手:結局、人々は事実関係がはっきりしないまま、元盲人をファリサイ派の所に連れて行きました。その日が安息日だったからです。

ファリサイ派の人A:さて、あなたはどのようにして見えるようになりましたか。
元盲人:その時、私はまだ目が見えていませんでしたから、よく分かりませんが、私の知らない人が私の目に何か泥のようなものを塗ったのだと思います。それで、私はあの方に言われたとおり、シロアムの池に行って、泥を洗い落としました。すると不思議なことに目が見えるようになったのです。きっとあの人は神さまの使いだと思います。
ファリサイ派の人B:黙れ。いらんことを言うな。そんな筈がないではないか。その男は明らかに安息日の規定に違反している。そんな男が神のもとから来た筈がないではないか。
ファリサイ派の人C:しかし罪のある人間が、はたしてこんな奇跡を行うことができるでしょうかね。

語り手:訊問するファリサイ派の人々の間で意見が分かれ議論が始まりました。しかし、いくら議論をしても事実関係がはっきりしません。そこで、彼らは元盲人を再尋問することになりました。
 
ファリサイ派の人D:お前はお前の知らない人に目を開けてもらったということだが、いったい、お前はその人のことをどう思っているのだ。
元盲人:はい、あの方は神さまから遣わされた預言者だと思っています。
 
語り手:それでファリサイ派の人たちはこの人が本当に盲人であったのか、どうかを確認するために彼の両親を呼び出すことに致しました。つまり、奇跡そのものがなかったことにしたいのだと思われます。

ファリサイ派の人A:この男は生まれつき目が見えなかったと言っているが、彼はお前さんたちの息子さんですか。
元盲人の両親:はい、そうです。確かに私たちの息子で、生まれた時から目が見えませんでした。
ファリサイ派の人A:分かった。それで、その息子がどうして見えるようになったんですか。
元盲人の両親:それは私ども分からないのです。どなたが息子の目を開けて下さったのでしょうかね。それは本人にたずねて下さい。もういい年をしているのですから、自分のことは自分で言うでしょう。

語り手:両親がこのような返答をしたのは、ユダヤ人たちを恐れていたからです。というのは、その頃、ユダヤ人の誰かが、イエスをキリストだと告白したら、会堂追放者にすると決めていたからです。
さて、ファリサイ派の人たちは両親への訊問も不発に終わってしまったので、もう一度、元盲人を呼び出し、厳しく訊問いたしました。

ファリサイ派の人A:もう一度聞くぞ。今度は、神の前で正直に答えなさい。われわれは、あの者が罪ある人間だと確信しているのだ。
元盲人:あの方が罪人であるかどうかは私は知りません。ただ一つ知っていることは、私は目が見えませんでしたが、今は見えている、ということだけです。
ファリサイ派の人B:じゃ、もう一度確認するが、あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。
元盲人:もうすでにお話しいたしましたのに、あなた方は少しも聞いてくれません。何回も同じことを聞かないで下さい。それとも、私の話を聞いて、あなた方もあの方の弟子になりたいのですか。
ファリサイ派の人C:馬鹿なことをいうな。お前は彼の弟子かも知れんが、われわれはモーセの弟子だ。神がモーセに語られたことを知っているが、あの者がどこの馬の骨かそんなことを知るもんか。
元盲人:あの方がどこから来られたか、あなた方がご存じないとは、実に不思議なことです。あの方は私の目を開けてくださったのですよ。神さまが罪人の言うことをお聞きにならないことぐらいは、私でも知っています。しかし神さまは神さまをあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになられます。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことはございません。あの方が神さまのもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。
ファリサイ派の人D:生意気なことを言うな。お前は全く罪の中に生まれたのに、われわれに説教でもするつもりなのか。

シーン3 事件、その後で <9:35~41>

語り手:ファリサイ派の人たちは腹を立て、元盲人を外に追い出しました。イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになりました。それで彼を探し出して呼びかけました。

イエス:あなたは、私が誰かわかりますか。<しばらく沈黙の後>あなたはあなたの目を開いた方を信じますか。
元盲人:信じたいです。でも旦那、その方はいったいどんな人なのですか。
イエス:そうか、あなたはその人に会いたいのか。その人は今あなたの目の前にいます。あなたと今、話しをしているのが、その人です。
元盲人:ああ、あなたでしたか。信じます。主よ。<彼はイエスの前にひざまずいた>
イエス:私がこの世に来たのはこの世を裁くためなのです。見えない者が見えるようになり、見えている者が見えなくなるためです。

語り手:元盲人と一緒にいたパリサイ派の人がこれを立ち聞きして、言いました。

パリサイ派の人:何だって、まさか、お前を私たちは盲人だというのか。
イエス:そうだ。もしもあなた方が盲人であったなら、あなた方は罪を犯さないで済んだであろうが、あなた方は、自分たちは見える、と言うのであれば、あなた方の罪は続くのだ。

シーン4 ユダヤ人の間で対立 <10:19~29>

語り手:この話をめぐって、ユダヤ人たちの間でまた対立が生じました。

ユダヤ人A:彼は悪霊に取り憑かれて、狂っている。だのになぜ、あなたたちはあいつの言うことに耳を傾けるのか。
ユダヤ人B:悪霊に取り憑かれている人がああいう発言は出来ないでしょう。それに悪霊が盲人の目を開くなんていうことはにはあり得ない。

語り手:その頃、エルサレムでは「宮きよめの祭」、つまり「神殿奉献記念祭」が行われていました。冬でした。イエスが神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲み、言いました。

ユダヤ人たち:いつまで、私たちに気をもませるつもりなのか。もしあなたが本当にキリストなのかどうか、はっきり言ったらどうだ。
イエス:私はいつでもそう言っているでしょう。それなのに、あなた方がそれを信じようともしないだけじゃないですか。私の父の名において私が行っている行為そのもが私が誰なのかということを証明しているではありませんか。それなのに、あなた方はそれを認めようとしない。その理由は簡単です。あなた方が私の羊ではないからでしょう。私の羊は私の声を聞き分けることができます。私も私の羊を見分けることが出来ます。だから彼らは私についてきます。だから私は彼らに永遠の生命を与えますし、彼らを見失うこともないでしょう。また誰も彼らを私の手から奪うことは出来ません。私に彼らを与えて下さった父は誰よりも強く、だれも父の手から奪うことはできないからでです。

2.イエスの説教

シーン1 説教「良い羊飼い」<10:1~18、30>

イエス:私はこれから大切なことをお話しいたしますので、よく聞いてください。羊たちが飼われている中庭に門を通らないで、塀を乗り越えたりなどして侵入する人は盗人であり、強盗です。たとえ、その人の職業が羊飼いであっても、あなた方にとっては盗人です。門を通って、入ってくる人だけがあなた方の羊飼いです。門番は正規の羊飼いには門を開き、羊たちは彼の声を聞き分けます。羊飼いは自分の羊の名前を1匹づつ呼んで中庭の中から連れ出します。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って歩きます。羊はその声を知っているので、ついて行きます。しかし、ほかの者には決してついて行かず、かえって警戒して逃げます。その人の声を知らないからです。みなさん方もよくご承知の通りです。

語り手:イエスは分かりやすい実例を用いて話し始めましたが、聞いている人はそれが何を意味しているのか、ピンとこなかったようです。

イエス:別の角度から話しましょう。私が羊たちの門だとします。そうすると開門する前に来た人はすべて盗人であり、強盗です。だから羊たちはその人たちを無視します。私が門なんです。私を通って入る人が来れば、羊たちはうれしそうに、その人に近づき、門から入ったり出たりして美味しい牧草にありつくことが出来ます。盗人は盗み、殺し、滅ぼすために入って来ますが、私は羊たちが元気になり、よく育つために来たんです。
先ほどの実例に戻りますと、私は良い羊飼いなんです。良い羊飼いとは羊のために命を捨てる覚悟が出来ています。本当の羊飼いではなく、自分の羊を持っていない雇われた羊飼いは、狼が来たり何か身に危険が及びますと真っ先に逃げ出します。羊たちを置き去りにしたままです。その間に狼がやって来て、羊を襲い追い散らしてしまいます。その人は雇い人なので羊のことを心にかけていないからです。よくある話ですね。
私は良い羊飼いです。私は自分の羊たちを知っていますし、羊たちも私のことを知っています。それは父が私を知っており、私が父を知っているのと同じことです。私は羊たちのために命を捨てます。
私が身を挺してでも守らなければならない羊たちは、中庭の外にもいます。私はその羊たちも導かなければならないと思っていますし、願ってもいます。きっと、その羊たちも私の声を聞くでしょう。こうして中庭の羊たちも中庭の外の羊たちも同じ一つの群れになって、一人の羊飼いに導かれることになります。
私は私自身の生命を捧げます。だからこそ、父は私を愛してくださっているのです。それは私が再び生命を得るためなのです。誰も私の生命を私から取り上げることはできません。そうではなく私は自分の意志で私の生命を棒げるのです。私は自分でそれを棒げる権利を持っていますし、またそれを得る権利も持っています。私の父は私にこれを命じられたのです。私と父は一つです。

シーン2 説教、その後で <10:31~42>

語り手:ユダヤ人たちは、「私と父とは一つです」という言葉を聞いて、怒り、石を拾い、イエスを石打にしようとしました。
 
イエス:私は父の御心に従って多くの善いことしてきました。その中のどの行為のために、私を石打ちにして殺そうとしているのですか。
ユダヤ人:私はお前が行った善いことで石打しようとしているのではない。ただ一つ、お前が神を冒涜したからだ。お前は人間の分際で自分を神としているからだ。
イエス:そうか。わかった。じゃ聞くが、聖書に「わたしは言う。あなたたちは神々である」(Ps.82:6)というみ言葉が書かれているのを知っているでしょう。あなた方が後生大事にしている聖書の言葉ですよ。そこでは神の言葉を受けた人たちのことを「神々」と呼んでいますよね。その聖書のみ言葉は間違いなんですか。あるいは、何時の間に廃棄されたのですか。それなら、神が聖別してにこの世に遣わされた者を、「私は神の子だ」と言ったと言って「お前は神を冒涜している」などと言っていいのでしょうか。もし、私が父の御心をおこなっていないのであるなら、私を信じなくてもいいでしょう。しかし行っているのであれば、私を信じなくても、その行っていることを信じたらどうですか。そうすればあなた方は私のうちに父が、また私が父のうちにいるということがわかり、了解するでしょう。

語り手:そこでユダヤ人たちは再びイエスに石を投げつけようとしたが、イエスは彼らから逃れて、ヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた地方に行って、そこに滞在されました。そこに多くの人たちが来て、イエスに言いました。「ヨハネは何の奇跡もおこないませんでしたが、彼があなたのことについて話したことは、すべて本当でした」。そこでは、多くの人がイエスを信じました。

原本ヨハネ福音書 巻6

1.ラザロの甦り

シーン1 ラザロ、危篤の知らせ <11:1~16>

語り手:ベタニアの村にイエスが親しくしていた家庭がありました。長女マルタと次女マリアと弟ラザロの3人の姉弟でした。<著者註:このマリアはイエスの足に価な香油を塗ったマリアと同一人物である(12:3)。>
姉二人が可愛がっていたラザロがかなり重い病気にかかり、姉妹たちはイエス宛の手紙を書き、使いの者に持たせました。「先生、あなたにも可愛がっていただいている弟のラザロが病気で死にそうです」。それを受け取ったとき、イエスは非常に冷静に、「この病気で死ぬことはないであろう。このことによって神の栄光が現れ、神の子が崇められるにことになる」と言われただけで、2日間もベタニア村に行く気配を見せませんでした。そして病気の知らせを受けて3日目のことです。

イエス:もう一度、ユダヤの町に行こう。
弟子たち:先生、それはおよしになった方がいいでしょう。あそこは非常に危険な場所です。ついこの間もあそこのユダヤ人たちはあなたを石で打ち殺そうとしたではありませんか。それなのに、またそこへ行かれるというのですか。やめときましょうよ。
イエス:もうしばらくは大丈夫だろう。私の友だちラザロは眠っているのだ。だから私は起こしに行く。
弟子たち:先生、眠っているだけなら、私たちがそんな危険を冒すこともないでしょう。そのうちに元気になりますよ。<著者註:だがイエスは彼の死のことを行ったのであって、それを彼らは、イエスが眠気の眠りについて言っているのだ、と思ったのである。>
イエス:いや、はっきり言って、ラザロは死んだのだ。私が臨終の場にいなかったことはかえって良かったのかもしれない。このことによってあなた方が信じるようになるかも知れないからね。
トマス(仲間の間では「双子のトマス」と呼ばれている):私たちも行こう。先生に何かがあったら、私たちも一緒に死ねばいい。

シーン2 マルタ、マリアの家にて <11:17~37>

語り手:さて、イエスたち一行がベタニア村に到着したときには、ラザロは既に死後4日もたっており、墓に葬られていました。
<著者註:ベタニアはエルサレムから3キロほどのところにある。>
イエスと弟子たちとがベタニア村に近づくと村の入り口付近には大勢の弔問客が集まっていました。マルタもイエスが来られたと聞いて、駆けつけて来ましたが、マリアは家の中で座わりこみ呆然としている様子です。マルタはイエスに言いました。

マルタ:先生、先生がもしここにいてくださいましたら、私の弟は死なないで済んだでしょうに。でも、あなたが神さまにお願いしてくだされば、神さまは何でもかなえてくださると、私は今でも承知していますが、もう手遅れでしょうね。
イエス:あなたの弟は復活します。
マルタ:もちろん、私だって終末の日にすべての人が復活するということは知っていますし、そう信じていますわ。
イエス:私が復活すると言ったのはそんなことではありません。私が復活であり、生命なんです。だから私を信じる者は死んだとしても、生きるということです。そして生きて私を信じる者はみな、永遠に死ぬことがありません。あなたはこれを信じますか。
マルタ:ええ、先生、あなたがキリスト、世に来たるベき神の子である、と信じてきましたけど・・・。

語り手:マルタは中途半端な言葉を残して、家に帰り妹マリアの耳元で、「先生が来ておられますよ、そしてあんたを呼んでおられます、とささやきました。マリアはそれを聞くと、大急ぎで立ち上がり、イエスを迎えに行きました。家に来ていた弔問客たちはマリアが急に立ち上がって出て行くのを見て、彼女について行きました。彼女が泣くために墓に行くのだと思ったのです。イエスは人々に案内されて、ラザロが葬られている墓地の前まで来ていました。マリアはイエスの姿を見るなり、足もとにひれ伏し言いました。

マリア:先生、先生がもしここにいてくださいましたら、私の弟は死なないで済んだでしょうに。

語り手:イエスは彼女たちが泣き、一緒に来たご近所の人たちも泣いているのをご覧になって、感動し、身震いして言われました。

イエス:彼が埋葬されているのはどこですか。
人々:先生、おいでください。そして見てやってください。

シーン3 墓場にて <11:38~44>

語り手:イエスはラザロが葬られている墓を見て、思わず涙を流されました。

あたたかい人々:ああ、イエス様が涙を流しておられる。それほどラザロを愛しておられたのだ。
冷ややかな人々:盲人の目を開けたこの人でもラザロが死なないようにはできなかったのだ。

語り手:イエスはこの評論家的な言葉を聞いて溜息を付き、墓の入り口に近づき言われました。墓は洞穴で大きな石でふさがれていました。

イエス:どなたか、墓をふさいでいる石を取りのけてください。
マルタ:先生、ラザロは死んでもう4日もたっていますし、もう臭いですよ。
イエス:もし信じるなら、神の栄光が見ると、言っておいたでしょう。

語り手:人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで祈られました。

イエス:父よ、私の祈りを聞いて下さることを感謝いたします。

語り手:イエスはこのように祈った後、墓穴に向かって大声で呼びかけました。

イエス: ラザロよ、出て来なさい。

語り手:すると、死んでいたラザロが、手と足を布で巻かれたまま出て来ました。顔は覆いで包まれていました。イエスは人々に静かに言われました。

イエス:手と足とに巻かれている布をほどいてやってください。

シーン4 事件、その後 <11:45~48>
 
語り手:それでユダヤ人たちはマリアに近づき、「素晴らしい」と言ってイエスを信じました。しかし、ある者たちはパリサイ派の人々の所に行き、イエスがしたことを告げ口しました。その報告を受けて、祭司長たちとファリサイ派の人々とが緊急会議を開き、「イエスという男は多くの奇跡を行っているが、我々はそれにどう対処すべきか」ということを協議しました。もしもこのままイエスを放置していたら、ほとんどの民衆が彼を信じるようになるだろう。その結果、ローマ人が来て、エルサレムを占拠し、私たちの自治を取り上げるかも知れない。

シーン5 イエスの殺害計画 <11:53~57> 
語り手:ラザロの復活事件後に開催された協議の結果、イエスの死刑が決議されました。それでイエスはユダヤ人社会で公然と歩くことは避け、荒野に近い、エフライムと呼ばれている町に移動し、そこで弟子たちと共に滞在しました。
ユダヤ人の過越の祭が近かづき、多くの人たちがエルサレムに集まって来ました。その人たちは神殿でイエスを探し、イエスの噂話で持ちきりでした。それで祭司長たちとパリサイ派の人々は、イエスを逮捕するために「イエスの居所を知っているものは申し出よ」という布令を出しました。

教会的編集者の挿入 11:49~52

2.ナルドの香油 <12:1~11>
 
語り手:過越の祭の6日前(安息の規定があけた土曜日の夕)、イエスは動き始めました。まず、死人の中から甦らせたラザロの住むベタニア村に姿を現しました。マルタ、マリア、ラザロの3人はイエスのために宴会を開きました。マルタは得意の料理の腕をふるい、ラザロはイエスの側で接待していました。その時、そこにマリアが高価な本物のナルドの香油を1リトラ(約326グラム)持ってきて、イエスの足に塗り、自分の髪の毛でぬぐいました。家は香油の香りが満ちました。それを見ていたイエスの弟子の一人であるイスカリオテのユダ(後にイエスを裏切ることになる)が言いいました。

ユダ:何という無駄なことを、この香油を300デナリ(労働者の1年分の賃金に相当する)で売って、貧しい人たちに施せば、いいものを。

語り手:彼がこんなことを言ったのは、貧しい人たちのことを考えていたのではなく、彼はイエスから預かっていた財布の中から私用にくすねていたのです。それを見ていたイエスが言ました。

イエス:この人がしていることを邪魔してはいけないな。この香油は私の埋葬の日のために彼女が貯めていたものなのです。貧しい人たちはいつでもあなた方の近くにいて、施しをしようと思えば自由に出来るではありませんか。だが私はあなた方の側に何時までもいるわけではありません。

語り手:イエスがベタニア村に姿を現したということを聞きつけた大勢のユダヤ人たちがやって来ました。それは勿論イエスを一目見るというだけではなく、死んで甦ったというラザロを見るためでもありました。ラザロの評判を聞いた祭司長たちはラザロも生かしておく訳にはいかないと決議しました。なぜなら多くのユダヤ人たちがラザロのことで、イエスを信じるようになったからです。

3.エルサレム入城 <12:12~19>
 
語り手:その翌日、つまり過越の祭の5日前(日曜日)のことです。祭のために各地からエルサレムに来ていた大勢の人々は、イエスがエルサレムに来られるということを聞き、町の城門の近くで、椰子の葉を手にして待ち構えています。そこに小さなロバに乗ったイエスが弟子たちを従えてやって来ました。人々は手に手に椰子の葉を振りかざし、叫び、歌い、イエスを歓迎いたしました。

群衆:ホサナ、主の名において来られた方に祝福あれ。そしてイスラエルの王に。

語り手:人々は聖書の言葉「恐れるな、シオンの娘よ。見よ、汝の王が来たる、驢馬の子に乗って」という情景を思い起こしたのでしょう。群衆の中にはラザロを墓から呼び出し、死人を甦らせた時、その現場で見ていた人々も居り、彼らがその時のことを話回っていたので、イエスを一目見ようと思って出迎えた人々もいたようです。しかし弟子たちはこの歓迎が何を意味しているのか分からなかったようです。しかし後にイエスが復活されたとき、この時のことを思い出したとのことです。
他方、この様子を見ていたファリサイ派の人々は「もう、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ってしまった」と語り合っていました。

4.ギリシャ人の来訪

シーン1 ギリシャ人たちの来訪 <12:20~22>

語り手:さて、過越の祭にはいろいろな人たちが、全国各地からやって来ます。中には外国人もいます。これらの外国人はユダヤ人の生き方や聖書に興味を持ち、ユダヤ人たちの礼拝に参加している人たちもいます。ここにイエスに会いたいというギリシャ人たちがいました。彼らもイエスの噂を聞いて会いたいと思ったのでしょう。どういう理由か分かりませんが、彼らはガリラヤのベッサイダ出身のフィリポを訪ねて、イエスへの取り次ぎを頼みました。

ギリシャ人たち:お忙しいところ、お願いがあります。私たちは過越の祭のために来た旅人ですが、この機会にぜひイエス様にお会いしたいのでお取り次ぎいただけるでしょうか。

語り手:フィリポはギリシャ人たちの申し出を、どうするべきか考えます。時が時ですし、イエスに何か害でも及ばないかと心配して、アンデレに相談いたしました。その結果、取りあえずイエスに相談した方がいいだろうということで、2人でイエスに話しました。それを聞くとイエスは非常に驚いた様子で、緊張し、独白します。

シーン2 私の時が来た <12:23~36>

イエス:いよいよ私の時が来た。これから最後の時が始まります。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のままですが、死ねば、多くの実を結びます。自分の生命を愛する人はそれを失いますが、この世で自分の生命を憎む人は、それを保って永遠の命に至ります。もしも誰か私に仕えようとする人は、私に従って来ればいい。そして私に仕える人は私のいる所にいることになるでしょう。私に仕える人は、私の父もその人を重んじるでしょう。
今、私の魂は混乱しています。何と言ったらいいのだろうか。父よ、私をこの時から救ってください。いや、いや、そうではない。このために、私はこの時まで生きてきたのだ。父よ、あなたの御名の栄光を現して下さい。

語り手:その時イエスの祈りに合わせるかのように、天からの声が響き渡りました。

天の声:私は既に栄光を現した。さらに栄光を現そう。

語り手:そこに居合わせていた人々は「雷が鳴っている」と言い、また別の人々は「天使がこの人に話しかけている」と言いました。

イエス:あの声は私へのものではありません。あなた方のための声なんです。今こそ、この世が裁かれる時、今こそ、この世の支配者たちが追放されるのです。そして人の子は地上から引き上げられ、すべての人を自分のもとへ引き寄せるでしょう。

語り手:この謎のような言葉は、イエスがどんな死に方をするかを予言したものです。

群衆:私たちは、聖書によって、キリストは永遠にとどまる、と学んで来ました。それなのに、どうしてあなたは、人の子は地上から引き上げられねばならない、などと言うのですか。その人の子とはいったい誰のことですか。
イエス:まだしばらくの間、光があなた方の所に留まっているでしょう。光があるうちに歩きなさい。それは闇があなた方を捕まえないためです。そして闇の中を歩む人は、自分がどこに行くのかを分かりません。光がある間に、光を信じなさい。光の子となるためです。

語り手:この言葉を残してイエスは立ち去り、彼らから身を隠くされました。

5.ヨハネ福音書のここまでのまとめ <12:42~47>

語り手:ユダヤ人社会の指導者たちの中には彼を信じた人々も少なくありませんでした。しかし彼らはファリサイ派の人々の手前、その信仰を告白しませんでした。何故なら会堂追放者にされることが怖かったからでした。要するに、神からの誉れよりもむしろ人間からの誉れを選んだのです。

イエス:私を信じる者は、私を信じるのではなく、私を遣わした方を信じることになるのです。そして私をしっかりと見る者は、私を遣わした方をしっかりと見るのです。私はこの世ための光として来ました。私を信じる者が誰も闇に留まらないためです。そして、もしも誰かが私の言葉を聞いて、それを保たないとしても、私はその人を裁くことをしません。私はこの世を裁くために来たのではなく、この世を救うために来たのだからです。

教会的編集者の挿入:12:37~41、48~50

最新の画像もっと見る